3
戦闘時、達人にとって主観的な時間の流れは一定ではない。重大な局面であればあるほど、極限の集中力によって一瞬が引き伸ばされ、その刹那に様々な思考の奔流が脳裏を駆け巡る。
その時、引き伸ばされた世界の中でロウが見たのは、斬り飛ばされてゆっくりと宙を舞う刀身を、ただ呆然と見送る少年の呆けた表情だった。
ロウはそれを見た刹那、勝利を確信する。
全身に見受けられる、リーの術によるものと思われる火傷。加えて、先ほどの化勁からの攻撃による骨折と、剣による全身の切り傷。
こうもダメージが積み重なれば、気を操作する為の集中が切れてもおかしくはない。それに伴って、刀身へと徹す気が途切れたのだろう。
もはや、この相手に気力は残っていない。止めをさすべく、ロウは返す刀で胴を狙う。
「終わりだ」
斬撃が放たれると同時に、鈍い金属音が響いた。
胴を切り裂き、臓腑がまろびでるはずの一撃は、異常な手応えと共に止まっていた。
「……っ!?」
見ると、光る棒──としか表現しようのないものが敵の左手に現れ、左わき腹の直前で剣を受け止めている。
「ひっかかったな」
気力を失っていたはずの少年の顔には生気が戻り、凶悪な笑みが浮かんでいた。半分ほどになった木刀が霞みのように消え、自由になった彼の右手が光る棒へと伸びる。
「く……っ!」
少年の講じた罠、自身の体勢の不利。一瞬で少なくともその二つを悟ったロウは、全身の力を使って身を引いた。
同時に少年の右手がひらめく。
ロウは低く鋭く、背後へと跳躍した。僅かな滞空の後に着地すると、遅れて血が床へとしぶく。
「ぐ……お……」
呻き、よろめく。身体の前面に走る、焼け付く様な痛み。見下ろすと、自身の胸部が切り裂かれ、出血で道士服が赤く染まり始めていた。
「少し浅かったか。でも、決着はついたな」
直哉の右手に握られた光り輝く棒から、光の粒子が徐々に離れていく。
すると、そこに鞘から抜き放たれた日本刀──瞬狼が現れた。
直哉はロウの止めの一撃を、僅かに鯉口を切った瞬狼の刀身部分で、狙い澄ましたかのように受けたのだった。
支えは左手と、刀身を寝かせるように添えた左胴のみ。刀身越しに伝わった衝撃は強烈だったが、内功を練り、足を開き腰を落とすことで体勢を保った。
油断のせいか、ロウの一撃はやや踏み込みすぎであり、また剣を引くのも一瞬遅れていた。中国武術風に言うならば、防御の門が開きっぱなしとなっている状況だ。
この機を逃すわけにはいかなかった。同等以上の実力の相手に対し、わざわざ木刀を使い続けてきたのはこの瞬間の為だ。今の体調では、最初から瞬狼を使っていたとしても、ここまでの隙は作り出せなかっただろう。
必要だったのは、開いた門の内側を通る最速の一撃。ロウが避けるよりも早く、剣を戻すよりも早く、当てなければならない。
ロウの一撃を受けた体勢が、そのまま抜刀の姿勢となっていた。足を開き、あらかじめ腰をきった状態から、左手の鞘を胸の前に手繰り寄せるようにしつつ、右手で柄を掴み、一呼吸で抜き放つ。
重要なのは、畳んだ肘と手首を返すタイミングだ。それらがある比率で噛み合うと、切り払いではあるが、太刀筋は直線に近い軌道を描く。
直哉の会得した抜刀術の中でも、最速最短で相手に到達するそれは、身を引くロウの胸部を刃先で捉えたのだった。
