鉄の女 1
「もしかしたら、大変な事になる……」
遠くを見詰め呟くロメオの肩は少し震えていた。
「大変な、事とは?」
マルコスは恐る恐る聞くが、ロメオの表情から察そうと思っても全く分からなかった。
「ローベルタ夫人は、言わばイタストロアの象徴です。支持する者は国王陛下よりも多い……だが、決して政治には口出しせず、何時も陰からイタストロアの行く末を見守っておられる」
「そんな方を……果して味方に付ける事が出来るのでしょうか?」
落ち着いた声だが、ロメオは明らかに動揺を隠せなかった。その不安な気持ちはマルコスにも伝染し、思わず声が震えた。
「味方に出来ればイタストロア全土を掌握した様なもの……出来なければ……」
最後の言葉は空間に溶かして、ロメオは大きな溜息をついた。
「……それは……」
思わず息を飲んだマルコスも、それ以上言葉が出なかった。
「成り行きとは言え、我々の意図をローベルタ様に知られたのです。出来なければ、イアタストロア全てが敵になると言う事です」
俯き加減のマリオの言葉がマルコスの胸に突き刺さり、更に言葉を失わせた。
「それにローベルタ様の元には三人の聖守護者がいる……決裂なら、アリアンナ殿は無事だとしても十四郎殿は……」
追い打ちを掛ける様なマリオの言葉。マルコスの心臓は鷲掴みにされ、声は更に掠れた。
「聖守護者とは、何者ですか?」
「……ローベルタ様を守り、従う、齢百歳を超える魔物です。その姿を見た者は全て、命を失うと言われています……」
マリオの言葉が終わると同時に影が動いた。ロメオはその影を一喝する。
「待て! 例えお前達でも到底無理だ。アリアンナ殿が心配なら動くな!」
姿を現した赤い三つの仮面は、小さく呟いた。
「ソレガマコトナラ、ワレラハ、アリアンナヲタスケニイク」
「十四郎殿任せるのだ。最初からアリアンナ殿は、そなた達を残して行っただろう。その意味を考えろ」
「イミ?」
ロメオの言葉は深く重い。三つの仮面は思考を巡らせた。
「アリアンナ殿が不在の今、この隠れ家を守るのがお前達に託された使命だ」
「……ワカッタ……」
暫くの沈黙の後、小さく頷くと三つの仮面は闇に消えた。
「全く、どこに居たんだ?……それより、大丈夫でしょうか? 十四郎は……」
消えた辺りを窺いマルコスは溜息交じりに言う。だが、その声には張りが戻っていた。
「あなたの方が知ってるでしょう? 確かに心配ですが……私には何故が十四郎殿なら大丈夫な気がします」
「……私も、です」
穏やかな表情に戻ったロメオは自分に言い聞かせる様に呟き、マリオも顔を上げ頷いた。
「実は、私も……」
少し照れた様にマルコスも微笑んだ。
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「ビアンカ様! そんなにお急ぎになられましてもっ! シルフィーに付いて行ける馬など、アルフィン以外にはおりません!」
先頭を疾風の様に駆けるビアンカに対し、ツヴァイが叫んだ。
「ビアンカ! 待って!」
長時間全速で走った事などないリズも悲鳴を上げる。
「シルフィー速すぎっ! 疲れる事なんて知らないのっ!?」
あまりの速さにノインツェーンも思わず叫ぶ。
「神速のシルフィー。その名は大陸中に響き渡り、アルフィンが現れるまでは、正に最速の名を欲しいままにしていた名馬! そもそも……」
ゼクスは声を枯らせて説明するが、誰もそんな話は聞いてない。だだ、可哀想に思ったノインツェーンだけは、小さくつっ込んだ。
「ゼクス……聞いてないから」
息も出来ないくらいに頬を叩く猛烈な風も、内臓を根本から揺さぶる振動も、ビアンカは全く気にしていなかった。シルフィーもそんなビアンカの気持ちを察し、全力疾走を止めない。
一秒でも早く十四郎の元に……それしか、今のビアンカには無かった。
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館は思ったより小さかった。小奇麗で清楚、前方に広がる庭には色とりどりの花が咲き乱れていた。
その小さな庭の中では、庭師と思しき小柄な老人が花の手入れをしていた。門を潜ると、直ぐにアリアンナに気付いて剪定ハサミを地面に落とした。
「カテリーナ様……」
何時もの盗賊風戦闘服ではなく、アリアンナは質素だが上品なドレスを着ていた。その豊満で艶の溢れる肢体には嫌味などなく、かえって健康美が輝いていた。ドレスを見た時の十四郎の反応を期待したが、落ち着いて考えれば十四郎は視覚を失っていたのだ。
そんな事も忘れるくらい、アリアンナはドレスを着る行為に舞い上がっていた。だが、庭師が自分を母の名で呼んだ事は別だった。ドレスを着る時に鏡に映った自分と母親が重なる……遠い記憶の中で霞み始めていた母親の姿が鮮明に蘇った。
「私は娘のアリアンナです。母は亡くなりました……」
「そうでしたか……カテリーナ様と瓜二つ……美しくなられましたな……所で、そちらは?」
