雪の味のする林檎
僕が寝ている間に、どうやら人類は滅んでしまったらしい。外に広がる雪景色を眺めながら、死ぬまでまとわりつく孤独と格闘することになってしまった僕は浅く溜息を吐く。この場所はいつまで持つか、食料や水は何日分あるのか。手首のゴムを弄びながら、そんな古典的な質問をいつまでも頭の中で反芻している。
「そこで何をしているんですか?」
ふと、声がかかる。後ろを見ると一人の女性がこちらに向かって歩いてきている。なのに、足音は何も聞こえない。それも当たり前だろうか、だって彼女は人間ではない。ただのAIなのだから—。
時は2065年、年々発達する人工知能の人権問題とそれに伴う空間ディスプレイ技術の向上が注目されていた年、僕はしがない研究者だった。僕の分野は一つの実験にかかる時間が他の分野に比べて極端に長く、その上空いた時間に他の分野に手を出せるほど僕は優秀ではなかった。そこで当時の僕が目につけたのが、まだ実用化に踏み切れていなかった『コールドスリープ』。
僕は単に自分の実験が終わるまでの退屈を睡眠で埋められると、自分だけで一つの分野を完結させられると浅はかに考え、コネと伝手を駆使し無事100年弱の睡眠を取ることができたらしい。のだが目が覚めたら自分以外が死滅しているなど誰が予想できただろうか。
幸い、ともいうべきか食料やエネルギー面は自分には未知の技術でどうにかなっている、らしい。さらに有難いことに、自分の研究に必要な機材も全て揃っていた。それが無ければ無趣味な僕は、今度こそ本当に人類を根絶してしまいそうだった。
「本当に、研究者って感じですね。あなたは」
音もなく、声をかけられるのも慣れたものだ。彼女は仮称:アイ、一見するとただの人だが、その実どこまでも人間味がない。どこまでも空虚で、冷たいような、そんな気がしていた。
「ああ、コーヒーか。いつもありがとう」
人間味がない、とは言ったが気は利くし空気は読める。そうプログラムされているのか、はたまた学習によってその能力を会得したのか。僕にはわからない、興味も湧かない。けれど今は、きっと彼女は自分の意思でそうしてくれている、少なくとも好意という感情はあると、そう思うようにしている。
「まあ、これ以外にすることがないって言った方が正しいね。僕は僕の空白を埋めなきゃならない」
今日も僕は以前と同じ格好をし、自分の研究成果と睨めっこをし、必死に思い出そうとする。何かが頭の中に集まり、それが何かを形作ろうとして、けれど結局は霧散する。まるで枯れた井戸のように、何も出てこない。押せど引けど伽藍堂の頭からは、何も。端的にいうと、僕は記憶喪失になってしまっていたのだ。
目が覚めた時、何が何だかわからないまま開いたコンピュータの中に残されていた置き手紙。飛び出す文字とは不釣合いなフォントと男のものと思われる音声記録。そこには、隕石の落下により自分の余命は幾許かしか残されていないこと、生活に必要なものは自分の開発したAIがなんとかするということ、コールドスリープの副作用や危険性などのメモ、もしものためのここに至るまでの経緯と使い心地のアンケートフォームが入っていた。便箋を開けるアニメーションがやけに凝っていたの今でも思い出す。
手紙内の馴れ馴れしい口調や内容から察するに、僕と彼は親友だったのだろう。ここまで大きな置き土産を置いてくれた彼の顔すら思い出せないのは、とても申し訳ない。何を見ても、断片すらも、思い出せない自分が情けなかった。
彼の説明によると、脳は特に脆く、凍結が不完全だとコールドスリープによる損傷が発生する可能性があるそう。それによって記憶が消える可能性は十二分にあると、アイは引き継いだ。
「そこまで必死になる必要はないのでは?もう過去のことです、いっそのこと諦めてはどうでしょうか」
いつものように必死になって機械の周りをうろうろしていると、黒い跡のついたコップを片付けながら彼女が声をかけてきた。基本的に私の周りの世話しかしない彼女も、たまに僕に話をしてくれる。それは心底歓迎すべき出来事だった。
