迫る最悪
部屋の空気は完全に凍っていた。ローベルタ夫人を前にして、マルコスは滝の様な汗を流す事しか出来なかった。一応直ぐに説明はしたが、極度の緊張とカラカラに乾いた喉のせいもあり、説明は要領を得るには程遠かった。
「それでは、魔法使い殿は急用で来られないのですね?」
永遠と思われる時間だったが、実際には数分だった……ローベルタ夫人が口を開いたのは。
「はっ、はい。誠に申し訳ありません」
深々と頭を下げるマルコスに対し、ローベルタ夫人は隣のアリアンナに目を向けた。
「あなたは急用の内容を、どう思いますか?」
一度、本拠地に入ったアリアンナを大至急呼んでいた事だけが、マルコスの策だった。
「十四郎はローボの妻を助ける為に行ったのです」
「ローボの妻?……狼ですよね」
真剣なアリアンナの答えだったが、ローベルタ夫人は怪訝な顔をした。
「ローボは一緒に戦う、仲間です」
「仲間ですか……」
「十四郎はそう言う人です……全てを守る為に戦っています」
「相手は、狼ですよ……」
力説するアリアンナだったがローベルタ夫人は、また”狼”と言う言葉を使って少し声を落とした。
「私達は人間が全てだと思っています……それ以外の動物など眼中にはない……ですが、彼等と言葉を通じ合う事で分かったのです……”同じ”だと、言う事が」
真剣なアリアンナが真っ直ぐな瞳でローベルタ夫人を見た。その瞳を正面から受け止めたローベルタ夫人は、一瞬の間の後に優しく微笑んだ。
「これも、魔法なのですね」
「はい。そうだと思います」
「それでは、待ちましょう……魔法使い殿のご帰還を」
ローベルタ夫人の言葉を聞いたマルコスは、ヘナヘナと床に座り込んだ。
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「ローボ速すぎるよ!」
初めて聞くアルフィンの上ずった声だった。天馬と呼ばれるアルフィンでさえ、”今の”ローボの速さと持久力には付いていけなかった。
「ローボ殿! 先に行って下さい!」
「分かった!」
全速で走るローボの背中に十四郎が叫び、ローボは振り向かないで叫び返した。速度を落とし、木陰に止まったアルフィンの首筋を撫ぜ、十四郎は優しく言った。
「アルフィン殿、大丈夫ですか?」
「平気、少し休めは大丈夫……」
「そうですか」
ほっとした息を吐くと、十四郎はアルフィンの飲ませる水を汲む為に神経を集中する。水の音、水の匂いを漆黒の闇の名から探し出す。森林の新鮮な空気が十四郎の胸一杯に溢れると、微かに水の匂いがした。
「アルフィン殿、水を汲んで来ます」
「水って、ワタシは感じないよ」
「私の方が鼻が利きますね」
「もう、十四郎ったら……でも、見えないんだから気を付けてね」
あっと言う間に水を汲んで来た十四郎に、アルフィンは驚きながらも水を飲んだ。本当は脚や背中には疲労が溜まり、蹄も痛かった。
だが初めて見るローボの慌てぶり、言葉や態度には出さないが十四郎の緊張感。それは、全てアウレーリアに繋がるのだと、アルフィンは思った。
そして、脳裏に浮かぶアウレーリアは最早、人ではなかった。
「行こう、十四郎」
考える前に、アルフィンは言った。
「ですが、まだ少ししか休んでませんよ」
「十四郎、行こうと言って……ワタシは大丈夫だから」
「分かりました。行きましょう」
立ち上がった十四郎は、笑顔でアルフィンの首筋を撫ぜた。
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「思った以上ですね……」
唖然と呟くリズは、その数に圧倒されていた。数千の軍勢はアリアンナが用意した秘密? の本拠地で、テキパキと野営の準備をしている。そこは巨大な洞窟で、既にダニー達により生活物資は運び込まれていた。
昨日まで敵味方に別れ、戦っていた兵士達が互いに協力し合っている光景は、リズだけでなくラナの心を落ち着かせた。
「分かりあえるのね……言葉だって、完全には通じてない……でも、あんな笑顔で」
兵士達は笑顔で働いていた。そこには指揮官や兵といった垣根は無く、まるで昔からの友達みたいに、じゃれ合う光景もあった。
「でも、この洞窟かなり奥まで調べましたが、この人数では手狭ですね」
冷や汗顔のダニーだったが、ロメオは穏やかな笑顔を向けた。
「何を言ってるんだ? これは序の口だぞ。十四郎殿は、もっと大勢の味方を作る」
「そうですね……それでは、ナダルさんの意見はどうしますか?」
頷くダニーは、到着して直ぐにナダルが具申した意見の是非を聞いた。ナダルは洞窟を中心に砦を築く事を提案していたのだった。
「そうだな、砦なら拡張できる……頼んでいいかな?」
「喜んで」
ロメオは資材の調達をダニーに託した。
「準備は出来てるぜ!」
「資金も万全!」
直ぐにダニーの仲間達が声を上げた。
「護衛を出そうか?」
傍で聞いていたナダルに、ダニーは笑顔で返答した。
「いいえ、商売に行くのですから必要ないです」
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「ブランカ!!」
聖域の森に入った途端、ローボが叫んだ。
「ローボ様……」
驚いた護衛が直ぐに出てくる。
「ブランカはどうした?!」
更に叫ぶローボの剣幕に、護衛の狼は縮み上がった。
「あの、その、おられますが……」
「無事なのかっ!!」
「あっ、はい、ご無事ですが……」
要領を得ない護衛の狼は、更に小さくなる。
「守りを固めろっ! だが、攻めて来る者には絶対手を出すな」
「仰る意味が分かりません」
灰色でかなり大きな狼が出て来て、ローボの前に座った。ローボが最も信頼を寄せる、護衛隊長のレオだった。
「手を出せば命を落とす。例え、お前でもな……」
「御意」
低い声のローボはレオを睨む。それは、嘘や偽りではなくローボの真実だった。瞬時に悟ったレオは、配下の狼に指令を出す。
「敵をローボ様の前に誘導する。付いて来い……」
数頭を従え、レオは森の中に消えた。
「ふぅ……」
大きく息を吐いたローボは、ブランカの元に走り出した。




