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それは入居するテナントもまばらな、人気の無いビルだった。
ビルの八階。数個の事務机と椅子が並べられているだけの、薄暗く殺風景なフロアで、制服姿の少女が一人、後ろ手に拘束され、パイプ椅子に縛り付けられていた。
少女に加えて、十数人のチンピラ風の若者がたむろしている。十代前半から後半の年頃の男がほとんどだ。
少女は、その男たちに囲まれていた。
「それで、蛇沼さん。この女どうするんですか?」
男たちの一人が振り向き、言った。その先には、大窓を背にして設置された事務机と、その椅子に座る男の姿があった。
「あ~、何だっけその女は」
蛇沼と呼ばれた男は、事務机に両足を投げ出し、アームレストに両腕を預け、天井をぼんやりと眺めながら言った。髪は茶色く染められ、肌は浅黒く、一見して分かるほどの上等なスーツに身を包んでいる。繁華街にいるホストのような男だった。
「ほら、あの振り込め詐欺の件の……」
「あー、あー。ひっかかる振りしてウチに押しかけてきたっていう」
興味が沸いたのか、蛇沼は天井から少女へと視線を移した。艶やかな黒髪をポニーテールで纏めた、見るからに勝気そうな少女だった。
「で、なんでこんなとこまで来ちゃったのかな?」
軽薄な笑いを顔に貼りつかせて、蛇沼がたずねた。
椅子に座らされた少女はその顔を睨み返し、
「あんたたちみたいなの、一度殴ってやらないと気が済まなかったからよ」
少女の剣幕に動じた様子もなく、蛇沼はおどけた様子で返した。
「おー、こわいこわい。んでも、どうやってここの場所が分かった?」
最初に蛇沼の指示を仰いだ男が答えた。
「金を回収しに行ったトシのやつを、こいつが締め上げて吐かせたみたいです」
「なんだそりゃ……だっせえ。トシは?」
「休んでます」
「連れて来い」
蛇沼が言うと、すぐに一人の若者が呼ばれてきた。
顔にはいくつもの青あざができており、大きなガーゼが貼ってある。
「お前、こんなガキにシメられて、恥ずかしくないの?」
睨めつけるように言うと、若者は必死になって弁明を始めた。
「す、すんません……っ。このガキ、空手か何かやってるみたいでやたら強くて……」
「へえ、空手ねえ」
蛇沼は立ち上がると、少女の前まで進んだ。
「お前、強いんだってな」
見下ろしながら言うと、少女は再度睨み返しながら答えた。
「あんたたちみたいな弱虫よりはね」
彼女の挑発に、蛇沼ではなく周りの若者たちが殺気立った。
「んだとぉ、このガキ……」
「まぁ待て」
蛇沼の制止に、若者たちは渋々と下がる。
「いい度胸してるなぁ。んでも何でお前は、その弱虫にあっさり捕まっちゃってるんだ?」
ニヤニヤとしながら蛇沼がたずねると、少女は気まずそうに目をそらした。
「それはあんたたちが卑怯なやり方で……」
「卑怯だってよ。お前ら、どうやったんだ?」
「そりゃあ、後ろからこれで一発ですよ」
一人の若者が尻ポケットから、黒い何かをとりだした。電気髭剃りのような形。先端に金具が二つ付いている。スタンガンだった。
「なんだ、強い強い言ってて、そんなもんであっさりか。だっせえなぁ」
大げさにあざ笑う。周りの若者たちもそれに倣った。
「…………っ」
少女は俯き、屈辱に耐えていた。
いくら身体を鍛えているといっても、人間には限界というものがある。不意打ちであんなものを食らったら、誰だって失神するに決まっているじゃないか。お前らにわたしを笑う資格なんてない……!
