3
「……っ!」
儀式を行っていたロウは、その光と同時に起こった爆風にたたらを踏んだ。
光によって一時的に失われた視力が戻ってくると──
そこには天井も壁も、すべてが吹き飛んだビニールの部屋の残骸があった。
「…………!!」
慌てて息を止めるロウに、声が掛かる。
「もうそんな必要はないぞ。ガスは全部消えた」
晴れていく土ぼこりの中、少年が立っていた。手には片刃の直刀が一振り。
その剣は無骨ながらも鋭さを備えた、左右非対称の外形をしていた。刃は冷たい光を湛え、近寄りがたいほどの鋭利さを見る者に感じさせた。
「馬鹿な……何故」
信じられないとばかりにロウは呻いた。
この男は既にガスに侵されていたはずだ。一旦神経ガスを吸入すれば、ごく微量であったとしても、深刻な後遺症が残る。ましてや痙攣し泡を吹くほどだったこの男が、何故こうも平然としている?
呆然とするロウをよそに、傍らの少女を束縛する縄を、少年が断ち切った。さらに目を覆っていた布の切れ端が取られると、少女はまぶしさに目を細めつつも彼を見上げ、
「ありがとうございます……」
そう呟いた。少年は横目で彼女を見て、言葉を返す。
「いや……こっちこそ助かった」
周りで倒れていた生徒たちも意識が戻ったのか、次々に身を起こし始めた。
いずれも、神経ガスの後遺症どころか、自分が打ち込んだ針すら消えてしまったかのように、普通に動いている。
もはや、儀式が失敗したことを認めざるを得ない状況だった。どうやったかは分からないが、毒ガスは消え、その影響すらも消え去ってしまっている。
(だが……まだ終わりではない……)
ロウが視線を巡らすと、外に全身を復元した刑天が待機しているのが見えた。自分を守るよう命令していたが、今の光を攻撃とは認識しなかったのだろう。
こちらにはまだ刑天がいる。仕切り直しだ。ロウは立ち上がり、
「皆殺しにしろ」
驚くほど平坦な声で、刑天へと命を発した。
ロウの命を受け、直哉たちのいる建物へと、刑天の巨体が津波のように押し寄せる。
「──!」
それを見て、身を強張らせた静音の姉の前に、直哉が立った。
「大丈夫だ」
そう言って腰だめに剣を構える。同時に銀色に輝く刀身を、清冽な神気が覆っていく。
一閃。
横一文字に放った斬撃から、剣閃とでもいうべきものが迸った。それは刑天の堅牢な皮膚を容易く切り裂き、肉を斬り、骨を断ち、背後へと抜けた。
腰から分かたれた上半身が、勢いそのままにドスンと前に落ちる。下半身は勢い余って前に落ちた上半身にぶつかり、足をもつれさせて転び、倒れた。
直哉はそのまま、注意深く刑天を見ていた。五秒、十秒と経っても、刑天は動かない。
「どうした……何故蘇生しない!」
ロウが叫ぶ。
当たり前だ。神剣によって魂ごと切り裂かれたのだ。直哉は名状しがたい実感として、刑天が完全に死んだことを理解していた。
改めて、握っている直刀を見る。
「これは──」
手の中にある神剣に思いを巡らせていると、視界の端で、ゆらりと幽鬼のようにロウが向き直るのが見えた。
「やってくれたな……」
刑天の敗北を悟ったのか、ロウの表情は暗く、どこか遠くを見るような目をしていた。
「いい加減、もうあきらめろ」
直哉の言葉に、ロウは凄絶な笑みを浮かべる。
「このまま神社本庁に囚われ、失意の内に死ねと? 御免だな。左道に堕ちようとも、わたしは武人として死ぬ。……最後にもう一度わたしと立ち会え」
そのままロウは直剣を構える。それは深手を負っているにも関わらず、淀みない流れるような動作だった。
「味方をあんな風に殺しておいて、何を調子のいいことを言ってやがる。お前みたいなのがまともに死ねると思うなよ」
そう言ったのは昂だった。いや、彼だけではない。先ほどの神剣の光によって回復したのだろう、静音や沙耶、田所も立ち上がり、ロウを囲むように身構えていた。
「……みんな手を出すな。自分一人でやる」
神剣を構えながら、直哉は言った。
「馬鹿言うな、こいつの自己満足なんかに付き合う必要はないぜ」
「そうだよ。こんなやつ、大勢でやっつけたって誰も卑怯だなんて──」
「いいから、手を出すな……っ」
