第28話 書き換えていい
セルカを出て二日で西部国境を越え、さらに一日。混成部隊は、旧都から馬車で一日の山岳防衛線へ入った。補給を取りまとめるミナも荷馬車隊に同行し、後方の救護所で負傷者の搬送を受け持った。
翌朝、カイとヴェラはダリオを先頭に、陣地の北にある岩場を歩いた。
右の退路へ長い棒を差すと、石の下が空いていた。左には青い苔が続いている。ダリオも、今度は見た目だけで進まなかった。
「苔の下の石は固い。だが表面は滑る。目地へ足を置ける奴から上がれ」
ヴェラが先に渡り、左腕をかばって短く息を吐いた。
「幅はある。荷を背負った者は、ここで身体を横に向ける」
カイは頁の上端に、その日の日付と『北の岩場』を記した。道幅と段差の横へ、ダリオが太い字で書き足す。
『夜明け/雨後/ダリオ隊確認/右は空洞・左は歩行可』
『左・荷車未確認』
カイが書き足すと、ダリオは頷いた。人が通れた道へ、そのまま荷車を向けるわけにはいかない。
戻った三人を、配布用のノートを抱えたリオが待っていた。
「一冊だけ直しても、別の隊が右へ来たら詰まるぞ」
ダリオの言葉に、リオは頷いた。
「版を揃えます。隊ごとの受け取りも記録する」
カイは原本へ訂正を入れた。誰が、いつ見たか。不明な所はどこか。最初の頁には、その書き方も加えた。
数時間後。山岳防衛線の各持ち場へ、最初の魔獣が迫った。
黒潮の波が街へ到達する前に、この山道の険しい地形を利用して魔獣の数を減らすのが目的だ。各部隊は共通ノートに記載された地形情報を元に、それぞれの担当区画へと散開した。
カイとヴェラは、遊撃部隊として防衛線の中央に位置し、戦況全体の観測と局地的な支援を担っていた。
「右斜面、三匹! 岩の影から抜けるぞ!」
カイの短いコールに即応し、ヴェラが斜面を駆け上がり、岩陰から飛び出してきた魔犬の首を的確に薙ぎ払う。
二人の周囲の敵は順調に処理されていたが、カイは遠く北の岩場から聞こえる重い咆哮と地鳴りに顔をしかめた。
ダリオの部隊が担当している区画だ。
「……マズいな。敵の重量が想定を超えている」
カイの視線の先、北の岩場に押し寄せていたのは、岩砕牙の亜種――通常の倍近い巨体を持つ重量級の魔獣の群れだった。
ダリオの部隊は地形を活かして善戦していたが、魔獣が斜面に激突するたびに、激しい振動が岩場全体を揺さぶっている。昨日までの長雨の影響もあり、岩場の地盤はカイが予測していた以上に脆弱になっていた。
ゴゴゴゴォッ!
突如、激しい崩壊音が響き渡った。
ダリオ部隊の背後、カイが当初のノートで『退路』として指定していた右側のルートが、魔獣の突進の衝撃と地盤の緩みに耐えきれず、大規模な土砂崩れを起こして完全に消滅したのだ。
「退路が潰れた!」
カイは血の気が引くのを感じた。
もしダリオたちが、あのカイのノートを『絶対の命令書』として信じ込み、右ルートへの撤退に固執していれば、彼らは逃げ場を失い、迫る魔獣の群れと崩落する岩の間に挟まれて全滅する。
「行くぞ、ヴェラ! ダリオの援護だ!」
カイは自らの安全など構わずに、斜面を全速力で駆け下りた。
十五メートルの同期圏内を維持しながら、岩場を縫うように走る。カイは迫る魔獣の注意を少しでも自分たちに向けさせるため、腰に下げていた発煙筒に火をつけ、魔獣の群れの側面へと全力で投げつけた。
赤い煙が噴き上がり、数頭の魔獣が苛立たしげにカイの方へ向き直る。
「前二、煙の裏から突き上げろ!」
カイの身体を張った囮行動と、ヴェラの即応による一撃。魔獣の喉元を槍が貫き、群れの圧力がわずかに緩む。
カイはその隙を縫って土煙の向こう側、ダリオたちがいたはずの場所へと目を凝らした。
瓦礫に潰された冒険者たちの無惨な姿を想像し、息が止まりそうになる。
しかし。
「――おせえよ、事務屋!」
土煙が晴れた先、崩落した右ルートとは反対側。
険しく切り立った左側の岩壁――青い苔が生い茂る安定した岩肌の連なりを縫うようにして、ダリオ率いる部隊が安全な高台へと自力で登り切っていた。
誰一人欠けていない。ダリオは怪我を負いながらも、部隊の最後尾で剣を振り上げ、生き残った仲間たちへ向けて豪快に笑っていた。
「ダリオ……!」
カイが安堵に膝から崩れ落ちそうになる中、ダリオは高台から泥だらけのノートをバサリと振りかざして見せた。
「今朝、踏んで確かめておいて正解だったな!」
それは、彼が自らの経験で『左の青い苔の岩』へと情報を書き換えた、あのページだった。
もし彼らがカイの指示を盲信し、考えることを放棄した兵士であれば、右ルートに突っ込んで全滅していただろう。だが、彼らはカイの情報を材料とし、現場の事実をもとに自ら選択した。
絶対の命令書ではなく、現場で更新される『ノート』だからこそ、彼らは独立して生還を果たしたのだ。
カイは荒い息を吐きながら、遠くからその光景を見つめていた旧軍の通信兵、リオの顔を見た。
リオの目は驚愕に見開かれていた。中央からの指示を待たず、現場の判断で最適解を上書きし、部隊を生存させる。それは、アルディスが構築した中央集約のシステムでは絶対にあり得ない光景だった。
分散型の情報共有は、実戦で確実に機能する。
カイの中に、大黒潮を凌ぐための明確な手応えが生まれていた。
だが、その勝利の余韻を味わう時間は、彼らには与えられなかった。
ズズ……ズズズンッ……!
山岳の奥底から、これまでの群れとは比較にならない、腹の底を這うような重く巨大な地鳴りが響き渡った。
カイとヴェラが視線を上げた先。西の地平線が、文字通り真っ黒に染まっていた。
空を覆うほどの砂煙。そして、そこから這い出してくるのは、稜線に沿って途切れず動く魔獣の群れ。数を確かめるより先に、次の列が現れる。
「……冗談だろ」
誰かが絶望的な声を漏らした。
黒潮の先遣群の主力。
アルディスが予言した通り、本当の地獄が、ついに防衛線の前にその姿を現した。




