戦略的撤退
「さて、次だ……」
ルーは誰も居なくなった村を見渡し、小さく呟いた。
「軍勢の食料と水を奪うのですね」
灰色の大きな狼は、ルーの横で遠くを見据えた。
「一日食べないだけで、人の戦闘力はガタ落ちだ……三日で立てなくなるだろう……そして、三日水を飲まなければ命を落とす」
「なんと脆弱な生き物でしょう……」
ルーは静かに呟くが、灰色の狼は憐れむ様に言った。
「確かにそうだな……では、行くぞ」
ほんの少し溜息を付いたルーは走り出した。後に続く狼達の数は十数頭だが、ルーを先頭に真っすぐに一列を成して風の様に走り去った。
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「砦の様子は?」
「かなり出来上がっています。完成は間近かと」
暗い通路の途中でドライが呟くと、ふいに現れた漆黒のマントの男が掠れた声で言った。フードに隠され顔はよく見えないが、鋭い眼光がオレンジ色の鈍い光を反射していた。
そしてその漆黒なマントの背には、鉄十字の紋章があり、その中心には皇帝の鷲が描かれていた。
「戦力を知りたい……」
ドライは男を見据えた。
「我ら騎士団、精鋭50で強襲します」
男は口元を緩めた。
「あくまで威力偵察だと言う事を忘れるな」
ドライは真剣な目を向けた。黄金騎士や白銀騎士、青銅騎士、そして現有で残る近衛騎士団以外の謎の騎士団……だが、背中の紋章は伝統のアルマンニ聖騎士団総長の紋章であり、ドライも内情は詳しく知らなかった。
「それは、勿論……」
男は更に口元を緩めた。今まで密偵として的確な仕事を熟して来たが、ドライは経緯を思い出し怪訝な顔になった。
七子の元、ドライが仕え始めて間もない頃、男はドライ達の前に現れた。今の様な黒装束ではなく、その時は至って普通の騎士に見えたが、疑いの目を向けたドライに七子は薄笑みを浮かべ……”草”だと言った。
意味を聞くと、七子は冷たい目で自分と同じだと言った。七子には、前の世界で諜報活動をしていたと聞いていたが……。
”草”とは一般人を装い現地に潜入し、現地で諜報や破壊活動などをする役目であり、また現地に完全に溶け込む為に家族を作り、自分に使命が完遂出来なくとも代々に渡り使命を引き継いだとの事であった。
それを聞いた時にドライは、その過酷なまでの運命に背筋を凍らせたのだった。だが、伝統ある聖騎士団が諜報活動とは? 違和感と不信感はドライの思考を混乱させた。
「魔法使いが戻れば撤退せよ」
「……御意」
ドライがそう言うと、男は闇に消えた。その気配が消えると、ドライの背中には少し冷たい汗が流れていた。
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ルーと灰色狼は、二頭でイタストロアの包囲軍を混乱させた。その体躯と鋭い牙は人の恐怖を激しく揺さぶった。
「たかが獣だ! 打ち取れ!!」
エンディゴは勇ましく叫ぶが、ルーが視界に入ると他の兵同様、青褪め言葉を失った。
「兵は下がれ!! 重装歩兵! 前へっ! 騎士団は騎乗!!」
逃げ惑う兵を後退させ、スワレスが叫んだ。
「馬は逃げました!!」
「先手を取られたか……」
直ぐに伝令が報告すると、スワレスは眉間にシワを寄せた。ルーと灰色狼が突っ込むと同時に、別働の狼は馬達を解放していた。当然、怒号で馬達は追い散らされ、そのまま水の樽を打ち壊し、食料を取り囲んだ。
そして、安全が確保されると猿や熊が食料を運び去った。
「奴らの狙いは食料だ! 守れっ!」
瞬時に気付いたスワレスだっが、その時は既に遅かった。ほんの少しの時間で食料は持ち去られ、狼達は爆煙を残し去って行った。
「……何なのだ……」
唖然と呟くエンディコだっが、報告で更に首を傾げた。被害は食料と水で、人的被害は皆無だったのだ。
「直ぐに近隣の村で食料調達だっ! 狼達がいるかもしれん、完全武装の騎士団は護衛に付け! 重装歩兵は、本陣の周囲に警護体制を取れ! 手の空いてる者は周囲の偵察だ! 水の確保を優先させろ!」
大声で指示を出すスワレスは、的確に指示した。
「狼が食料を奪うだと……」
「魔法使いには、獣神ローボが付いています。目的は、おそらく魔法使いに与する後続を通す為に我々を遠ざける為でしょう」
首を傾げるエンディコに、スワレスは静か言った。
「後続は来ると思うか?」
「はい。総勢は万を超えているとの報告があります……合流は必至かと」
エンディコの問いに、スワレスは即答した。
「それでは、この人数で大軍と対峙か……」
青褪めたエンディコだったが、更にスワレスは冷静に言った。
「援軍を求めようにも、徒歩では時間が掛かり過ぎます……それに、食料が無ければ戦えません……山岳の入り口の平原で、川も近くにありません」
「……」
スワレスの言葉に、エンディコの顔は更に青褪めた。
「手段は二つです。直ぐに撤退して態勢を立て直し、増援と共に敵後続の背後を取る。もう一つは……ミランダ砦の左右に展開して敵を待ち受け、交戦……幸いミランダ砦は先発を受け入れてませんので、挟撃出来ます……が、全滅覚悟で敵を削れても数百と言う所でしょう」
スワレスの進言に、エンディコは一瞬俯くが直ぐに顔を上げた。
「……走るか」
「賢明です……全軍、撤退用意! 村に行った者や水の捜索に行った者達を呼び戻せ!」
直ぐにスワレスは指示を出した。
「村の様子が分かってからで良いのではないか?」
「我々の食料を奪った時点で、次は決まってます。おそらく、村は蛻の殻でしょう……我々に選択肢は無いのです」
「敵の手の内か……」
「はい……そして、口惜しいですが敵は、一旦我々の命を救いました」
スワレスは溜息を付くエンディコに、強い視線を向けた。
「……一旦か……イタストロア騎士団に情けを掛けた事を、後悔させてやる……持ち物は最低限だ! 武器以外の物は捨て置け!」
エンディコは叫ぶと、先頭を走り出した。続くスワレスも、唇を噛み締めて後に続いた。