強い口調に、二人は口を紡ぐ。
直哉の表情に、焦りが浮かんでいた。
ロウの四肢から発散される気。それが尋常でなかった。
血を大量に失えば、比例して気も失うことになる。ロウの身体にこれだけの気が残っているはずがない。だが、奴の発するこの禍々しい気は一体なんだ。
答えは分かっている。ロウは気を生み出す大元となる、命そのものを削って気を捻出しているのだ。それによってもたらされるのは、取り返しのつかない魂の欠損。彼はこの戦いに勝ったとしても、間もなく廃人同然となり、そして死ぬだろう。
それは自分が相手をすれば、最悪でも死ぬのは一人で済むということでもある。今のロウを相手に、静音や昂では数合も持たないと思われた。
ロウの胸部の傷から、止まっていた血が再び大量に滴り始めていた。しかし彼は気にする素振りすら見せず、
「この剣では、神剣の相手をするには荷が重いか」
懐から、何も書かれていない符を数枚取り出すと、傷口の血を指に付け、一気に何かを書く。それらを四方の地面へ撒くと、
「吩!」
間髪入れずに震脚を放った。途端に地面が砕け、人の胸ほどの高さはある石碑のようなものが、地中から複数屹立する。
「なっ……!」
静音たちが驚愕する中、ロウは一つの苔むした石碑に近づく。その頭頂部に、剣の柄が生えていた。彼はそれまでの剣を袖の中に隠し、柄を掴むと無造作に引き抜く。
「碧名龍燐剣」
ロウが剣の銘らしきものを呟く。
「剣を召喚できるのは貴様だけではない。もっとも、これほどの剣を符で呼び出したのは、わたしも初めてだがな」
刀身からは、自然の瑞気を凝縮したような、瑞々しくも燃えるような気が、静かに立ち上っていた。ロウほどの男が命を賭して、初めて呼び出せるレベルの剣なのだろう。
直哉は油断なく剣を構える。ロウも同様に構えを取り、
「では、行くぞ」
仕掛けたのはロウからだった。箭疾歩にも似た、一足飛びの片手順突き。
「!」
予想を遥かに上回る速さ。いなすことすら出来ず、直哉は身を捩ってかろうじてかわした。勢い余り、両者の身体がぶつかる。
密着状態。ロウの右手が引かれ、左拳と左膝が同時に振り上がった。
「……っ!」
提膝斬捶。ショートアッパーと膝蹴りの同時攻撃を、咄嗟に右肘と右膝で防ぐ。骨まで響く重い衝撃。直哉の体が、一○メートル近く後ろに飛ばされる。
尋常でない気が一撃に込められていた。受けに回れば一瞬で押し切られるだろう。
(だが……)
神剣の力のせいか、先ほどまでの怪我や疲労は全て回復している。正真正銘、これが最後の戦闘。ならば今度こそ後先を考えず、本来の全力で気を使える。
「おお……っ!」
今度は直哉から間合いを詰め、剣戟が交差する。
先の戦いを凌駕する、超高速、超接近戦での刃の差し合い。斬撃に限らず、一撃必倒の勁が込められた拳や掌打が、虚実を織り交ぜて繰り出される。
虚に惑えば死に、実を捌き損なえば死ぬ。薄氷を踏むような駆け引き。だが互いに全く譲らず、致命に至らない傷が双方に増えていく。命を代償に気を得たロウと、神剣を得て万全の体調となった直哉の戦いは、まさに死闘というべき様相を呈していた。
「すごい……」
さらわれた生徒たちの縄を解きながらも、沙耶は自然と呟いた。
他の連中も同様だった。静音や昂、田所、さらには開放された生徒たちもが、二人の戦いに目を奪われていた。
ふと、昂の槍を握る手に力が篭るのが見える。顔を伺い見ると、彼は複雑な表情をしていた。武術の道を行く者として、同い年の直哉に思うところがあるのだろう。
沙耶とて、何も思わないわけではない。これほどの高次元での戦闘、代表戦はおろか公安の能力者同士の模擬戦でも見たことがない。それを同い年の少年がやっているのだ。
そして、一人命を賭けて戦う彼を、手助けすることすら出来ない自分たち。直哉が手を出すなと言った意味は、今やこの場の全員が理解しているだろう。
情けない。不甲斐ない。諜報が主で戦闘は本来の担当ではない自分ですら、そう思うのだ。自分の力に自負のあった静音や昂の心情はいかほどだろうか。
やがて、休みなく戦い続ける二人が肩で息をし始めた頃、彼らの表情に変化があった。
