聖域の森 4
姿を現したのは巨大な熊だった。肩のコブは大きく盛り上がり、丸太の様な前足には太くて鋭い爪が見る者を威嚇する。
その眼はガラス玉みたいに光を吸収し、雄叫びと共に現れる牙は動物であることさえ忘れさせる凶悪感があった。
「森でも手を焼く魔物だ。話など通じなければ感情も無い、既に魔に支配されているのだ。さて、どうする? ここにいる全てが殺されるぞ……」
ローボは怪しく笑う。
「戦うしかないのですね」
落ち着いた声の十四郎に、更にローボの口元は緩んだ。
「そう言う事だ」
ココもアルフィンも声が出なかった。ローボでさえ度胆を抜かれたのに、今度の熊は常識の範疇を遥か超えていた。立ち上がると人の背丈の優に倍はあり、その解き放たれる悪意と臭気は見る者全てから生気を奪った。
ココは無言のままリルの前に庇う様に出る、脚が震え喉がカラカラに乾く。しかし、チラリと見たリルは焦点の合わない瞳で、宙を見ていた。
全身に震えが走り、胸が締め付けられる。アルフィンは、直ぐにでも十四郎だけを連れて逃げ出したくなる衝動に襲われる。だが、そんなアルフィンの胸の内を察する様に、十四郎は優しく鼻を撫ぜてくれた。
恐怖が消える訳ではなかったが、逃げ出したくなる衝動は暖かい十四郎の手が彼方へと忘れさせてくれる。
ルーや他の狼達も後退る、普段から”魔物”近付く事は最大限に避けよとローボから言われていた。しかし、今は剣を持つ一人の人間に倒せと嗾けている。その意図も真意もルーには理解出来なかったが、頭の中にはローボの声が響いた……”唯の人ではない”と。
「十四郎、気を付けて下さい!」
アルフィンは我に返って叫んだ。暖かな十四郎の手は、絶望に近い恐怖からでもアルフィンを助けてくれる。その思いはアルフィンに勇気を奮い立たせた。
「大丈夫ですよ、アルフィン殿」
振り向いた十四郎の笑顔は、またアルフィンを救ってくれた。
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十四郎は刀を正眼に構え見据えるが、熊は微動だにせず唸り声を上げていた。ローボはその光景に違和感を覚える、魔物が躊躇するなどあり得ないのだ。しかし、実際に魔物は十四郎の前で動きを止めていた。
構えた刀を後ろに引くと、十四郎は誘う様に体を半身にした。目前の刀が引かれると、十四郎が無防備に見える。熊は雄叫びを上げると猛然と襲い掛かる。振り出した爪が傍を霞めるだけでも、風圧が十四郎の体を激しく揺らした。
一撃を躱した瞬間に次の一撃が襲って来る。ココは瞬きもせずに熊の動きを凝視するが、十四郎は最低限の動きで攻撃を躱し、相手の動きを読んでいる様にも見えた。
「十四郎!!」
思わずアルフィンが叫ぶ。度重なる攻撃に、十四郎の反応が一瞬遅れた様に見えた。巨大な爪がスローモーションみたいに十四郎の目前に迫り、アルフィンの胸が押し潰される。しかし次の瞬間には、熊が悲鳴にも似た雄叫びで体を大きく逸らしていた。
何が起こったのか? 現状の把握には数秒を要した。振り下ろされた腕を、半身の態勢で避け、その状態のまま下方から電光石火で切り上げた。切り落とすまでの深い踏込ではなかったが、かなりのダージを与えた事はその悲鳴から確認出来た。
「ほう、切り落とす言も出来たであろうに、表面だけを切ったのか……」
感心した様にローボは呟いた。熊は呻き声を上げながらも、切られた腕をダランと下げていた。
「まさか、わざと手負いにしたのか……」
ココに戦慄が走る、動物は手負いになると狂暴性が増す。それは弱肉強食の自然界に於いての法則と言ってよかった。傷を負い弱くなった者は強い者に淘汰される、それに抗うには力を振り縛って戦うしかないのだ。
言い換えれば傷を負わせる事で絶対的な不利を逆転し、しかも相手の動揺や焦りも引き出す事が出来る。
確かに熊の攻撃は荒くなっていた。振り出す片腕の動作も大きく正確性に欠け、十四郎は簡単に避けていた。
「もう止めましょう!」
突然、十四郎が叫ぶが熊に反応の様子は無い。しかし、十四郎は叫び続ける……何度も何度も、懇願する様に。
「無駄な事を……」
呟くローボだったが、真剣な十四郎に何故が気持ちが揺れた。ココも同じ様に不思議な感覚に包まれていた。何故、十四郎はあんな事を言うのか? 戦いは俄然有利になり、決着は目前だと言うのに……。
アルフィンは違う事を考えていた、十四郎は全ての無理難題に抗っているのかもしれない。ローボの試しや、魔物の言われ無き挑戦、ココやリルの理不尽に十四郎なりの答えを示そうとしているのではないかと。