「何だ、今のは……貴様、異能力者だったのか」
よろめき、背を壁に預けたロウが、直哉を睨んで言った。
直哉は残心を保ったまま、
「そう言われても仕方ないが、俺の師匠いわく異能力じゃあないらしい。もっと深刻な業だとかなんとか……ともかく、師匠はこれを『錬気創刃』って言ってたな」
手元の瞬狼を一瞥する。
「俺は己の気を依り代にして、実在の有無を問わず、あらゆる霊剣、魔剣を呼び出せる。……能力としてはそうらしい。まぁ、俺の力じゃ伝説の剣とかは無理なんだけどな」
「な──」
ロウが言葉を失う。
「聞いたことも無い能力だな」
直哉が横を見ると、傷を押さえた静音が立っていた。
「お、おい。大丈夫なのか」
「なんとか。血は止まってきた」
そう言う静音だが、顔は青い。すぐに病院で手当てが必要だろう。
「それより、望月たちを」
「あ、ああ。そうだったな。望月、大丈夫か?」
「わかんない。死にそうにはないかな」
直哉の呼びかけに沙耶が答える。依然、体は動かせないようだったが、意識はしっかりしているようだ。
「…………」
ロウは壁に寄りかかりながらも、いまだ剣を持って佇んでいた。
逃げようにも、直哉が残心を解かない為、身動きが出来ないのだろう。
「剣を捨てろ。あんたも武人なら分かるだろ。決着はついた」
そんなロウを見て、直哉が言ったその時。ロウの寄りかかる壁のすぐ右脇が爆ぜた。
「ぬうっ」
もつれ合いながら室内へと転がり込んできたのは、ゴウと──
「おおぉっ!」
昂だった。
下になったゴウが、昂を蹴り飛ばす。
「ぐっ……って、お前ら……?」
空中で体勢を整え、足から着地した昂が直哉たちに気付く。続いて血を流し、壁に寄りかかるロウを発見し、昂は笑みを浮かべた。
「そっちは決着ついたか。待ってろ、こっちもすぐに終わらせるからよ」
改めて槍を構える昂。ゴウも同じく棍を構えた。
「ゴウ」
ロウが大男の名を呼ぶ。ゴウは彼の様子を見ても動じることなく、
「申し訳ありません。すぐに片付けます」
「……いや、いい。貴様が来たことで問題は解決した」
「それはどういう──」
振り向いたゴウの首を、直剣が薙いだ。
直哉も昂も静音も、誰も反応できなかった。
ゴウの膝が折れ、遅れて噴水のように切断面から血が噴き出す。斬り飛ばされた頭が、壁に当たり跳ね返り、昂の前にゴトリと重苦しい音を立てて落ちた。
驚愕する間も無かったのか、その頭部には胡乱げな表情が貼りついたままだった。
「──何してんだ、てめえっ!」
弾かれたように、昂がロウへと駆け出す。しかしその足が途中で止まった。
「ぐっ──なんだ」
突如として襲った激しい吐き気に、直哉は口を押さえる。自分だけでなく、その場に居た全員が同じく激しい吐き気を感じたらしく、皆が背を丸め、顔を歪めていた。
強力な圧力にも似た不快感。自然と、皆がその圧力の源を感じ取り、視線を向ける。
ロウだった。彼は直哉たちを睥睨しつつ、血に染まった道士服の前をはだけていた。
その裏地に、小さな何かが大量の符と共に縫い付けられている。
ロウが符ごと、それを引きちぎる。手に握られたのは、細長い小瓶だった。
「なんだ──あれは」
直哉は全身に、どっと冷や汗が出るのを感じた。
先ほどから、吐き気と共に強烈な感情が、絶え間なく湧き上がってくる。
これは恐怖──?
