トリップ 6
十四郎は深い夢の中を彷徨っていた。手にした刀からは夥しい血が流れ、硝煙が煙り死臭が一面を覆っていた。周囲には、今まで十四郎が戦った相手が血を流し横たわる。その光景を、魂の抜けた様な瞳で、ずっと見続けていた。
暗い灰色の空、風は生温く空気は嫌な味がした……時は止まり、立っているのは十四郎だけの世界は何処までも先が霞んでいた。
十四郎は、ただ立ち続けた。何も考えず、何もしないまま。
永遠の時間が壊された切っ掛けは、十四郎の耳からだった。ふいに声が聞こえた。それはとても懐かしくて、暖かい声だった。
「十四郎、何してるの?」
「十四郎さん、どうかしました?……」
確かにメグとケイトの声だった。
「何だ、こんな所で?」
「十四郎、顔色が悪いですよ」
アミラやアルフィンの声もした。声の聞こえた方向を振り返るが、霞む視界には何も映らなかった。
「十四郎、大丈夫なのか?」
「十四郎様、如何なされました?」
「十四郎様、何時もと何処か違います」
リルやココの声もした。リズの声は、とても心配そうだった。だが、どんなに周囲を見回しても、何も、誰も見えなかった。
「見えないのは、見ようとしないからだ」
静かな声は、確かにローボだった。
「あなたは、自分の意志でここに来たのですか?」
穏やかで優しい声はブランカで、包み込まれる感覚は十四郎を少し楽にした。
「私は……戻りたくありません」
「本心なのか?」
ローボの声は、静かに聞いた。
「私は……」
十四郎は言葉に詰まる。
「あなたには、ちゃんと居場所がある。目を閉じ、ココロの眼を開けてごらんなさい」
ブランカの声は、優しく十四郎を導いた。目を閉じた十四郎は、ココロを無にした。すると、真っ暗な視界が少しづつ明るくなり、自分がベッドに横たわる姿が霞んで見えた。
そして、その横には寄り添う誰かがいた。眩い金色の髪、華奢な腕、後ろ姿しか見えないが、十四郎に直ぐに誰だか分かった。
「ビアンカ殿……」
呟く自分の声が、他人の様に耳に残った。
「先程聞こえた声の数々は、あなたを思う本心……戻りなさい……あなたは、会いたくないのですか?」
ブランカの声は十四郎の胸に刺さった。痛かった、胸の奥底が痛かった。戻りたくないと叫んでも、隠した本心は呟く……戻りたい、と。
「お前は、サムライなんだろう? 騎士と同じ兵士なんだろう? 兵士が戦うのが何故悪い? 戦いとは、相手の命を奪う事だろ? お前には誰にも真似出来ない”力”がある。その力は、誰の為に……」
ローボの声が響くが、十四郎は途中で遮った。
「その力は……人を殺める力なんです」
十四郎は、そう言い残すと暗い闇の方にトボトボと歩き出した。
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十四郎の事は何度も脳裏に浮かんでいたが、ビアンカは急に思い出した……一番肝心な事を。十四郎は多分、今も目覚めていないのだ……自分は今、十四郎のいる世界とは違う世界にいるのだ。
走りながら涙が滝の様に流れた。息が苦しくて、頭の中が爆発しそうだった。走りながら意識が朦朧となり、踏み出す足元が揺れた。
その時、切れかけた意識の向こうに見覚えのある大きな背中が映った。振り向いた人物は、立派な髭を蓄えた老人でビアンカと同じ碧い瞳だった。
薄れゆく意識は、聞き覚えのある優しい声が手を引いて薄紅の世界へと導いた。
『どうした? ビアンカ……』
「おじい様! 助けて!」
夢中で叫ぶが、老人はガリレウスではなかった。黙ってビアンカを見詰める眼差しは、とても穏やかだったが、その瞳は何も語らなかった。そのまま老人はフェードアウトして、ビアンカの意識は体を離れて行った。
ビアンカは、彷徨っていた。上も下も右も左もない空間、そこは何処なのか……何の希望も、夢も無い空間、それは何なのか……ビアンカには分かっていた。
それは、十四郎のいない世界。十四郎に会えない世界。そこがどんな素晴らしい場所でも、ビアンカにとって、何の意味も無い場所だった。
(私が帰りたいのは元の世界でも、特定の場所でもない……帰りたいのは、十四郎の傍……)
ココロの声は、静かに語った。それ以外に、それ以上に望まない。ビアンカは、そっとココロのドアを閉じた。闇は一時でも忘れさせてくれる……辛い現実を。
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目が覚めると、小夜が泣きそうな顔で目の前にいた。
「ビアンカさん!」
抱き付いた小夜が、ビアンカの襟元を涙で濡らした。記憶の定まらないビアンカは、茫然と呟いた。
「ここは?……」
「店を出て、直ぐに倒れたんですよ」
心配顔の勇之進は、大きな溜息を付いた。部屋の隅では士郎が正座してビアンカを心配していたが、目が合うと安堵の微笑みを返した。
ゆっくりと記憶が戻ったビアンカの瞳からは、また一筋の涙が流れた。
「どうして泣いているのですか?」
自分も泣きながら、小夜は震える声で聞いた。
「……私の、私の一番大切な……人が、目覚めないの……」
誰にも途切れるビアンカの言葉の意味は分からない。ただ、ビアンカにとって一番の辛い出来事なんだろう、とは推測出来た。
ビアンカは遠い目で涙を流し続ける。その悲しみは見ている者の心に強く響き、同じ様に胸の奥底に痛みを伴わせた。
「勇之進さん、なんとか出来ませんか?」
何も出来ない士郎は、勇之進を見詰めた。初めて会ったビアンカは勇敢で凛々しく、そのビアンカがこんな状態になるなんて信じられなかった。
助けたい、恩を返したいと思う程に無力な自分が情けなくて、勇之進に頼ることしか出来ない自分を蔑むが、士郎は自分の事よりビアンカを優先した。敢えて、自分の弱さを曝け出しても。
士郎の言葉で勇之進は決意した。この状況は、普通の医者では無理だと……。
「小夜、ビアンカさんを頼む。私はエルヴィン先生を呼んで来る」
勇之進はそう言い残すと、部屋を出て言った。
「小夜さん、エルヴィン先生とは?」
「ドイツから来られた、お医者様です。医療以外にも博学で、妖術使いみたいな先生なんです……あの先生なら……」
士郎の問いに、涙を拭いながら小夜が答えた。
「妖術……」
唖然と言葉に出した士郎だったが、今のビアンカを救う事が出来るのなら、どんな得体の知れない物にでも縋りたいと、士郎は正直に思った。