(え、なんで……)
何故、今その表情をするのか。それが理解できず、沙耶は戸惑うばかりだった。
その時、ロウは喜悦の感情の中にいた。
これほどに心躍る戦いは、いつぶりだろうか。相手の手を凌ぎ、読み切り、裏をかいたと思った瞬間に、意外な反し手が襲い掛かってくる。逆に読み負け、体勢を崩された瞬間、今まで思い浮かばなかったような、斬新な切り返しが自然と閃く。もう大きく変わることはないと思っていた自身の限界が、刻一刻と塗り替えられていく。
そうだ。自分が武を志したのは、義侠心からでも野心からでもない。人を傷つけ、殺めることが好きだったわけでもない。全ての些事から解き放たれ、余分な思考が削ぎ落ち、ただ自身の武が極まり、透き通っていくようなこの瞬間が好きだったからなのだ。
相手の少年も同じようだった。傷つき、血塗れになりながらも、その顔には笑みが浮かび、その動きから歓喜の心情が伝わってくる。
「ははっ……!」
互いに獰猛な笑みを浮かべながら、急所を狙った斬撃を交差させる。見事にこちらの攻めを切り返す相手に称賛の念が沸くと共に、さらにその相手の反撃を巧妙に凌ぐ自分に対し、自尊心にも似た何かが満たされていくのを感じる。ロウはただただ、今この瞬間が楽しかった。
そして、ふと思う。いつからわたしは、人の存在を憂い、絶望し、憤るなどという、身の丈に合わぬことを思うようになったのだろう。こうして、好敵手と言える相手と競い、鎬を削り、高め合っていれば満足だったはずだ。一体、いつから──
不意にロウの思考に空隙が生まれた。相手がそれを逃すはずもなく、ロウの剣は一瞬のうちに、手の内から弾き飛ばされていた。
(もらった……!)
実力が拮抗しているからこそ、素手と得物とでは、力の差は歴然となる。剣を失ったロウへと、直哉は一気に間合いを詰めた。
「……っ」
ロウは弾かれた剣へ向かって、鋭く飛び退る。
「逃すかっ……!」
全力で追いかける。が、落ちた剣のかなり手前で一旦着地したロウが、急にこちらへと反転し、無いはずの剣を構え突進してきた。
「!」
先ほどまで使っていた直剣だった。いつのまに袖から出したのか。
ロウがさらに地を蹴る。初手と同じ箭疾歩。
不意をうたれたものの、すれ違いざまに逆袈裟で切り落とすべく、直哉は剣を振りかぶる。しかし次の瞬間には、ロウが目前まで迫っていた。速すぎる。こちらが全力で突進していたのもあるが、初手を遥かに超えた速さの突きだった。
横への変化は間に合わない。このままでは胴を貫かれる。
「──っ!」
超反応とでも言うべき判断で振り上げた手を止め、手の内を返す。
ロウの直剣の切っ先が僅かに直哉の胴へと潜ったのと、巻くように切り返した神剣がその刀身の半ばに触れたのは同時だった。
火花。斬れ飛ぶ刃。刹那、互いがさらに動く。
短くなった直剣での再度の突き。狙いは喉。あえてそれに向かう。右に変化しつつ、摺り上げるような左薙ぎ。すれ違うように放ったそれは、ロウの胸部の半ば以上を切り裂いた。
力をなくしたロウの身体が片膝をつき、横に倒れる。
振り切った姿勢のまま、直哉は少しの間動かなかった。
やがて剣をおろすと、息をつき、傍らに倒れたロウを見下ろす。彼の横顔はどこか、満足気な様子だった。
「…………」
人間との契約で縛られ、人を依り代にして生まれたばかりの刑天より、よほど生きた心地のしない相手だった。直剣を両断するのがほんの少しでも遅かったら、切っ先は内臓にまで達していただろう。腹部の服には、僅かに血が滲んでいる。
だが、その極限の状況をこそ、直哉もまた楽しんでいた。ランナーズハイにも似た高揚感と、これほどの強敵を倒したという達成感。それらが胸中を満たしている。
その余韻の中、ふと、直哉は左の首筋に手をあてる。
ぬるりとした感触。大量の血液が、そこからあふれ出していた。
「…………!」
遅れてやってきた強烈なめまいに襲われ、その場に膝を着く。
「新堂!」
「直哉君!」
静音たちが駆け寄ってくる。
「……かわしきれてなかったのか」
