トリップ 22
腕を伸ばしたまま目を閉じていたビアンカの顔色が、突然変わった。足元で様子を見ていたタマも、思わず飛び上がった。
「どうしたのっ!」
「今……何かに触れた」
唖然と呟くビアンカは、見開いた瞳で前方の空間を見ている。タマも慌ててビアンカの視線の先を凝視するが、何も視野には入らなかった。
「気のせいじゃないの?」
辺りを見回しながら、タマはビアンカを見上げた。
「確かに、何かに触れたの……」
真剣な顔のビアンカは、また両腕を空間に伸ばした。ほんの少しの静寂、ほんの少しの間を経て……タマの目に、ビアンカの表情が変わって行くのが映った。それは、驚きと言うより感動に近かった。
「何に触れたの?」
恐る恐る聞いてみるが、ビアンカはその感触を愛おしむ様に表情を和らげた。
「最初は一瞬だったけど、今度は確かに感じた……あれは、十四郎の指先……」
夢見る様な表情で呟くビアンカだったが、タマは信じられないと言った顔で更に辺りを見回した。だが、どう考えても分からない。周囲に別に変わった様子も無く、タマは首を傾げた。
「まさか……」
嫌な予感がタマを包む。もしかすると、あまりの辛さにビアンカのココロが壊れてしまったのでは、と。考えただけでタマの胸は押し潰されそうになる、どうしていいか分からず身体が震え、喉がカラカラに乾いた。
その時、ビアンカがまた大きく前方に手を伸ばした。慌てたタマは大声で叫ぶと、伸ばされた腕にしがみ付いた。
「もうよせよっ! しっかりしろよっ!」
「えっ、何?」
近くで見るビアンカの顔は、とても壊れている様には見えない。むしろ、その瞳は真っ直ぐに何かを見詰めていた。そして、タマに限りない優しい表情を向けたビアンカは、ゆっくりと呟いた。
「十四郎がね、迎えに来てくれたの」
そして、伸ばされたビアンカの手首から先が、空間の中に吸い込まれる様に消えていた。
「ビアンカ!!」
タマが驚くのは当然だった、目の前でビアンカの手が消えようとしているのだ。気は動転し、考える前に、タマは泣き叫びながら必死でビアンカの腕を引っ張った。
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アミラは目の前の光景に、瞳孔が開く。十四郎の伸ばした腕の先が、空間に消えているのだ。
「十四郎! 腕の先が!」
叫ぶと同時に十四郎の腕を思い切り引っ張るアミラに、十四郎は穏やかな笑顔を向けた。
「見つけました。ビアンカ殿を」
「冗談言ってる場合かっ! お前の手が消えそうになってるんだぞ!」
唾を飛ばし叫ぶアミラは、渾身の力で十四郎の腕を引っ張る。脳裏には、このまま全身が消えて行く十四郎が映り、冷や汗と猛烈な動悸で全身の毛が逆立った。
だが、そんなアミラの心配をよそに、十四郎は見えない前方を穏やかに見続けた。
「大丈夫です。ビアンカ殿の手を、しっかりと握っています」
視線をそっとアミラに向けた十四郎は、凛とした声で言った。
「そんな、まさか……」
まだ、信じられないアミラは十四郎の腕を引っ張る事を止めない。そして、そのまま少しづつ腕の消える場所に近付く、離して逃げるなんて選択肢はアミラには存在しなかった。
自分はどうなっても、十四郎を守る……それだけしか、アミラは考えていなかった。
やがてアミラの顔が、十四郎の腕と一緒に少しづつ消えて行く。思わず目を閉じ、息も止めたアミラは水の中に潜った感覚に包まれる。だが、不思議と苦しさは感じず、そっと目を開けた。
「嘘だろ……」
呟いたアミラが目にしたのは、紛れもなく十四郎の手に握られた、見覚えのあるビアンカの手だった。しかも、それだけではない。ビアンカの手を必死に引っ張る、自分とよく似た猫が確かに見えた。
「誰だ? お前」
思わずアミラが問い掛けると、相手の猫も驚いた顔で聞き返した。
「お前こそ誰だよ?」
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真っ先に飛び出したのは、小夜だった。遠目に見ても、ビアンカの両腕が消えかけているのだ。
「ビアンカさん!!」
小夜の叫び声に直ぐに真桜が反応し、勇之進と士郎も青くなって駆け出した。近付くとビアンカの腕が完全に消えているのが分かった。そして、タマの上半身も同じ様に消えかけていた。
「タマちゃん!!」
一番驚いたのは小夜で、その場に座り込み動けなくなった。
「これは……ビアンカさん……」
真桜も震えが止まらない。何時もの気丈な真桜ではなく、目を見開き小夜と同様に動けなくなった。勇之進も士郎も言葉を失い、立ち竦む。
「大丈夫、帰る道が分かったの……十四郎が来てくれた」
驚きを隠せない小夜達に、ビアンカは穏やかに微笑む。その微笑みには限りない喜びと、安堵感が溢れ、緊張で固まっていた真桜のココロを解きほぐした。
「大丈夫なんですね」
真桜の瞳には、嬉しさの涙が滲んだ。
「ええ……小夜、心配しないで。私は、十四郎の元に帰る。だから、笑顔で見送ってね」
ビアンカの笑顔は、小夜を優しく包み込んだ。
「はい……」
身体の震えは止まらないが、精一杯の笑顔で小夜も微笑み返す。
「勇之進、士郎もありがとう……タマをお願い」
今度は勇之進達に笑顔を向けたビアンカは、腕にしがみ付くタマの事を頼んだ。
「あっ、ああ」
「あっ、はい」
二人はタマを、ビアンカの腕から剥がす。すると、タマの上半身は何も無い空間から姿を現した。直ぐに小夜が抱き締めるが、タマは小夜の腕の中で激しく暴れた。
視線を向けたビアンカは、少し目を伏せた。
「ありがとう、タマ……忘れないよ」
その言葉に暴れていたタマが、急に大人しくなり尻尾をダラリと下げた。そして、ビアンカは、皆の顔を順番に見て、また穏やかな笑顔を向けた。
「皆、本当にありがとう……」
そして、小夜が言葉を返そうとした時、ビアンカの身体は静かに空間に消えて行った。
「ビアンカさん……帰っちゃった……」
小夜は、真桜に抱き付き胸の中で大粒の涙を流した。その頭を優しく撫ぜ、真桜はビアンカの消えた空間を見詰めた。
「そうですね……帰りましたね……一番、望む場所に。だから、小夜さんも祝福してあげないといけませんね」
「はい」
涙を拭った小夜も、ビアンカの消えた空間に思いを馳せた。
「本当に、帰れたんでしょうか?」
士郎は少し目を伏せ、、小声で勇之進に聞いた。
「さあな……でも、あの笑顔は本物だった」
勇之進は思い出したビアンカの微笑みが神々しくて、自然と笑顔になった。




