二人の女神
「十四郎……」
ビアンカの脳裏に、アルフィンと共に戦場を駆け抜ける十四郎の姿が幻影の様に浮かんだ。
「集中しろ!」
目前で怒りに震えるエリーゼから意識を逸らすビアンカにローボが叫ぶが、エリーゼはその隙を逃さない。振り下ろす剣には怒りと苛立ちが混ざり、その速度を加速させていた。
「何だとっ!」
エリーゼの剣は、ビアンカの刀に簡単に受けられる。しかも、ビアンカはエリーゼの事さえ見ていなかった。
「……全く、何て奴だ……」
呆れ顔のローボは大きな溜息を付く。受けた剣を弾くと、ビアンカは回し蹴りを見舞う! エリーゼは瞬時に後ろに跳んで躱すが、その速度を凌駕した跳躍のビアンカが迫る。
防御態勢を取る暇も無く、ビアンカの刀がエリーゼに迫る。反射神経だけで刀を受けるが、エリーゼは腹部に強烈な衝撃を受けた。打ち込む刀と同時の前蹴りは、エリーゼを後方まで吹き飛ばした。
「ビアンカ様……」
想像を超えるビアンカの戦いにツヴァイは茫然と呟いた。黄金騎士を相手にして圧倒するなど考えられなくて思考は停止し、脳裏にリズの言葉が蘇った。
『ビアンカは近衛騎士団で最強になったのは、血の滲む努力をした訳ではないの……ビアンカがした訓練は……普通の訓練……他の者と同じ当たり前の訓練だった……でも、ビアンカはそれだけで最強になった……』
それが何を意味するのか? ツヴァイには今、全身を伝う汗こそが答えだと感じた。
「あいつに足りないのは、体力だけだ」
ローボの声は更にツヴァイの思考を混乱させる。
「体力が、あれば、どう、なのですか?」
聞き返す声が震え、言葉が途切れる。
「今は強さだけなら、あの女にも匹敵する」
「アウレーリアに……」
戦慄がツヴァイを包んだ。目の前のビアンカの細い肩の向こうに、純白の羽根が見えた気がした。そして、リズの言葉の続きが耳に被さった。
『ビアンカは自分の本当の強さを知らない……だって、本当はとても穏やかで優しい娘だから……』
「何で……こんな奴に……」
口元の血を拭いエリーゼが、よろよろと立ち上がる。しかし、その瞬間! ビアンカが疾風の様に傍を駆け抜けた。
全身の力が流れ落ちる感覚……意識が頭の上から、大空に吸い込まれる……そして、甘い香りがエリーゼの鼻腔を撫ぜると同時に視界は暗闇に落ちた。
「……ビアンカ様……」
ゆっくりと近付くツヴァイが声を掛けると、振り向いたビアンカの髪が風に揺らめいた。心臓が止まりそうなになる……全身の血が逆流する。ツヴァイはそれ以上言葉が出ずに立ち竦むと、ビアンカは天使の様な微笑みを向けた。
「私は十四郎の傍に行きます。後をお願いします」
ビアンカの穏やかな言葉には色と香りが付いていた。そして、言葉と同時にシルフィーが風の様にやって来た。ビアンカは純白のマントを翻すと、シルフィーに跨り稲妻みたいに走り去った。
残されたツヴァイの呪縛を解いたのは、ローボだった。
「他の者と合流しろ、軍勢が押し寄せている。今は一旦引くのだ」
「ローボ殿は?」
「追うさ……」
ローボは踵を返すと、ビアンカの後を追った。
「ツヴァイ! 無事かっ?!」
また動けなくなったツヴァイを今度こそ現実に引き戻したのは、ココの叫びだった。
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「何だ? 誰なんだ?……」
騎士達は目前の戦いを忘れ、アウレーリアに見入っていた。その美しさは形容さえ難しく、貧困な語彙ではとても表現は出来なかった。だだ、誰もがその美しさの前には”神秘的”と付け加えるだろう。
しかし、両軍の戦いを一瞬止めるアウレーリア出現も直ぐに時は動き出す……血と悲鳴の地獄絵図で。
薄笑みさえ浮かべ、アウレーリアは剣を振るう。その度に騎士達は血に染まり、痛みさえ感じる暇もなく絶命した。アウレーリアが通る場所は、アルマンニやフランクルと言う区別はなく、全ての命が消えた。
