執事
「どうなっている……」
唖然と呟くアドリアーノは、目前の光景が信じられなかった。ほんの僅かな敵兵に、取り囲んでいるはずの味方の軍勢が押されているのだ。
「戦いは数! 多少の実力差さえ、数の前では無意味!……ですが、これは……」
遅れて来た副官は、目を見開いて茫然と立ち竦んだ。
「こんな動き……何時までも続けられるはずはない」
更にアドリアーノが呟くと、確かに一部の兵達は次第に動きが衰え出したのが見えた。その瞬間、アドリアーノの”マイナス”の思考は一気に”プラス”へと転化された。
「あそこだっ! あの部分に集中攻撃だっ!」
思わず大声で叫ぶと、部下達も慌てて号令を出した。兵達の”塊”が一斉に弱い部分へと傾れ込み、形勢は一気に逆転するはずだった。
だが、それを阻んだのは十四郎だった。素早く動きの衰えた者の傍に行き、直ぐ様付いて来たツヴァイに言う。
「ツヴァイ殿、皆を円形に。傷付いた人や疲れた人は中に、周囲は元気のある人で」
「承知しました!」
ツヴァイが味方を防御に有利な円形陣にすると、十四郎は切り崩しに向かって来る敵に一人で正対した。
「十四郎、私も……」
しかし、その横では既にビアンカが刀を構えていた。
「ビアンカ殿、疲れてませんか?」
「大丈夫」
微笑むビアンカを見た十四郎は笑顔を返すと、ゆっくり刀を抜く。
「十四郎! 飲め!」
リルが酒瓶を投げる。受け取った十四郎が一気に飲むが、思い切り吐いた。
「リル殿、私はお酒は……」
振り返った十四郎が苦笑いすると、今度はノインツェーンが瓶を投げた。
「お前は! 十四郎様がお酒が苦手なの知ってるでしょ!」
今度は水で、十四郎は一気に飲むとビアンカに手渡した。
「これ、十四郎が飲んだやつ……」
真っ赤になるビアンカだったが、ノインツェーンが嬉しそうに近付いた。
「ビアンカ様がいらないなら、私が……」
「お前は川の水でも飲んでろ!」
そこにリルも加わり何時ものケンカが始まるが、ビアンカは頬を染めたまま一気に飲んだ。
「あ~」
「あらっ?」
リルとノインツェーンが顔を見合わせる中、ビアンカは真剣な顔に戻る。十四郎はその様子を見届けると、一気に敵に向かった。十四郎は敵の目前で立ち止まると、迫り来る大軍を迎え撃つ。
その動きは目にも止まらず、刀など刀身は全く見えない程だった。敵は成す総べなく、瞬間に倒されて行く。
「ビアンカ様……」
ノインツェーンは思わず呟く。ビアンカは十四郎の背後から、同じ様に敵を瞬殺していた。
「やっぱり、ビアンカ……十四郎みたい」
リルでさえ、唖然と呟く。ビアンカの腕が上達しているのは知っていたが、知り得る”強さ”を完全に凌駕した動きだった。
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弱点を突いたはずの敵は、たった二人に殲滅された。
「あれが……魔法使い……だが、あの女は?……」
「あれはイタストロア近衛騎士団のビアンカ:マリア:スフォルッア……ですが、あんなに強いなんて、聞いてません」
目を見開くアドリアーノの傍で、副官が茫然と言った。
「確かに強い……だが、何なのだ?」
遠目でも、その動きの素早さと強さは分かる。だが、それ以上にアドリアーノの目を奪ったのはビアンカの美しさだった。顔が判別出来る程の距離ではないが、全ての見る者を魅了する身体の線、その黄金比率はアドリアーノを違う意味で興奮させた。
女としての究極の美、そして至高の強さ……それを言葉で表現するなら”女神”としか出来なかった。
女神と魔法使い……人では到底抗えない存在。アドリアーノの思考と体は、棘の鎖で完全に絡まれて動きを止めた。
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「ロメオ殿……あれが、魔法使い……そして、その仲間……」
初めて見る戦い、命の遣り取りのない戦い……それは、ランスロットにとって驚きでしかなかった。そして、目前で繰り広げられる戦いにランスロットは興奮した。
「数など問題ではない。敵将を落とせば、勝利は確実だ」
「相手がアドリアーノ以外なら、そうなのですが……」
声を上げるランスロットに対し、ロメオは少し声を落とした。
「敵将は、そんなに凄いのですか?」
十四郎達の戦いを見て興奮の絶頂だったが、ロメオの言葉にアドリアーノは息を飲んだ。
「確かに将としてアドリアーノは優秀ですが、側近に侮れない者がいるのです」
「有名な騎士ですか?!」
答えるロメオの声に興奮したランスロットが大声を被せた。
「いえ、執事です」
「執事?」
意外な答えに、ランスロットは困惑する。
「はい。アドリアーノはイタストロア有数の貴族です。その執事は先代領主から仕えている者で……」
「どれ程強いのですか?!」
ランスロットの中では”執事”は魔法使いに匹敵する勇猛果敢な”騎士”になっていた。
「いえ、ただの執事ですから、剣などは使えません」
「……言ってる意味が分からないのですが」
ロメオの言葉はランスロットを少し苛立たせ、声を押し殺ろさせた。
「……強さとは、剣の腕だけではないと言う事です」
だが、ロメオも強い視線でランスロットを見返す。その傍で、ラナは呟いた。
「分かる気がします……槍を持てばバンスは強い……ですが、武器など持たなくてもバンスは強いのです」
「失礼ですが、バンス殿は御老体。武器無しでは……」
怪訝な顔でランスロットはバンスを見るが、バンスは穏やかに微笑んだ。
「ラナ様をお守りするの槍や武器などではありません……”心”なのです」
静かで優しいバンスの言葉だったが、ランスロットは訝しげにするだけだった。
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「ご当主様、お帰りの準備が整いました」
「……何だと?」
動けなかったアドリアーノは、その一言で我に返った。そこには、穏やかな顔の老人が戦場であるはずなのに、鎧どころか剣さえ持たずに低頭していた。
「セバス殿、お下がり下さい。ここは最前線ですぞ!」
直ぐに副官が詰め寄るが、セバスは一瞬視線を強める。その視線は、勇猛な副官を瞬間に黙らせた。
「ご覧になってお分かりと存じますが、魔法使いは本物でございます。ここは、一度引かれて態勢を立て直すのが宜しいかと」
「当主である私に指図するのか?」
体を震わせ声を押し殺し、アドリアーノはセバスを睨んだ。
「先代ご当主様より、アドリアーノ様をお守りしろとの命を受けております」
「逃げろと申すか? この私にロメオを前にして……」
怒りの非情はアドリアーノの血を沸騰させ、今の危機的状況さえ忘れさせた。
「逃げるのではありません、一旦引くのです。相手の情勢は分かりました、今はそれで十分だと心得ます」
「だが、あの魔法使いはどうする?! 直ぐに追って来るぞ!」
「ご心配なく。このセバスにお任せ下さい」
セバスは頭を下げたまま、そう言うと十四郎の方に向かってゆっくりと歩き出した。




