第九章 過去からの手紙
ポストの中に、それはぽつりと届いていた。
手書きの宛名。差出人の名はなかった。
一瞬、どこかの案内かと思ったが、その筆跡にはどこか見覚えがあった。
部屋に戻り、薄い封を開ける。
中には折りたたまれた便箋が一枚だけ。香りも色もない、ただの白い紙。
――そして、それは始まっていた。
「てつへ
急に手紙なんてごめん。でも、どうしても君に伝えたいことがあったんだ。
あの頃、わたしはちゃんと向き合えていなかった。
君が自分をどう見ていたか、どう生きようとしていたのか、
それに気づくことが怖くて、目をそらしてた」
手が、止まる。
「あの文化祭の日、“女みたい”ってからかったこと、覚えてる?
あれ、ただの冗談じゃなかった。
君の中にあったものを見て、わたし、嫉妬してたのかもしれない。
だって、君は揺れながらも、自分であろうとしていた。
わたしは、ただ“普通”でいたくて、自分をごまかしてた」
涙がこぼれそうになるのを、かろうじてこらえた。
その名を探す前に、読み進めた。
「最近、SNSでたまたま“美由紀”って名前を見かけて――まさか、と思って調べた。
君が、いや、美由紀が、今どんなふうに生きているのか、全部は分からないけれど、
でも、その名前を見つけて、涙が出た。
“ちゃんと、自分の名前で生きてる”って」
その瞬間、胸の奥にかすかな痛みと温かさが同時に広がった。
誰よりも“過去”に縛られていたはずのあの頃の誰かが、
こうして“今”の美由紀に手を伸ばしてきてくれた。
「もし、会ってくれるなら。
何も話せなくてもいい。ただ、“今の君”に会って、謝りたい。
そして、できることなら――友だちとして、もう一度、はじめたい」
署名がなかった。
でも、美由紀にはすぐにわかった。
その文字、言葉の選び方、空白の余韻。
それは、かつて“てつ”だった自分と最も近い場所にいた、
親友・リナからのものだった。
**
それから数日、美由紀は返事を書けずにいた。
鏡の前で、何度も自分に問いかけた。
(会いたい? “美由紀”として、それとも“てつ”として?)
けれど、答えは明白だった。
(“わたし”として会いに行こう。どちらの名も越えた、今の自分で)
返信は短くした。
リナへ
手紙、ありがとう。
わたしは今、美由紀として生きています。
会いましょう。あなたがそう願うなら。
ただし、もう“てつ”じゃないわたしに、ちゃんと向き合ってください。
封筒に差出人を書くとき、美由紀はふとペンを止めた。
「美由紀」とだけ書いて、そっとポストに投函した。
**
過去と今をつなぐ細い糸が、
ようやく、新しい物語を織り始めようとしていた。
次章予告:第十章「再会」
懐かしく、そして少しだけ怖い過去との邂逅。
リナとの再会の中で、美由紀は“わたし”を再定義することになる。
それは、もう一つの「名を越える」物語――