懐かしそうにアリアンナを見る庭師だったが、一瞬その穏やかな目が光を放つ。
「柏木十四郎と申します。ローベルタ様にお目通りに参りました」
丁寧に頭を下げる十四郎に対し、庭師はアルフィンに目を移す。
「そうですか……馬は、お預かりします」
庭師が一礼すると、今度は馬番の男がやって来る。壮年だが筋骨逞しい男は、アルフィンを見るなり低い声で呟いた。
「聞きしに勝る名馬ですな……天馬と呼ぶに相応しい」
「十四郎、この人何て言ってるの?」
「アルフィン殿が素晴らしい名馬だと」
「ふぅん、そうなの……でも、この人……血の臭いがする」
「アルフィン殿、それでは後ほど」
穏やかな声で返答するが、十四郎にも分かっていた。庭師と言い、馬番と言い、容姿は分からないが凄まじい殺気が十四郎を取り囲んでいるのを確かに感じていた。
館に入ると執事が丁重に迎えた。老齢で痩せてはいるが、その腕には筋肉が躍動し鋭い視線は見えない十四郎にも分かり易く刺さった。
豪華とは言えない質素な内装だったが、それでも手入れは行き届いており決してゲストを不快にはしない。威嚇する装飾品や豪華な美術品など無くても、その館は気後れするくらいに威厳に満ちていた。それは、主の意志を雄弁に物語っていた。
通された応接間では、小さな椅子に腰かけたローベルタが穏やかに微笑んでいた。とても鉄の女と異名で呼ばれる人とは思えず、ごく普通の老婆に見えた。
「あなたがアリアンナですね……苦労を掛けました」
「大お婆様……」
アリアンナは涙を浮かべ、ローベルタの膝に顔を埋めた。その頭を優しく撫ぜながら、十四郎に向かい微笑んだ。
「話しは伺っています。あなたに出来ますか?」
「そう聞かれる事には慣れました。ですが言葉ではなく結果でしか、お答え出来ません」
丁寧に礼をしながら、十四郎は正直なココロを述べた。
「あなた方の”夢”は私とて思い描いています。ですが、今、あなたを目の前にして感じるの事は一つ……それは、私の中に渦巻く懐疑心です。数々のご活躍は、この耳にも届いてますが俄かには信じられません」
「真実です! 私は何度も見ました! 十四郎は本物の魔法使いなのです」
顔を上げたアリアンナがローベルタを見上げるが、優しく見下ろしながら呟いた。
「あなたを信用しない訳ではありませんが、国を守り民を守る為には寸分でも間違った判断をしていけないのです。その為にも自身の目で見る事が必要なのです。この方がお強いのは分かります。ですが、強いだけでは……」
「十四郎は強くて……優しくて……」
アリアンナの声は、ローベルタの膝に埋もれた。
「この先の山に民を脅かす魔物が出ます……退治出来たなら、信じましょう……あなたが、本物の魔法使いだと……」
「……魔物?」
穏やかな声だったが、ローベルタの言葉の内容はアリアンナの凍らせた。
「魔物ですか?」
頭を掻きながら苦笑いする十四郎を見たアリアンナは一瞬で氷から解放され、大きな溜息を付いた。
「十四郎……あなたって人は……」
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執事が案内して十四郎が部屋を出て行くと、ローベルタはアリアンナの頬を撫ぜながら言った。
「あなたは何故? あの者をそこまで信じるのです?」
大きく息を吸ったアリアンナは、ゆっくりと話し出した。
「私は……母を死に追い遣った盗賊を憎みました……その盗賊を撲滅する為に、自らも盗賊になりました。盗賊になって初めて多くの事に気付きました……確かに乱暴者や悪人の集団ですが、多くが訳や痛みを抱え……何も無い者達にしてみれば、唯一の”生きる糧”なのです。そして、その盗賊を亡ぼす為には……多くの殺生をして、この手を血に染めないとなりません……葛藤と呵責……そんなモノに迷っている時、十四郎に出会いました……十四郎はどんなに激しい戦いの中でも、相手の命を奪いません……それどころか敵だった相手が、いつのまにか味方になってしまうのです……私の憎しみに塗れたココロも、いつのまにか……」
「そうなのですか……」
アリアンナの話を聞いたローベルタは小さな溜息と共に呟いた。
「どうか、私達に力を貸して下さい」
ローベルタの手を握り締めたアリアンナだったが、その手は小さくて冷たかった。
「……あなた方の夢、戦いの無い平等な世界を築くと言う事は……民衆と支配階級とでは意味が異なります。平等な世界は支配階級にとって、権利の剥奪を意味します……人は手にした特権を簡単には手放しません……世界を巻き込む戦いになります……戦闘に特化したのが騎士であり、貴族です……平民では成す術はありません……例え勝利を得たとしても、多くの尊い血が流れるでしょう……それならば、私は今のままで良いと考えます」
「しかし、今のままでは!」
更に手を強く握るアリアンナに対し、ローベルタも強く握り返した。
「もう遅いのです……聖守護者は決断しました……あの者は危険だと」
その言葉はアリアンナの胸に、今度こそ氷の刃を突き立てた。