トリップ 20
朝が来るまで、ビアンカはドキドキして眠れなかった。楽しみだからではなく、例えるなら”けじめ”だった。どう切り出せばいいか、考えはまとまらずに、気が付くと朝だった。
直ぐにでも帰る道を探しに夜の世界に飛び出したいと思った。でも、小夜達にちゃんと別れの挨拶がしたかった、黙って行くのは絶対嫌だった。
明るくサヨナラを言うつもりだったのに、朝食の席では言い出せなくて笑顔は必然的に少なくなる。小夜は気付いていたが、言葉には出さない……否、出したくなかった。会話の少ない朝食の輪は、お尻の座りが悪くて皆の箸は進まなかった。
「ビアンカさん、これを受け取って欲しいんですが」
そんな雰囲気を壊す様に、急に真桜が短刀を手渡した。それは、豪華な絹で織られた刀袋に入れらており、袋から出してみると鞘には”蝶”の家紋があった。
「これは……」
唖然とするビアンカに、真桜が笑顔で説明する。
「これは”懐剣”と呼ばれる物で、武家の婦女子の嗜みです。邪を退ける守り刀であると同時に、自らの精神と行動を正しい道へ導きます」
「正しい道……」
真桜の言葉はビアンカの胸に染みる。目の前の霧が急に晴れる、微かだが光みたいなモノが見えた気がした。
「真桜さん、それは……」
目を見開き、勇之進は開いた口が塞がらなかった。
「えっ?」
その様子に気付いたビアンカは、皆の顔を順番に見た。最後に目が合った小夜は、顔を赤くしていた。
「ビアンカさん……その懐刀は……」
「これは、我が柏木家に伝わる家宝です。代々、当主の妻が持つ物です」
小夜は、赤面して言葉を濁すが、笑顔で平然と言う真桜にビアンカは一瞬遅れて反応した。
”妻”……その言葉が思考をブッ叩き、顔からは火が出た。
「あの、あの、あの……」
あわあわ、となるビアンカ。そこには十四郎の様に戦うビアンカも、近衛騎士団最強と言われたビアンカもいなかった。
「兄上に会いましたら、この懐刀をお見せ下さい、これは、私がビアンカさんを認めた証です」
落ち着き払った真桜は、そっと襟を正した。
「私なんか……」
自信なんてなかった。第一、十四郎が自分を選んでくれるなんて想像も出来なかった。震えながら俯くビアンカに、更に真桜は笑顔を向ける。
「まあ、あの朴念仁の事ですから、家宝を見せたとしても気付かないかもしれませんが……その時は、ビアンかさんが教えてあげて下さい」
「何を……ですか?」
全く見当がつかなかった。真桜の言葉の意味がわからなかった。ビアンカは途方に暮れるが、それよりも十四郎と二人の家庭なんて想像するだけで思考回路はパンクした。
勇之進や士郎はパニックになるビアンカを優しい眼差しで見守っていたが、小さくても女である小夜は、ビアンカの気持ちが痛い程分かり、同じ様に赤面しながら体を小刻みに震えさせた。
「柏木家の、正当な妻候補……」
「どうして私なんですか? 真桜とも会ったばかりだし……私なんて……」
真桜の答えを途中で遮り、ビアンカは声を沈ませる。真桜は一呼吸置いて、嬉しそうにビアンカの手を握る。その手は小さくて、とても暖かかった。
「私は、ビアンカさんが大好きになりました……それでは、答えになりませんか?」
顔を近付けた真桜が、首を傾げた。ビアンカの中で嬉しさと喜びが爆発する、胸が張り裂けそうで、息が出来なかった。そんなビアンカを真桜はそっと抱き締め、ビアンカも震える手で抱き締め返した。
「ありがとう……」
声を振り絞るビアンカに、真桜は耳元で囁いた。
「後は、あなた次第ですから……」
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「すまない……見つけられなかった」
沈みかけた日が濃いオレンジに染まり、夜の闇との境が群青色に染まる頃、リルが十四郎の元に俯きながらやって来た。