「ア、アウレーリアが現れました……敵味方の区別なく、全て殲滅しています」
副官の報告さえ、リヒトには遠い事の様に感じていた。まるで上の空の様なリヒトに向い、副官は唾を飛ばして直訴した。
「撤退しましょう! 味方の損害は計り知れません!」
少し前までアウレーリアの存在を、たった一人で何が出来ると軽く考えてた副官も現実を目の当たりにして、その危険性を痛感していた。だが”撤退”と言う言葉が、リヒトの中で弾ける。
白銀騎士のプライドと、積み重ねてきた栄光が脳裏で複雑に絡み合った。そして、リヒトの怜悧で狡猾な頭脳は、ある答えを導き出した。
「魔法使いの動向は?」
「それが、ノヴォトニーとバラッカを倒し右翼の仲間の元に……差し向けた軍勢など、完全に無視して中央を突破しています」
黄金騎士二人をあっさり倒した事も驚愕だが、並み居る軍勢を真正面から突破している事実が歴戦の副官でさえ恐怖に包み込んでいた。リヒトも十四郎に対する恐怖で滝の様な汗が出たが、アウレーリアに比べればまだ恐怖の度合いが違っていた。
「魔法使いに向かっていた軍勢を反転、右翼の魔法使いの仲間達への総攻撃に向かわせて下さい」
「そんな……今からですか?」
疑心に首を捻る副官に対し、リヒトは強い視線を向けた。
「何故アウレーリアが来たかを考えて下さい。彼女は魔法使いに向かう者を全て殲滅します。魔法使いの仲間を襲えば、魔法使いもそこに向かいます……そして、アウレーリアも……」
「物凄い混戦になります……」
想像しただけで、副官は猛烈な悪寒に包まれた。
「そうです。混戦の中、アウレーリアが区別なく兵を倒せば、必ず魔法使いは阻止しようとします」
「アウレーリアと魔法使いが戦うと?」
「ええ、多分そうなります」
リヒトの脳裏にはアインスの言葉が蘇っていた。この危機的な状況の打開はアウレーリアと魔法使いを戦わせ、アウレーリアが勝利する事だった。
『魔法使いを倒せるなら……どんな犠牲も厭わない』
ココロで呟くリヒトは、ほんの少しの望みに賭けた。
「全軍反転、右翼の魔法使いの仲間に向かえ!」
副官は号令を掛けた。もう、後戻りは出来ない覚悟で。
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「十四郎! 味方が見えた!」
神速で群がる敵を突破するアルフィンが叫ぶ。十四郎は槍を振るい、アルフィンの行く手を切り開いていた。
「アルフィン殿! このまま押し切ります!」
まるで大波を掻き分ける様に槍を振るう十四郎に、敵兵達は成す総べなく道を開けていた。
『十四郎、あの女が来た……ビアンカもそっちに向かってる』
脳裏のローボの言葉が十四郎の槍の勢いを更に強くさせた。
『ローボ殿!』
『分かってる、味方とビアンカは守る……で、どうするんだ? あの女……敵味方の区別なんてないぞ』
『命を奪ってますか?』
十四郎の声は重く低かった。
『ああ、躊躇なくな……』
『私が止めます』
十四郎は即答した。その声に迷いや躊躇はなかった。
『そうか……後は任せろ、心して行け』
『はい……』
十四郎はアルフィンの手綱を引いて急停止させた。
「十四郎、どうしたの?」
只ならぬ雰囲気を背中で感じたアルフィンは、そっと振り返った。
「アルフィン殿、アウレーリア殿を止めなければなりません」
「ワタシは十四郎に従うよ」
「ありがとう、ございます」
十四郎は遥か戦場の彼方、アウレーリアの方へ意識を集中した。
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アウレーリアが止まった。周囲の兵は、悲鳴を上げて逃げ惑った。
「十四郎……」
十四郎の”気”を感じたアウレーリアは首を捻る。その”気”はとても痛く、何故自分に向けられているのか分からなかった。
だが、アウレーリアは剣に付いた夥しい血を振り切ると、低く剣を下げて十四郎が来るのを待った。




