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光が校舎へと戻る三分ほど前。
直哉は屋上の柵にもたれ掛かり、組んだ両腕の上に顎を乗せていた。
昨日とおとといの放課後も、彼はそうしてずっと屋上に立っていた。
一見、ぼうっとしてるようにしか見えない。だが実際は、己の気を極力静め、精神を研ぎ澄まし、一種の瞑想のような状態にあった。
感覚はこれ以上ないほど鋭敏になっている。流れる大気に含まれる気を感じ取り、見ずとも周囲の状況を把握できるほどだ。
校内に、もう人の気配はない。最後の一人も、つい先ほど車で帰宅するのが見えた。恐らく教員だろう。
今日の犯行は無いのだろうか。そう思った時、気配が一つ校舎に入ってくるのを直哉は感じた。
その人物は早足で移動しているようだった。単独なので誰かを追っている、もしくは追われているという事はなさそうだ。
直哉はそのまま、注意深くその気配を追う。
二階か三階あたりだろうか。気配は一旦動きを緩め、その後また動き始めた。来た道を戻っている様子だ。
(忘れ物でも取りに来た生徒か?)
直哉が緊張を解こうとした瞬間、その気配が大きく乱れ、直後その場から消えた。
「!」
ほんの僅かにだが、女性の悲鳴が一瞬聞こえていた。
心気を澄ませた状態の直哉は、五感も鋭敏となっている。かなり距離があったが、かろうじて聞き取ることができた。
既に直哉は駆け出していた。屋上の扉を開け、階段を飛ぶように下りる。
三階踊り場に着いた時、直哉の使用する二年一組へ続く廊下に人影が見えた。
非常灯に照らされた複雑なシルエット。人が人を後ろから羽交い絞めにしている姿だった。直哉が三階踊り場に着地した音で、それが振り向く。
「……っ!」
腕の中にいた生徒が見え、直哉は反射的に動揺が顔に出そうになるのをこらえた。
気を失った様子でスーツ姿の女性に後ろから抱えられてるのは、同じクラスの星川光だった。
直哉の姿を見た女性は、一瞬驚きの表情を見せたが、すぐ気を取り直したように口を開いた。
「君、ちょっと職員室に人が残っていたら呼んで来て! この子が急に倒れて……」
切迫した様子で直哉に伝える女性。光の悲鳴を聞いていなかったら、スーツ姿なのも相まって、教師と勘違いしていたかもしれなかった。
ゆっくりと女性に近づく。
「ちょっと、聞こえてるの? 早く人を──」
直哉は歩みを早めながら、どこからともなく、木刀を取り出した。
歩みがさらに早まり、駆け足となり──そして唐突に女性へと突進した。
ほぼ同時に女性はちっ、と舌打ちして叫んだ。
「動くな!」
「ぐっ!?」
瞬間、全身が硬直した。二の足が出せず、顔から地面へと落ちる。
しかし、顔が地面と接触する寸前、直哉は高速で前転し、ぎりぎりのところで両足から地面へと着地した。
「なっ──」
驚愕する女。
そのまま、女へと大きく跳躍する。
女が左手を払うように振った。鋭い光が直哉へと疾る。
直哉もほぼ同時に、何かを払うように顔の前で外から内へと左手を振った。
続けて女が右手を振りかぶり、
「動くな」
直哉の声に動きを止めた。
一瞬で距離を詰めた直哉の左手が、女の喉下に添えられていた。手には長さ二十センチほどの鋭い針。先ほど女が放ったのを握り止めたものだ。
女の右手にも、同じ針が握られている。
「何故……動けるの」
女が呻くように呟いた。答える必要は無いので無視をする。
喉元に突きつけた針はそのまま、逆手に持った木刀で女の顎を押し上げた。
「針を捨てて、上を見たまま、ゆっくりこの子の体を離せ」
光の腰に回されていた女の腕の力が抜けていく。
「そのまま地面に寝かせろ。ゆっくりとだ」
女は指示に従い、天井を見上げたまま光の体を地面に横たえた。
「お前は誰だ。誘拐の目的は? 今までさらった生徒たちはどうした」
「…………」
女は何も答えない。直哉は舌打ちをして、
「こんな学校で人さらいをしておいて、まともな扱いを期待するなよ……」
直哉は針を握っている左手を、喉から女の目に移した。
「二度とさっきの術が使えないようにしてやろうか」
針の先を眼球へ近づける。
「分かったわ、話すから……その針をどけて」
観念したのか、女が口を開いた。針を女の目から遠ざける。
女はそれを見てから、喋り始めた。
「わたしの名前は──」
直哉が話に意識を向けた瞬間、女は顎を押し上げている木刀を首の力で強引に押し返して直哉の目を睨んだ。
「──あああぁっ!!」
直後、悲鳴を上げたのは女だった。両目を手で押さえ、苦痛に身もだえしている。
手で覆われた瞼からは目の痛みによるものか、涙が溢れ出ていた。
直哉は黙って彼女を見下ろしていた。左手の針に使われた様子はない。
「至近距離なら術がかかると思ったのか?」
女は答えず、膝を折って痛みに震えている。
直哉は女の脇にしゃがみ込んだ。本来であれば、警告を破った女に対して、この時点で目の一つでも潰してみせるべきなのだが──
直哉はため息をついた。次に何か抵抗の兆しを見せた場合は、容赦はしない。そう決めて、左手の針を突きつけ、再度問い詰める。
「もう一度聞くぞ。お前は──」
そこまで言ったところで、直哉は総毛立つような感覚に襲われた。
「──!?」
予感とも言える己の直感に従い、とっさに横へと飛び退る。
次の瞬間、硬質な音が廊下に響き渡った。見ると、黒い槍としか言い様のない数本の物体が、直前まで立っていた地面の一箇所へと多角的に突き立っている。それは溶けるように崩れ、暗く地面と同化するように消えた。
(仲間か?)
直哉は身構え、自分が降りてきた階段の方向を凝視した。姿は見えないが、彼の感覚がそちらからの攻撃だと告げている。
やがて階段踊り場から、直哉と女のいる廊下へとそれは姿を現した。
闇に紛れそうな黒い制服、そして闇の中でさえ光を帯びたような黒髪。しっかりとしたラインの眉と涼しげな目は、今は険しさを宿している。
正面からまともに顔を見るのは初めてだったが、直哉はそれが誰なのかをすぐに理解した。現れたのは、隣の席のクラスメート、斉木静音だった。