いや、違う。似ているがこれはもっと別の──
「貴様らごときに、これを使う羽目になるとはな……」
ロウの呼吸が荒い。胸部の傷からの出血が多いのだ。若干浅かったものの、直哉の手には胸骨の一部を断ち切った感触が確かに残っていた。気を用いても、そう簡単には止血出来ないだろう。
小瓶を覆うように、いくつもの符が貼り付けられていた。それらを煩わしげにロウが剥がすと、さらに強い吐き気が直哉たちを襲った。
「なんて瘴気だ……」
直哉が呟いた。何をする気かは分からないが、ロウを止めないと大変なことになる。
それは分かっているのだが、誰も前に出ることが出来ない。
吹き付ける濃厚な瘴気と、脳に直接パイプでも差し込まれたかのように湧き上がる、正体不明の感情のせいだった。
ロウによってあらかた符がはがされると、小瓶の中身が見えた。透明な液体の中に小指の先ほどの、どどめ色をした肉片のようなものが浮いている。
小瓶のふたが外された。わずかに液体が、縁から零れ落ちる。
「これが何だか分かるか?」
ロウが直哉たちを見回して言った。
「元々これは、鬼八の制御に失敗した時の為の保険だった。……だが、もはや出し惜しみはしていられないようだ。問題はこれを使う為の肉体が無いことだったが、ゴウが来たことでそれも解決した。天はわたしに味方したようだな」
──天。
不意に直哉はその単語から連想し、今抱く感情が何なのかを理解した。
これは恐怖とは似て非なるものだ。神聖なるもの、侵されざるもの、触れ得ざるもの──そういったものを目の前にした人間が、本能的に抱く感情。
禁忌を暴くことへの後ろめたさ。バチが当たるという言葉に代表される、日本人の根底に根付いた、根源的なトラウマ。
これは畏れ──畏怖の感情だ。つまり、あの小瓶に入っているのは──
「……何の神だ」
そう呟いた直哉に、静音たちの視線が集まった。
「ほう?」
ロウが愉快そうな顔をした。
「直哉、それってどういう──」
「何の神を、そんな姿にして瓶へ閉じ込めた」
昂の言葉を遮り、再度直哉が問う。
ロウは哄笑した。
「よく分かったな。だが、安心しろ。この国の神ではない。我が祖国の神話において伝わる、炎帝に付き従った巨人の神。首を切り落とされても、黄帝に挑み続けたと言われる、不死の神……その肉片がこれだ」
ロウが小瓶を頭上へと掲げた。
「その名を──刑天という」
そのまま逆さにして小瓶を持つ手ごと、膝立ちのまま絶命していたゴウの首の切断面へと潜り込ませる。
「なっ──!」
一行が息をのむ前で、ゴウの体がビクン、と打ち震えた。
同時に吹き付ける瘴気が止み、畏怖の感情が晴れていく。
「馬鹿な……神を切り刻み、従えたというのか……」
田所が呆然と呟いた。
「神といえど、万能の存在ではない」
ゴウの体から手を引き抜いたロウが、田所を見て言った。
「この刑天は、立ち入ることすら難しい中国の秘境にて、封じられていたのをわたしが発見し、入念な儀式によって調伏したものだ。当時は生贄を使うことなど思いつかなかったので、いくつもの高価な呪具が必要になったが──わたしは神を屈服させた」
ゴウの首の切断面を覆うように、異質な質感の肉が盛り上がった。そこから、青紫色をした異常な太さの血管が、這い回るように全身へと伸びる。生木を裂くような、何かが内側から裂けていく音と共に、かつてゴウだった肉体の骨格が変わっていく。
人が、それ以外の異質な存在へと変貌していく。
「恐らくはこれも、神話上の刑天そのものではなく、眷属の固体だろう。だが、その力は想像を絶する。肉体を刻まれ、小瓶に押し込められた怨嗟から湧き出す瘴気は、常時符で抑えていなければ、調伏したはずのわたしすら発狂させかねんほどだ」
今や、ゴウの身体は三メートルを超える巨人となっていた。皮膚は薄暗い灰色に変色し、衣服はごつごつとした岩肌のような質感へと変化している。
「肉体を得たことで瘴気は消え、主従の契約が履行された。さぁ、神の力の前に虫けらのように踏み潰されるがいい」
巨体の左右の胸部に、二つの傷口のような裂け目が走る。それが開くと、巨大な二つの目が現れた。
目が、直哉たちを捉える。