「ココ殿は?」
「鬱陶しいから、撒いて来た」
十四郎の問い掛けに、リルはぶっきらぼうに答えた。
「これから、どうする?」
聞いた事の無いリルの声は十四郎を戸惑わせる。その声は弱くて、とても切なかった。
「探します……ビアンカ殿を」
小さく息を吐き、十四郎は遠くを見詰めた。
「見つからなかったら?」
十四郎を見ないで、リルは言った。
「見つけますよ」
遠くを見詰めたまま、十四郎は答える。
「それでも……見付からなかったら?」
最後は消えそうな声で、リルは呟く様に言った……今度は十四郎を真っ直ぐ見ながら。
「私は……」
「いいっ! 聞きたくないっ!」
十四郎の言葉をリルは大声で遮る。周囲が暗くても、リルの瞳には光るモノが滲んでいるのが見えた。そして、急に駆け出すリルの背中が、十四郎にとても小さく儚く見えた。
リルが去った後の川縁には何時の間にか闇が訪れ、空気の温度は駆け足で下がる。やがて夜露が十四郎に肩を濡らし、穏やかな風さえも体温を奪う手助けをした。
それでも十四郎は俯かない。ビアンカを見付けられると信じたいのではなく、信じているから。夜の闇も、冷たい空気も、気持ちまで濡らす夜露でさえ十四郎に関係なかった。
目を凝らし探すのは、ローボに言われた入口。あるかもしれないと、弱気の虫が騒ぎ出すが、十四郎は身体の力を抜いて考えを改めた。
『きっと、ある』
”多分”という願望を”必ず”という確信に変え、十四郎は暗闇を探し続けた。
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「なんの騒ぎだ?」
やって来た国定が、異常な空気に驚いた表情を見せる。慌てて勇之進が説明するが、国定は呆れ顔をするだけだった。
「出来たぞ」
完全にマイペースの国定は、勇之進に刀を手渡した。直ぐにビアンカに持って行った勇之進は照れ笑いで渡した。
「これは、その、求婚とか婚約とかは関係ありませんから……ビアンカさんに使ってもらいたいので、国定殿に作ってもらったんです」
刀の鞘は真紅に輝き、柄糸は純白で、鍔には二頭の竜が彫られていた。
「これ……」
受け取ったビアンカが鞘から抜くと、輝く刀身が現れる。構えただけで分かるバランスの良さ、振り抜きの軽さ、まるで初めから自分専用であるかの様に刀は手に馴染んだ。
「あんたの使う剣は真っ直ぐな形だ。普通の刀の反りは峰打ちの際に、違和感と振りにくさを感じるだろう。この刀は反りを最小限に抑え、しかも抜刀し易く工夫した。戦いを見せてもらったから、あんたの筋力や打ち込みの速さも考慮して、重心も専用設計だ」
国定は簡潔? に刀の諸元を説明した。
「十四郎殿の様に戦いたいのなら、諸刃の剣では無理です。刀なら、あなたの望む戦いが出来ます。まあ、私からの餞別です」
勇之進の言葉に、ビアンカの胸は熱くなった。勇之進は自分との別れを、予め予見していたのだと。そして、何より頼もしい”お別れの品”だった。
「これは、私から」
今度は士郎が、綺麗な櫛を渡した。
「ありがとう」
受け取ったビアンカは、そっと胸に抱いた。勇之進とは少し違い、士郎は自分を女として見てくれていた事が嬉しかった。
だが、小夜だけは俯いたまま、ビアンカを見ようとはしなかった。そっと近付いたビアンカが、ペンダントを外し小夜の首に優しく掛けた。
「これは、私のお母様から頂いたもの……お別れに、小夜に貰って欲しいの」
輝く青いサファイヤに、俯いていた小夜が顔を上げた。
「ビアンカさんの瞳と同じ色……」
「そうよ……これを見る度に、私を思い出して」
素直に別れが言えた、正直な気持ちが言えた……ビアンカの心は、風の様に軽くなった。
「小夜の事……忘れないで」
泣きながら自分の胸に顔を埋める小夜を、ビアンカは思い切り抱き締めた




