国境
ビアンカ達が国境の街に到着したのは、夕方前だった。直ぐにツヴァイが十四郎の前に跪いて、声を震わせた。
「十四郎様、申し訳ありません。私が付いていながら、ビアンカ様に……」
「どうしました?」
最後の方は声にならないツヴァイを心配顔で見詰めた十四郎は、少し様子のおかしいビアンカに視線を向けた。ビアンカは駆け寄ったリズやランスローに対し、戸惑う様に後退り顔を強張らせていた。
「ビアンカ、どうしたの?!」
リズが肩を揺するが、ビアンカは驚いた様な表情を向けるだけだった。
「ビアンカ殿、このランスローをお忘れか?」
リズを押しのけ、ランスローがビアンカに迫る。記憶を無くしたのなら、スタートラインに戻った事と同義。十四郎に勝てる可能性があると焦るランスローは次々に言葉を浴びせるが、ビアンカは恐れるだけで反応は薄かった。
「アインスです……奴が、毒矢で……ビアンカ様は、記憶を無くしてしまいました」
「そうですか。顔を上げて下さい、ビアンカ殿は無事だったんですから」
俯いたまま顔を上げられないツヴァイの肩を優しく叩くと、十四郎はビアンカの元に向かった。
「ビアンカ殿……」
優しく微笑む十四郎を見たビアンカは、一瞬の胸の痛みに襲われた。そして、夕日を反射する十四郎の銀色の瞳に吸い込まれる様に呟いた。
「あなたの目……銀色ですね」
「その様ですね」
他人事みたいな十四郎の言葉は、ビアンカに不思議な感覚をもたらせた。
「あなたが十四郎?」
「はい」
頷く十四郎を見て、少しビアンカの胸がドキドキはするが、それ以上の事は起こらなかった。
「ビアンカ! 十四郎様は目が見えなくなったのよ」
「目が?……」
そう言われても目の前の十四郎の動きは普通で、とても目が見えない様には思えなかった。
「本当に見えないんですか?」
「あっ、はい」
頭を掻きながら苦笑いする十四郎を見たビアンカは、また胸の片隅に痛みの様な違和感を感じた。
「治療法を探している暇は無い。今は、先を急ぐ事を優先させる」
十四郎の隣に来たマルコスは済まなそうに告げ、頷いた十四郎も同意した。
「そうですね、先を急ぎましょう」
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門の前で整列すると、リズがマルコスに近付いた。
「マルコス殿。ビアンカは、このままでいいんですか?」
「はい。ビアンカ様は狼に連れ去られましたから。ここにいるビアンカ様は、もう別人です」
「意味が分からないのですが?」
首を傾げるリズに向かって、マルコスは自信ありげに微笑んだ。
「まあ、任せておいて下さい。それよりも十四郎が、くれぐれも目を見られない様にリズ様も注意して下さい」
「分かりました」
一抹の不安は残るが、自信に満ちたマルコスを信じるしかないとリズは十四郎の元に向かった。誰もが固唾を飲むが、マルコスの態度は本当に不安を微塵も感じさせなかった。
「リズ様、師匠を信じて下さい」
ココがリズの耳元で囁く。
「そうだ。口から先に生まれた様な人だからな」
少し呆れているのか、リルは見せた事のない困惑した表情だった。そして、今度はビアンカの方を見たリズは、大きな溜息を付く。それは寄り添う様なランスローが、とても気の毒に見えたからだった。
そして、直ぐに一列縦隊で国境の砦の門へと入った。一行が入ると、門は閉じられエスペリアムの役人らしき小太りの男がやって来る。
「代表者は誰だ?」
「私でございます」
深々と頭を下げたマルコスは、そっと包みを手渡した。受け取った役人は素早く中を確認すると、周囲を見回す。
「我が国に入国する理由を述べよ」
「私たちは、アングリアンの大道芸を披露しながら旅を続けております。エスペリアムには親善の意味も込め、国王陛下より親書をお預かり致しております」
マルコスが親書を手渡すと、役人は国王のサインと紋章を確認した。
「確かに……だが、あの男は?」
役人が指差す方向には、顔に包帯を巻いた十四郎の姿があった。
「こちらに参る途中、盗賊に襲われ怪我をしました」
マルコスは頭を下げながら訳を話した。
「盗賊? これだけの人数でよく無事だったな……それより、嫌な噂を聞いたのだが……」
盗賊には突っ込まない役人だったが、噂と言いながら顔を顰めた。
「噂ですか?」
「そうだ……銀色の目を持つ男が現れたと」
「それなら、私も聞きました。何でも、盗賊の一味だとか……」
「そうなのか?」
「はい。我々を襲った盗賊が言っておりました」
マルコスは、上手く誘導しながら着地点を探した。
「で、何故盗賊の襲撃を逃れられた?」
「そこはそれ……」
役人の握り締める袋をマルコスが見ると、役人も顔を綻ばせる。
「まあ、そうだな……それと、もう一つ噂を聞いた」
「ああ、踊り子ですね」
マルコスは含みのある笑みを浮かべるが、役人は少し眉を潜めた。
「本当なのか? 狼に連れ去られたと聞いたが」
「ええ、あの娘の姉です」
マルコスが指差す先には、ビアンカがいた。
「なんと美しい……」
「あの娘など、足元にも及ばない美しさでした」
「そうか、惜しい事をしたな……」
役人は残念そうにビアンカを見詰めた。人の印象は言葉で操れる。ビアンカが足元にも及ばないと言われれば、妄想と想像は膨らみ、ビアンカの美しさは土台でしかなくなる。
最早役人にとって、ビアンカは一番の美しさではなくなっていた。それはマルコスの話術による誘導で、存在しない最高の女に思いを馳せるしか出来ない状態を作ったのだった。
「許可する、通るがよい」
役人は背筋を伸ばし、落ち着いた声で告げた。砦を出ると、そこは目的の地……エスペリアムだった。