「いや、いいんだこれで。僕は今やることないし、この分野は実は僕たちの生を繋ぎ止める可能性を秘めているらしい。何より、報いたいんだ。僕に全てを託してくれた友人に、僕を繋いでくれた人々に。そして、君にさ」
「そうですか、けれど貴方の命は貴方だけのものではないのです。くれぐれも、私を心配させるようなことは、2度と、しないでください。」
「はは、そう言われると弱っちゃうな」
操作方法も失われた機械とにらめっこをしながら僕は彼女が入れてくれたコーヒーを啜る。ピカピカと光るライトが突然赤に変わって、少しして煙を吹きながら耳をつんざくようなアラームを発する。何が何だかわからないまま僕は、目の前の鉄塊を止めようといじくり回す。そのうち辺りが暗くなって、最初からやり直し。前に進むわけでもなく、後ろに戻るわけでもなく。そんな日々でも、私は満足だった、心地よかった、楽しかった。無論、これ以外は知らないのだけれど。
一年と少し経った。寝つきが悪かったのだろか、昔のことを夢を見た。
「今、外は以前飛来した隕石の影響で氷河期に入っています。外に出るのは命を投げ打つのと同義ですよ」
誰かが、僕を止めていた。腕を掴まれたのだろうか、いや、扉のプログラムに開けないように指示を出したのだ。
「外にも、何か手がかりがあるかもしれない。どうか行かせてくれよ」
「ダメです。自分の命を、なんだと思っているんですか?」
その行動が、その声がなぜだが鬱陶しくて、何故だか心底不快に思えてしまって。
「僕の命は、もはや僕だけのものじゃない。僕に、託してくれた分だって無駄にしちゃいけない。そうでしょ?わかってるよ」
「そうです、貴方の命はあなただけのものじゃない。あなたを心配する、止めてくれる人はいるはずですよ」
「そんなの、どこにいるんだよ。この世界には、僕しかいないじゃないか。死んだんだよ、全員!」
だから叫んだ。綺麗事ばかり言うな。何も知らないくせに、知ったような口をきくな。
「今、ここに、私がいるじゃないですか」
「けど、けど君はただのAIじゃないか!誰かに生み出された、自分の意思も何もない、ただの機械じゃないか!」
ムキに、なっていた。そうだ、言い争ったって何にもならないのに、関係を悪化させるだけなのに。彼女を傷つけるだけなのに。
「…ごめん。僕は」
「いいんですよ、事実ですから。けれど、この実態のない体でも私は、あなたに寄り添えるんです」
「...いいの?僕、君に酷いこと言っちゃって、それで、君に僕を慰めるような動機なんて」
「なくたっていいじゃないですか。これは完全に、私の意思ですよ。受け取らなくたって結構です。ただ、私はあなたに尽くしていたい、それだけは知っておいてください。」
そう言われた直後、少しの浮遊感の後にベッドから起き上がる。カーテンを開けても、未だ暗い中雪がしんしんと降っていた。ふと、吐き気が込み上げてきて、近くに置いてあるバケツを掴んだ。寝床に戻った頃にはすっかり肌寒くなってしまっていて、僕はどうにもかなわなかった。
「雪だねぇ」
手渡された熱を帯びたカップをくるくると弄びながら、何の気になしにそう言う。
「逆にそれ以外の天気って最近ありましたっけ」
「ここ数年ないね。お陰で雪以外の天気はさっぱりだよ。早く思い出せればいいんだけどさ。」
「…早く思い出せるといいですね」
「だねぇ」
ここ最近、常備するようになった白いタブレットを飲み込み、差し出された水で流し込む。これで、少しは目の奥を押し込むような痛みは緩和されるだろう。
「…思い出したいですか?あなたの過去を…傷つくかも、しれませんよ」
「構わないよ。僕はそれでも、僕を知りたい」
程よく冷めたコーヒーに口をつけながら、背もたれに体重を預ける。最近は、無意味に一日を消費することも増えたように感じる。
「何故?」
「何故、なんだろうね?強いて言うなら、僕がそうしたいからかな」
「そうですか」
それっきり、彼女は黙りこくった。湯気がホログラムを揺らし、雪が窓を揺らす。僕はそんな時間が大好きだった。大好きだったんだ。脂っこい額を拭いながら未だに熱気を帯びているカップを置いて、僕は研究室へと足を運んだ。
