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「それじゃ、その子は引き取らせてもらう」
少年が、一人残った蛇沼へと言った。
彼に襲い掛かった若者たちは、今はうめき声を漏らしながら、フロア中に寝転がっている。少年が全員を倒すのに、三〇秒とかかっていなかった。
「はっ、すげえな。プロの格闘家だって、この人数相手じゃこうも簡単にはいかないぜ」
手下が全滅したにも関わらず、蛇沼は楽しげな様子だった。少年は興味なさげに、早紀と呼んだ少女の傍らにしゃがみ、ロープをほどき始める。
「んでも、俺も一応こいつらの頭なんだ。素直に帰すわけにはいかないなぁ」
その言葉を聞くと少年は手を止め、蛇沼と対峙するように立ち上がった。
「だめ……! こいつは化け物よ、勝てっこない!」
早紀が少年へと叫ぶ。
「いいじゃねえか。この少年にも、本当の強さってのを教えてやろうぜ」
言いながら、蛇沼が左手のスーツの袖をまくる。
「まぁ、分かったころには死んでるがな」
「やめ──」
蛇沼の手が滑るように伸び、膨張した。巨大なあぎとが少年に迫る。
もう助からない。早紀が顔を背けた瞬間、ビル全体を強烈な縦揺れの振動が襲った。
「え……?」
揺れに驚き、振り返った彼女の口から声が漏れた。頭上からは、土ぼこりがぱらぱらと落ちてきている。早紀はそれが降ってきた頭上を呆然と見上げていた。
天板が砕け、クレーター状に陥没している。少年を飲み込むべく迫った巨大な口は、振り上げられた彼の右足によって、フロアの天井に深々と蹴り込まれていた。一八〇度広げられた蹴り足と軸足が、地面に対し一本の垂直な直線となっている。
「よっと……」
振り上げた足の勢いか、もしくは自ら飛び上がったのか、天井近くまで跳ね上がっていた少年が地面へと着地する。遅れて、何かが割れる音が響いた。
「!?」
音のした方向を早紀が見ると、大窓のガラス一面にひびが走っていた。まさか今ので、ビル全体の構造が歪んだのだろうか……?
さらに続いて、天井から巨大化した蛇沼の左腕が落ちてきた。一歩下がった少年と早紀の前に落ち、埃を巻き上げる。
「ぎ──」
蛇沼が、食いしばった歯の隙間から声を漏らした。すぐにそれは絶叫へと変わる。左腕を押さえて転げ回り、やがて動きを止めると、荒い呼吸のままで少年へと憎悪の篭った視線を向けてきた。
「馬鹿な……銃弾すら通らない俺の腕が……っ。そうかてめえ、始末屋だな……」
「始末屋? 馬鹿言うな。俺はこの街の、単なる便利屋さんだ」
少年が言った。
「ふざけんな……俺は『醜悪奸邪』の指定すら受けた、<悪食>の蛇沼莞爾だぞ……ど素人のガキなんぞに負けるわけがねえだろうが!」
「……へえ」
蛇沼の言葉に少年が反応した。
「この程度の能力で、自慢げに……ドヤ顔で言ったところ悪いけど、この四月に手配されたばかりだろ」
「なっ……」
「俺が相手でよかったな。プロの始末屋だったら、殺されるか、死んだ方がマシな目に遭うところだったぞ」
言いながら、少年は右手を振りかぶった。その手にはいつの間にか、一振りの日本刀が握られている。
「え」
早紀は目を見開いた。直前まで、この少年は素手だったような──
「よ、よせ──」
蛇沼の制止を無視して、少年は無言で刀を振り下ろす。その一閃は、力なく横たわっていた彼の巨大な左腕を両断した。
再び蛇沼が絶叫をあげる。半ばから分かたれた左腕はみるみるうちに乾燥していき、灰色の土くれになって崩れた。
「止血の必要は……なさそうだな」
蛇沼のスーツの左肩から先が、しなびたようになっていた。繋がっていた左腕の大部分が、同じように崩れてしまったのだろう。スーツに血の滲む様子は見られない。ちぎれた部分がどうなっているのかは分からないが、確かに出血はなさそうだった。
「大丈夫か? とっととここを出よう」
少年は刀で早紀を縛るロープを切り、手を取って立ち上がらせた。
「う、うん……平気だけど……警察とか呼ばなくていいの?」
「普通の法律なんかじゃ、こいつは裁けない。本来なら、そういうのを専門に取り扱ってる所に連れて行くんだが……めんどくさい」
「めんどくさいって……」
「こいつの始末は俺の仕事じゃない。君を無事に連れ帰るのが俺の仕事だ。それに、こいつはもう二度と能力を使えない……俺がやらなくても、すぐに誰かが始末してくれる」
「…………」
少年の言葉を聞いて、何人かの若者たちが蛇沼の方に視線を向けるのを、早紀は見た。
憎悪で濁った視線。彼らはついさっき、仲間の一人を蛇沼に殺されたばかりだった。
「ぐ……おい、待て──」
蛇沼が呻く。少年は一顧だにせず、早紀の手を引き、フロアを出た。
「ここまでくればもう平気か」
ビルを出てしばらく歩いた頃、少年は早紀の手を離した。
「あ……」
「?」
期せずして声が出てしまい、早紀は取り繕うように続けた。
「ええと、助けてくれてありがと。……だけど、あなた誰?」
顔が赤くなっているのを自覚しつつ、たずねる。
「君の両親から、ヤクザの事務所へ殴りこみに行った娘を助けて欲しい、って依頼された者だ」
「…………。まぁ、一応分かった。それと、あれは一体何なの?」
「あれ、じゃ分からんのだが……」
「あれよ、あれ! あの……チャラ男の手が……」
「ああ……あれは餓鬼の変種だな。俺も実際見るのは初めてだった」
「ガキ?」
「餓鬼だ。餓える、に鬼。あれは人間に寄生して、社会に紛れながら人間の精気を食らう変種だ。口の奥は餓鬼界に繋がっていて、飲み込んだ死肉を餓鬼がさらに貪るとか」
少年の説明を聞き、早紀は眉をひそめる。
「とても信じられない話だけど、実際この目で見た後だしね……」
「まぁ、普通に暮らしてれば、あんなのに逢うことはもうないさ。後は君を家まで送って、それで終わりだ」
「それで終わり……」
早紀は少年の言葉を繰り返すと、彼の前に小走りに出て、振り向いた。
「ねえ、じゃあ家に着くまで色々聞いていい?」
「質問にもよるけど、いいぞ」
特に渋る様子もなく、少年は了承する。早紀は少年の横を歩きつつ、質問を始めた。
「あなたも何か変な能力あるの? さっきの奴を倒したのも能力?」
「あれは単なる蹴りだ」
「嘘でしょ。わたしも武道やってるから分かるけど、あんなふざけた威力、人間が出せるわけないよ」
「鍛えれば出せる」
「嘘だあ。あ、じゃあね──」
踏み入った質問をすると、少年は上手くはぐらかして答える。ならばと他愛のない質問を繰り返すうちに、二人は早紀の家へ到着した。
「じゃあ、確かに送り届けたからな」
「うん、ありがと。あ、お金とかは……?」
「後で親御さんに振り込んでもらう。大した額じゃないから、安心しろ」
背を向けて去る少年に、早紀は声を掛けた。
「あ、最後に名前教えて!」
少年は振り返り、名前を告げた。
「新堂直哉だ。もしまた何かあったら、連絡をくれ。連絡先は親御さんが知ってる」
新堂直哉。去っていく少年の背を見ながら、早紀はその名を心の中で繰り返していた。