だが、そんなことを言ったところで、彼らを喜ばせるだけだ。少女は沈黙を守った。
ひとしきり笑い終わると、蛇沼は急に真顔になり、少女に締め上げられたという若者へと向き直った。
「で、ボコられたのはいいとして、何でお前は簡単にここの場所言っちまってるんだ」
「え、あ、それは……こいつ、こんな顔してる癖に、言わないと前歯全部へし折るとか言って、めちゃくちゃ殴りまくってきて……」
その言葉を証明するように、彼の顔には無数のあざができていた。きれいに一回喧嘩に負けただけでは、これほど多くのあざはつかないだろう。
「へえー、確かにかわいい顔してるのに、怖いこと言うじゃねーか」
「そうなんですよ、女の癖に容赦がなくて……」
愛想笑いを浮かべながら、若者が相槌を打つ。
「そりゃあ、俺よりもか?」
「え?」
蛇沼の言葉に、若者は一瞬固まった。
「俺よりもか、って聞いてんだ」
「そ……そんなまさか。蛇沼さんにはかないませんよ」
「そーか、そーか。……ところでお前、確か施設出身で、身よりもいないんだったよな」
「そうですけど、急にどうしたんで──」
そこまで言って、彼は何かに気付いたように、言葉を止めた。
同時に顔から血の気が引き、真っ青になる。
「ちょ、蛇沼さん……マジですか」
焦ったように、最初に蛇沼の指示を仰いだ若者が言った。恐らくその若者が、蛇沼を除いた彼らのリーダー格なのだろう。
一方少女は、今の会話の流れで、何故彼がそんなにも怯えるのか分からず、怪訝な顔をしていた。
「何だ、俺はまだ何も言ってないぜ? ただ、そうだな……ちょっと小腹が減ってきたってだけだ」
「……ひぃっ!」
その言葉を聞くやいなや、トシと呼ばれていた若者は、火がついたようにフロアの出口へと駆け出した。蛇沼はその背を、薄笑いを浮かべながら眺めて、
「おい、よく見ておけよ。強いってのはな、こういうことを言うんだ」
「……?」
疑問を浮かべる少女の横で、蛇沼はフロアの出口となる扉に向かって走る若者へと、左手を伸ばした。
次の瞬間、信じがたいことが起こった。
彼の左手が蛇のように長く伸びると同時に、急激に膨張した。先端が上下に割れ、ワニのような牙の生えた口が大きく開き──
「嫌だああ! 助け……ぎ──」
言葉として聞き取れたのはそこまでだった。後は耳をふさぎたくなるような悲鳴と、ばきばきと硬いものが粉砕されていく音のみが続いた。
「え……」
少女は呆然と呟いた。一部始終をこの上なくはっきりと眼前で見たにも関わらず、あまりにも非現実的すぎて、理解が追いつかなかった。
目の前の光景に再度意識を向ける。蛇沼の左手から伸びた巨大なそれは、今ものっそりと目の前に存在し、飲み込んだものを咀嚼していた。
岩肌にも似た、ワニの鱗のような皮膚。先端は人間をひと飲みにするほどの巨大な顎となっており、剣のように尖った乱杭歯が、奥に向かって無数に生えている。
やがてその巨大な蛇ともワニともつかない物体は、すぼみ縮んでいき、元の人間の手に戻った。
「ふう、やっぱ人間は格別だなぁ、おい」
蛇沼が言った。
「何……何なのそれ……」
少女の怯える様を楽しむように、蛇沼は目を細めた。
「何って、こういう能力だとしか言いようがないよなぁ」
言いながら、左手を軽くにぎり、そして開く。
「分かるか? 強いってのはこういうことを言うんだ。こいつには拳銃の弾すら通らねえ。何でも丸ごと食っちまえるから、証拠一つ残さず、人間を消す事だってできる」
「わ、わたしもそれで食べようっていうの? ここに来ることは友達にも言ってあるから、後で絶対ばれるわよ」
「そうかい、それは困ったな」
わざとらしい困り顔を見せた後、蛇沼は名案を思いついたとばかりに、手を打った。
