第八章 名を超えて
「てつ」という名前が、久しぶりに夢に出てきた。
制服のシャツ、短く切られた髪、男子トイレの鏡の前。
そこに映る“てつ”の顔は、どこかぎこちなく、居心地悪そうに笑っていた。
(ここにいたはずのわたしは、もういない)
そう思ったとたんに目が覚めた。
早朝の空気は澄んでいて、カーテン越しに春の光が差し込んでいた。
ベッドの中で美由紀は、静かに呼吸を整えた。
(あの名前を嫌っていたはずなのに、夢に出てくると胸がざわつく)
それはきっと、過去の自分を捨てきれていない証拠だった。
「美由紀」であることに自信を持てたはずなのに、心のどこかで「てつ」の影を気にしている。
でも、それが“間違い”だとは思わなかった。
「名前」は、ただの記号じゃない。
そこには記憶があり、痛みがあり、愛されたことも、拒絶されたことも、すべて刻まれている。
**
その週末、美由紀は葵と約束していた展示会へと出かけた。
場所は小さなギャラリー。
そこには、トランスジェンダーやノンバイナリーの人々を写したポートレートが静かに並んでいた。
どの写真にも、ありのままの“誰か”が映っていた。
飾らない笑顔、張りつめた目線、揺れる瞳――
そのどれもが、美由紀の心を刺した。
「……すごいね」
美由紀がつぶやくと、隣にいた葵が頷いた。
「この人たち、みんな“そのまま”写ってるよね。
性別っていうラベルより前に、“個人”として、ちゃんとそこにいる」
「……うん」
美由紀は、ある一枚の前で立ち止まった。
それは、胸に手を当てた若い人の写真だった。
その手の下には、うっすらと手術痕が見える。
「これ……」
「自分の身体を“変える”って、決して楽じゃないよね。でも、変えることでようやく“自分”を取り戻す人もいる。
逆に、“変えないこと”を選んで、葛藤を抱えながらもそこに立ち続ける人もいる」
美由紀は、自分の胸にそっと手を当てた。
その輪郭は、男として生まれた自分のままだ。
でも、そこに今は、“わたし”が宿っている。
**
展示の帰り道、カフェで向かい合ったテーブル越しに、葵がふと尋ねた。
「美由紀さん、今の自分の名前、好き?」
質問は唐突だったが、美由紀はすぐに答えた。
「……うん。好き。まだ不安になることもあるけど、“そう呼ばれたい”って思える。
“てつ”は、わたしの中の土台かもしれない。消えたわけじゃない。でも、“美由紀”は、それを超えるように、ここにいる名前」
葵の表情が、少し和らいだ。
「いい答えだね。
名前って、“捨てる”ものじゃなくて、“重ねていく”ものかもしれない」
その言葉に、美由紀の中の何かが静かに解けていくのを感じた。
(わたしは、てつだった。
でも、いまは――美由紀だ)
そう思える自分を、ようやく肯定できる。
**
帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見たとき、
美由紀はふと、鏡を見ているような感覚にとらわれた。
“鏡”の中の自分は、かつての自分の延長線上にいる。
名を超えて、形を越えて、感情を重ねて――
ようやくここまで来た。
そしてこれからも、“美由紀”として進んでいける。
もう、恐れることはない。
次章予告:第九章「過去からの手紙」
ある日、美由紀のもとに届いた一通の手紙。
それは“てつ”時代の旧友からだった。
過去が静かに扉を開け、美由紀は再び、“選ぶ”ことを迫られる――