「やれ」
ロウの命に従い、刑天となったゴウの体が拳を振りかぶった。
「昂! そっち頼む!」
タックルをするように、直哉は手近にいた静音を抱きかかえ、駆け出した。
外に飛び出し、危ういところで刑天の拳をかわす。横殴りに振るわれた拳はそのまま壁を巻き込み、凄まじい破砕音と共に、建物の前面をえぐり取った。もはやどこが入り口だったのか分からないほどに壁が壊され、建物は半壊の相を呈していた。
「う……」
身を投げ出した直哉の下で、地面へ押し倒された格好となった静音が呻く。
「わ、悪い、大丈夫か」
慌てて身を離す。そんな場合ではないと分かってはいるのだが、抱えた際の細い腰の感触に、直哉は必要以上に焦った。
「……っ、平気だ。それより、みんなは?」
痛みをこらえるように静音が言った。
回りを見ると、少し離れた所に昂と沙耶、田所の姿があった。昂がなんとか二人を連れ出したのだろう。刑天の狙いが、主に直哉だったのが幸いしたようだった。
安心し、風通しの良くなった建物を改めて見る。中に設置されたビニールの部屋と中の人間も無事なようだった。
建物を背に、刑天が近づいてくる。さらにその姿は大きくなっており、ゆうに五メートルは超える高さとなっていた。
「……やるしかないか」
直哉は呟いた。
「いや、あんな怪物を相手にする必要はない」
刑天へと向かおうとした直哉の背に、静音が声を掛ける。
「?」
「あの傷だ、避けられはしまい」
静音が手を伸ばす。刑天ではなく、少し横にずれた方向。
その先には、深手を負ったロウがいた。壊れた壁に手をつき、佇んでいる。さすがに血を流しすぎたのか、刑天と共に戦うだけの余力は残っていないようだった。
静音の手のひらから少し離れた空間に、墨が染み出すように黒い点が現れる。拳大ほどに大きくなったそれを、放とうとした時だった。
「わたしを殺せば、あの部屋の中の人間も死ぬぞ」
静音の狙いに気付いていたのか、ロウがこちらを見て言った。
「……っ!」
ロウの言葉の意味を理解し、静音の動きが止まる。
「わたしが死ねば、刑天は好き勝手に暴れだす。まずは手近な、あの部屋の中にいる連中を捻り潰すだろうな」
「…………」
直哉は黙考していた。ロウの言ったことが本当かどうか、判断する材料はない。ブラフである可能性もある。阿蘇山の噴火でもたらされるであろう被害を考えれば、ここで殺すべきだ。深手を負った今のロウならば、静音の闇で確実に仕留められるだろう。
(だが……)
代償が大きすぎる。光や、何人もの光怜高校の生徒の命は、賭けるにはあまりにも重い。単純な数比べではないのだ。それは静音にとっても同じだろう。ましてや、あの中には肉親である姉がいるのだ。
「貴様を殺さなくても、やりようはある」
静音はそう言うと、狙いを変えた。
「部屋を破壊する気か? やめておけ。儀式が出来ないのなら、わたしにとって彼らは人質としての意味しかなくなる。そして人質は一人か二人もいれば十分だ。……言っている意味は分かるな?」
つまり、部屋を破壊したら、捕まっている彼らの殆どを殺すと言っているのだろう。ならば、部屋を破壊してすぐにロウを殺せば?……いや、ロウの言うことが事実であれば、どちらにしろ刑天が彼らを殺してしまう。何人かは助け出せるかもしれない。だが大半が、刑天によって潰されてしまうだろう。
「くそ……」
静音が呻いた。どちらにしろ、彼らの命を賭けた行動になると分かったのだろう。
彼女の懊悩する様子を、ロウは嘲るように鼻で笑った。
「犠牲を覚悟できないのであれば、刑天と戦うしかないな」
「どうもそうみたいだな。斉木は下がっててくれ」
前へ出ようとする直哉を静音が引き止める。
「やめろ、敵うわけがない! あれは土着の土地神なんかとはわけが違う……古代中国の三皇に数えられる、炎帝神農の属神なんだぞっ……」
「あいつに調伏できたんだ。やってやれないことはないだろ」
平然と言って、直哉は瞬狼を抜いた。
「俺も手伝うぜ」
横を見ると、槍を担いだ昂が立っていた。直哉はそれを見て頷き、
「望月たちと一緒に離れててくれ」
と言い残し、昂と共に駆け出した。




