神の領域
ローベルタ婦人の屋敷の裏手、小さな湖の畔にローボはいた。久しぶりに見る大量の”水”はローボを落ち着かせるが、息子のルーの慌ただしくやって来て、ゆっくりと身を起こした。
「どうした? 集まったのか?」
「はい、かなりの数が……」
ローボの問いに、ルーは言葉を濁した。ローボは大陸中の狼に招集を掛け、ルーにその役目を任せていたのだった。
「何があった?」
「それが、魔物達が剣を奪い返そうと、あの女を追っています……」
「数は?」
「百はいるかと……」
溜息交じりのローボの問いに、ルーは小さな声で答えた。
「どうした?」
普段とは明らかに違うルーの様子に、ローボは鋭い視線を向けた。
「あの女、剣を手に入れる時に……獅子王と、賢猿ギルを……」
「獅子王? 確か、二頭居たな?」
ルーの言葉に、ローボの目が光った。
「死んだのは”黒の獅子王”です」
「紅が残ったか……厄介だな」
二頭の獅子王……黒は狂獣、紅は……妖獣と呼ばれていた。
「はい……しかも、賢猿ギルまでも……魔物達の怒りは相当なものです」
「だろうな……」
簡単に想像したローボは、大きな溜息をついた。
「私が、十四郎に知らせに行きます」
「待て……」
走り去ろうとするルーを、ローボが呼び止めた。
「お前は残れ。私が行く……」
「しかし……」
「あそこを見ろ」
困惑するルーに向かい、ローボは湖畔を指した。そこには、水辺で佇む小さな影があった。
「あれは……」
「ビアンカだ。お前はビアンカの護衛を頼む……フェアリー達を近付けるな」
「フェアリー? 奴らがどうしたのですか?」
「ビアンカには見えるらしい……」
「まさか……」
ルーの背中は、冷たい汗に覆われた。
「紅の獅子王は厄介だ……あの女だけならいいが、十四郎がいるからな」
起き上がったローボは遠い彼方に視線を向け、ルーは静かに呟いた。
「ええ……人を惑わし、人の痛みを衝くのが奴ですから」
人の一番辛い記憶や、忘れ去りたい悲しみ。そこを甚振る事が、紅の獅子王にとっての最大の快楽であり、攻撃の要だった。十四郎の傷は決して癒えてない……ローボは、今のビアンカより十四郎の方が危ういと判断した。
そして、ローボは高く遠吠えした。直ぐに大鷲が、足元に舞い降りた。
「十四郎に知らせろ。魔物が向かってる……私が行くまで動くなと」
「御意」
頷いた大鷲は、大空に舞い上がった。
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十四郎の元に向かったローボを見送ると、ルーはビアンカの元にゆっくりと向かった。
「こんな場所で何してる?」
湖を見ていたビアンカは、そっと振り向いた。そこには笑顔があるが、弾ける様な笑顔ではなくて限りない悲しみを含んでいた。
「久しぶりね……ルー」
「お前、思い出したのか?」
驚くルーだったが、疑問が泉の様に湧き出して傍に行った。
「全部じゃないけど、殆ど思い出したの……」
「どこか、怪我でもしたのか?」
瞳を伏せたビアンカの顔を、ルーは覗き込んだ。
「大丈夫……何ともないよ」
「それなら……」
言いかけたルーは途中で止めた。
「やっぱり、ルーは優しいね……」
ビアンカはルーの背中を撫ぜながら微笑むが、無理して笑ってるのが手に取る様にルーには分かった。
「フェアリーが見えるって言うのは本当なのか?」
「フェアリー? 小さな女の子の事? 葉っぱの洋服を着た?」
ビアンカはフェアリーの容姿を思い浮かべながら、首を傾げて呟いた。
「オレは見た事はないが、父上から聞いた事がある」
「ローボは忘れろって……」
ビアンカはローボの言葉を思い出し俯いた。まるで、見えた事が悪い事の様でビアンカは困惑していた。
「あれは、普通の人には見えない……見てはいけないんだ」
「私は……」
ルーの言葉に、ビアンカは更に困惑した。