机の上に『それ』はあった。目が押しつぶされそうになる痛みに耐え、レポートのような何かに目を通そうとする。
「記憶施錠技術…貴女が寝ている間に開発された、主に囚人管理に利用された技術です。これで、あなたの記憶を奪っていたのは私ですよ。差し詰め記憶泥棒、と言ったところでしょうか」
いつから居たのか、アイはそう答えた。心なしか、声が少し震えていたように思う。
「ただ、副作用はあるんですよ、微々たるものですが、脳内機能を弄るのです。随分と負担をかけてしまいましたね、すみません」
「ははっ...こんなの、何のつもり?」
「私がいなくなる前に、貴女には全てを知ってもらいたくて。我儘ですよ、ただの」
...今、彼女は何と言ったのだろうか。
「『生き残り』が発見されました。こちらの位置は共有してる故一週間もあればここに辿り着くでしょう。つまり、私の役目は終わります」
「...いなくなるのか、君は」
「楽しかったですよ、今まで。メモは、引き出しの中にあるはずです」
僕は、机の上を散らしながら紙束を握り締め、目を振り子のように泳がせた。何か、きっとあるはずだ、それが機械だと言うのなら、絶対に。
「無駄です。私の機能停止以外、あなたの記憶を戻る方法はないんですよ。それに、そんなに必死に頭を掻くと、折角の美しいストレートも傷ついてしまうじゃないですか」
「ふざっ...けるな。僕は、僕ならわかるはずだ!わかるはずなんだ、絶対に。わかって」
紙の上で踊る自分の名前を、今すぐにでも破り捨てたい。ゴミのような頭を砕いてしまいたい。どうして、どうしてこうも歯車は噛み合わないのだろうか
「...僕は、君といつまでも意味のない話するの大好きだった。君のコーヒーは絶品でさ、口をつけながら眺めた景色は、綺麗だったなぁ」
貯めていたものが、溢れてしまった。レポートだって、こんなに濡れてしまって。
「だって、だって僕まだ、君に何も返せてないのにさ。君に、助けてもらってばっかりで。今だって」
「いいえ、十分ですよ。私以上のものを、もらってしまいました」
だって、こんな終わりなんてダメだ。僕は、まだたった二文字も言えていない。
「自分を、モノみたいに扱わないでくれ。君は、ただのAIなんかじゃない。だから、待ってよ」
崇高な願いなんて持っていない。ただ、君とこれからも、つまらない退廃的で非生産的な生活を続けられれば、それだけで。
「貴女は、優しいお方だ。私は」
彼女は、そこで詰まって、一拍置いて
「大好き、でしたよ」
そう言って、彼女の画質は荒くなってゆく。手を、伸ばす。縋りつきたくて、引き戻したくて。まだ別れの言葉も知らないのに。
そのまま、抱きつくように前につんのめって、何の感触も得られないまま頭を打った。振り返れば、彼女は手を振っていた。満足げに笑いながら、目に涙を浮かべる彼女の足元は勿論濡れていない。瞬きをした。彼女は音も姿も無くなっていた。
鈍い痛みの無くなった脳内で、まるで古いニスを剥がすように、記憶が色彩を取り戻してゆく。そんなことはどっちだってよかった。得た数多より、失った一の方が遥かに価値があった。今更だった。未だ、灰色が空を覆い、風が肺を刺す。ただ、地面は既に白銀の輝きを失っていた。
いつも通りの、何も起きるはずのない、肌寒い夜中だった。
...幾許かの時間が経ったのだろうか。私は寝ていたのか、仕事をしていたのか、それとも別の何かをしていたのか、私にはわからない。ともかく、私は机に座っていた。
いつの間にか動かなくなってしまっていた自動ドアをノック代わりに叩き壊して侵入した無礼者たちは、よく見れば12人ほどの少年少女の集団だ。これが彼女の言っていた生き残りだろうか。だとすれば期待はずれもいいところだが。
「荒れきってやがる...っおい!あんた、生き残りか!?他は?何があった!」
リーダーのような赤い髪の少年がそう問う。
「死んだよ。君たちが、殺したんだ」
少し口角を上げ、すっかり冷め切ったコーヒーを煽りながら、私は白い息を吐いて返答した。
その日は、久しぶりに晴れの兆しを示していたらしい。




