救い
敵船が近付いた瞬間、ビアンカは跳んだ。海風がビアンカの髪をなびかせ、太陽の反射で黄金色に煌めかせた。
その美しさと神々しさは、見る者を釘付けにした。そこにいた全ての者が、まるで脚に根が生えた様に動けない。放心状態は伝染し、今の状況さえ忘れさせた。
刀を抜いたビアンカは、一直線に十四郎の元に走った。途中擦れ違った敵兵は、音も無く甲板に倒れて行った。直ぐに気付いたココが叫ぶが、ビアンカの耳には届かない、ただ真っ直ぐに十四郎だけを見詰めてビアンカは走った。
「十四郎……」
手の届く距離で十四郎を見たビアンカは、背筋が冷たくなった。振り向いてはいないが、その横顔はとても悲しそうに見えた。ビアンカは振り切る様に首を振ると、十四郎の前に出て刀を構えた。
その構えはとても自然で、遠くから見ていたリズは身体が震えた。十四郎も急に前に現れたビアンカに気付くと、胸の奥に異変を感じた。
美しい髪から漂う仄かな香り、細い体と華奢な手足……そして、泣きそうな顔で振り向いたビアンカの瞳に、十四郎は救われた。
自分では大丈夫だと思っていた、戦えると思っていた。だが、敵兵が血飛沫を上げる度に、十四郎の胸は端の方から錆に覆われて行った。
痛みが伴う訳ではない、息が苦しくなる訳ではないが、確実に十四郎は闇に飲まれそうになったいた。だが、十四郎の胸の奥の錆が音も無く剥がれる、剥がれた場所から光が煌めく。
「十四郎……もう大丈夫だから」
ビアンカは背中で言うと、ゆっくり振り返る。そこには、優しい笑顔の十四郎がいた。
「……はい」
十四郎の笑顔と短い返事は、ビアンカの周囲を光で包んだ。この笑顔が見れるなら……ビアンカは、もう何も怖くなかった。そして、ポケットから取り出したリボンで髪をポニーテールに結ぶとマカラ兵達に対峙した。
「ビアンカ様!」
直ぐに駆け付けたツヴァイの方を少し振り返ったその顔は、ツヴァイでさえ息を飲む美しさだった。力を抜いて自然に構えた腕に力が漲る、甲板に立つ脚に気力が湧く。
ビアンカは、刀を正眼に構えると一気に前方のマカラ兵を切り裂いた。そして、その視野の端では十四郎の刀も唸りを上げていた。
「違う……」
呟いたリルは、弓を持つ腕を硬直させた。
「何が違う! 十四郎様の動きに変わりはない」
ノインツェーンは自分でも変化に気付いていたが、ビアンカのせいだとは思いたくなかった。
「剣が……優しくなった」
更に呟くリルの声が、ノインツェーンの胸をチクリと刺した。
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「何じゃ、あの女……」
ラナはビアンカの動きに唖然とした。十四郎と同じ様に次々と敵を倒す姿には、ダンスをしているみたいなリズムと躍動感が満ち、時折乱反射する太陽の眩い光でさえ脇役に見えた。
それだけではない。ビアンカが敵船に乗り込んだ途端、味方の士気は向上しツヴァイ達の動きも目に見えて活発になっていた。気付けば、あれだけいたマカラ兵も数えられる位に数が減っていた。
「まるで、戦女神の降臨ですな……」
バンスの呟きがラナのココロを逆撫でし、到底敵わぬと追い込んだ。だが、震えるココロを押さえ付け、ラナは力の限り叫んだ。
「皆の者、戦はこれからじゃ! マカラの兵を海の藻屑に変えよ!」
それはラナの意地、女の意地だった。しかし、穏やかな声のバンスが静かに制した。
「お声は兵には届きません……あなた様は……」
「分かっておる……」
急に俯いたラナは、小さな声で呟いた。
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「弓隊! 味方の手薄な場所に放て! 敵船の帆に火矢を!」
マルコスは大声で叫び、味方を鼓舞する。
「よく狙え! 味方をを射るなよ!」
フォトナーも俄然有利に傾く戦況に声を限りに叫んだ。
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「そろそろ最後の仕上げだ!」
ツヴァイの合図で、ゼクスが船倉の格子を倒した。直ぐにココが鎖で開かない様に縛る。ノインツェーンはマストの根元に火を点け、リルは帆に火矢を放った。
「船を寄せろ!」
ツヴァイは大声で味方船に叫び、十四郎の元に走る。
「敵は粗方片付きました、帰る用意を。それと、帰りはビアンカ様をお願いします」
「分かりました」
ツヴァイの言葉に十四郎は素直に頷いた。敵の残存は少なく、船倉から出てくる敵も無くなりかけていた。十四郎は素早くビアンカの元に走り、背中越しに声を掛けた。
「ビアンカ殿、帰りますよ」
振り向いたビアンカの瞳に、また笑顔の十四郎が映る。”帰りますよ”の言葉がビアンカの胸を優しく包んだ。
「はい……」
短く返事したビアンカは、そっと頬を染めた。