直哉は苦笑を浮かべる。ロウの最後の一撃は、痛みを感じさせることすらなく、見事にこちらの頚動脈を切断していた。さすがと言うべきだろうか。
「喋るな……!」
静音が胸元のタイを抜き取り、傷口を圧迫した。身体を横たえさせ、背中に手をあてて上半身だけ起こす。それでも出血は止まらなかった。
(これは、まずいかもな)
切られた箇所が悪すぎた。これでは気を用いて血管の癒着を待つ間もなく、失血死してしまうだろう。
直哉の周りに、さらわれていた生徒たちが、心配げに集まってきていた。
静音は彼らを見回し、
「誰か、治癒の術を使える人は!?」
返事は無かった。そこに一人の人影が近づく。
「大丈夫よ、静音ちゃん」
「姉さん……」
「彼の神剣があれば、この程度の傷なら──」
その神剣を持つ直哉は、無言だった。
「え、そんな、何故……? この剣は……」
静音の姉が口に手をあてる。
「俺にも分からない。でも、そういうことだ」
「そんな、これじゃ……」
状況の分からない昂が声を荒げて、
「どういうことだよ、この出血じゃそう長くもたないぞ! 早くなんとかしねーと!」
「わたし、救急車呼ぶね!」
沙耶が携帯を取り出す。既に静音のタイは血で真っ赤に染まっていた。出血は止まらず、直哉は激しい悪寒と、酸欠による息苦しさに喘ぐ。
「これじゃ間に合わない……誰か、どんな些細な術でも構いません。治癒の術が使える方はいませんか!」
静音の姉の呼びかけに、一人の女子生徒がおずおずと手を挙げた。
「こっちに来て!」
「で、でも、わたしが使えるのは、擦り傷を治すくらいの術で……」
「構いません、わたしが後押しします。傷そのものはそんなに深くないの。切れた血管さえ修復できれば……さあ、早く……!」
心臓の鼓動に合わせ、どくどくと血が流れ出ていくのを直哉は感じていた。狭まっていく視界の中、誰かの手が自分の首筋に伸びるのが見える。その上から、別の手が重ねられると、じわりとそこが熱を持ったように感じた。
直哉に分かったのは、そこまでだった。
◆
神楽殿の屋根に、直哉たちの様子を眺める、二つの人影があった。
「彼は大丈夫ですかな」
片方が言った。白髪を頭の上でちょんまげのように結った、小柄な老人だった。
「あの程度でくたばるような、やわな鍛え方はしていない。心配は無用だ」
もう片方の人影がそれに応える。二メートルをゆうに超える、巨大な片刃の直刀を持った女性だった。
「大体、なんであそこで天羽々斬を召還するんだ。あの娘が言った内容なら、どう考えたってこっちだろう」
憤慨した様子で、女性はその手の剣──布都御魂剣を見た。
神話の時代において、神倭伊波礼琵古命の軍勢を襲った毒気と、それに伴う死に至る眠りを払った浄化の霊剣だ。
「しかし何故、天羽々斬であのような、浄化と治癒の奇跡を起こせたのでしょう?」
老人がたずねた。
「大方、これと近い場所に安置されているうちに、ある程度神性が移っていたのだろう。まぁ、一回きりの芸当だろうな」
「……なるほど。しかしどちらにしろ、刑天を倒すには、天羽々斬が必要だったとも言えますな。彼は無意識にそれを感じ取って、天羽々斬を選んだのでは?」
老人の言葉を受けて、その女性──赤羽郁は鼻を鳴らして笑った。
「あの馬鹿がそこまで出来るものか。確かに不死性を破るのに、ヤマタノオロチを倒した天羽々斬はもってこいだが……恐らく、あいつの闘争本能が、無意識に相性のいい剣を引き寄せたというだけだろう」
「ふむ……」
「それはそうと、あの娘、興味深い力を持っていたな」
「やはり、分かってしまいますか」
「神性を帯びた陽の気──今回のことに、神社本庁の本部を関わらせなかったのは、あの娘がいたせいか」
「あの子の能力は、わたしの学校内でも機密扱いでして。力が公になれば、あの子は本部の術者たちの格好の玩具にされてしまう」
「大きな戦力は動かせない。だから、わたしに依頼を?」
老人は頷いた。
「まぁ、あいつにとってもいい経験になっただろう。さて、わたしは帰るとするよ」
「そうですな。同じくわたしも帰るとしましょう」
そう言うと、二人は闇に紛れるように、神楽殿の屋根から去っていった。
次でラストとなります。