「そうだ。それじゃあ、俺たちのことを誰にも話す気が起きなくなるように、素敵な撮影会でもするか」
仲間の凄惨な死の後で、憂鬱な顔をしていた若者たちが途端に活気付く。
「そりゃあ、いいですね。おい、カメラ持って来い!」
リーダー格の若者が指示をとばす。
漠然とこれから何が行われるのかを察した少女は、顔を青ざめさせた。必死に抵抗しようともがくが、無駄だった。椅子へと縛り付けていたロープが解かれ、床へと押し倒される。
「嫌……やめて……」
恐怖のせいか、声が震えていた。そんな彼女を、蛇沼は醒めた目で見下ろした。
「弱いくせに、でしゃばるからだ。まぁ、殺しはしないから安心しな」
「あれ、蛇沼さんは参加しないんですか?」
若者の質問に、蛇沼は手を振ってこたえる。
「食った直後はやる気も起こらねえんだ」
「そうですか。じゃあこっちは好きにしていいですかね」
「一応、自分の足で帰れるくらいにしとけよ」
「へへ、分かりました」
若者の手が、制服のワイシャツを力任せに引きちぎった。
「……っ!」
少女は悲鳴を上げることなく、目をぎゅっと閉じた。悔しさで涙が滲む。
こんなはずではなかった。
ここに殴りこんだのは、振り込め詐欺に騙された友人の話を聞き、義憤に駆られた末の行動だった。自分が調べたかぎり、この連中のバックにヤクザなどはおらず、メンバーも街の不良の寄せ集めと聞いていた。
拳銃などを持ち出されない限りは、そんなチンピラ風情に負ける気はしない。幼い頃から習った武道で、対武器格闘も経験している。死なない程度に痛めつけて、二度と詐欺など出来なくさせてやる、くらいのつもりだったのだ。だが実際は、たった一度の不意打ちで失神させられて、このざまだ。
男たちが下卑た笑いを浮かべている。彼らがはだけたワイシャツの、さらにその下へと手を伸ばした時だった。
爆音。合わせてフロアのドアが内側に吹き飛び、机に当たり、室内を跳ね回った。
「……っ!?」
若者たちの視線がドアに集中する。そこには、少女を囲む若者たちとそう年の変わらないだろう、一人の少年の姿があった。
無地のTシャツに、ゆったりとしたカーゴパンツ。腰まわりが引き締まってる為、一見細身に見えるが、肩幅はがっちりとしている。袖口から伸びる二の腕には、陰影の浮かぶ無駄のない筋肉が備わっていた。
指で摘める程度に、適度に切られた黒髪。精悍さとあどけなさが微妙に混じった顔立ちは、十代後半の少年から青年へと至る過渡期特有のものだ。
少年はフロアを見渡し、状況を把握したのか、ほっとした様子で呟いた。
「ぎりぎり間に合ったか……」
突然の事に固まっていた若者たちが、ようやくここで動いた。
「んだてめえ、誰だコラ!」
入り口近くにいた一人が、少年へと押しかける。一般人ならば、その剣幕に怯え、後ずさりしただろう。だが少年は逆に、平然と彼へと歩み寄り、そのまま無造作に右の裏拳で、横に殴り払った。
聞いたことも無いような鈍い音が響き、フロア入り口から見て右の壁へと、若者の身体が叩きつけられる。
「!?」
入り口からその壁までは、五メートル以上の距離があった。その距離を人間が軽々と吹き飛ぶ様を見た若者たちは、再度固まった。
「──へえ」
蛇沼だけは動じることなく、感心したように声をあげる。
「姫路早紀さんか?」
殴り飛ばした若者を見ることもなく、少年がたずねる。少女は押し倒された格好のまま、反射的に彼の質問に答えていた。
「そ、そうだけど……」
返事を聞くと、少年はつかつかと少女の方へと歩み寄る。
「おい、何してんだお前ら。いけ」
「は、はい……!」
蛇沼がけしかけると、若者たちが一斉に少年へと押し寄せた。