「あれが、見えたと言う事は……”神”の領域に入ったと言う事なの」
何時の間にかライエカが、ビアンカの傍にいた。
「分からない……それが、いけない事なの?」
「もしも、あなたが神の領域に入れば……望んだ”力”が手に入る……あの女に負けない強さを手に入れる事が出来る……でも、同時に十四郎と同じ時間を生きれなくなる……」
「それって……」
「そう……あなたには永遠の命が与えられ……十四郎は先に逝ってしまう。あなたは、だだ見送るだけ……そして、永遠に一人きりの時間を過ごす」
ライエカの言葉が、ビアンカの胸を貫いた。
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遺跡での伐採作業は順調だった。何しろ、十四郎とアウレーリアが剣を振えば大木も一撃で斬り倒され、その効率は驚異的だった。倒された巨木も力自慢の剣闘士が素早く移動して、ダニーが連れて来た大工達が遺跡の居住区や厩舎の建築に当たっていた。
また城壁の修復も順調で、同じ様にダニーが連れて来た石工達が腕を振るっていた。
「近くに採石場も見付かって、良かったですね」
帳簿を見ながら笑顔のダニーに、十四郎は恐る恐る聞いた。
「あのう、ダニー殿……この様に大勢の人を雇えば給金が……」
「大丈夫ですよ。アルフィンを担保に借りたお金も返済済みですし、その運用で儲けも出てます。それに、ローベルタ様から頂いたの軍資金もありますし」
笑顔のダニーに、感心した様にロメオが言った。
「十四郎殿は、働く人々の事をちゃんと考えてる。それに、お前も大したものだ」
「私達には剣を持って戦う力はありませんが、お役に立てる別の力があります」
ロメオの方を振り返り、ダニーは嬉しそうに言った。
「本当に、皆さんは凄い……ロメオ殿の的確な指示や、ダニー殿の支援。それに、職人さん達の仕事ぶり……それに、マルコス殿の手際の良さ」
十四郎は頭を下げながら呟いた。マルコスは素早く王都に向かい、交渉と根回しに向かっていたのだった。当然、王宮に無断で領内に城を築くのは、敵対行為に値する。味方は増やしても、敵を作らないのが最善だと言い残して。
しかし、了解も取らないうちに築城は開始されていた。そこは、ロメオとマルコスのしたたかさで、時間の有効化と既成事実の構築を兼ねていた。
しかし、そんな和やかな雰囲気は一瞬で終わった。突然、大鷲が舞い降りて来たのだった。
大鷲は舞い降りると、十四郎に向かって言った。
「魔物の大群ががこちらに向かっている。ローボ様が来るまでは動くな」
「魔物、ですか? 何故ここへ?」
十四郎の問いに、大鷲はアウレーリアの方を見た。
「あの魔剣のせいだ。奴らは、それを取り返しに来る」
「返しても、ダメでしょうね……」
十四郎は苦笑いするが、大鷲は鋭い眼光を向けた。
「多くの魔物の命を奪ったのだ……無理だな」
「十四郎殿、鷲は何と?」
ロメオは只ならぬ雰囲気を察して聞いて来た。
「作業は一時中断して、皆を返しましょう……魔物が来るそうです」
大鷲の視線から、アウレーリアの方を見たロメオは直ぐに察した。
「分かりました。職人達以外は戦闘態勢を取らせます」
ロメオはそう言うと、皆に知らせに向かった。
「いいか、くれぐれもローボ様を待て」
そう言い残し、大鷲は空に舞い上がった。
「ダニー殿達も退避して下さいね。迎えが行くまで、待っていて下さい」
「しかし……」
十四郎は笑顔を向けるが、ダニーは怪訝な顔をした。
「後の事は大丈夫ですよ……」
だが、十四郎の笑顔はダニーに大きな安心感を与えた。
「分かりました。でも、お気をつけて……」
ダニーを見送った十四郎は、アウレーリアに向き直った。
「さあ、アウレーリア殿。行きましょうか」
アウレーリアは表情を変えなかったが、十四郎の言葉に小さく頷いた。




