第七章 境界を越えて
Luceの照明はいつもと同じだった。
けれど、美由紀の視界は少しだけ違って見えた。
告白をして、そして断られて、それでもなお――
「わたし」はここにいる。それを、ようやく肯定できるようになっていた。
今夜は静かな金曜日。
常連たちの笑い声もどこか穏やかで、時間がゆっくりと流れている。
「ひとり?」
ふいに、隣に声が落ちてきた。
視線を向けると、見慣れない顔。
黒縁の眼鏡に、少し癖のある髪。シンプルなシャツとジャケット。
男とも女ともつかない佇まい。けれど、その声の低さにどこか安心感があった。
「……そうですけど」
少し警戒しながらも、美由紀は答えた。
「ごめん。変な意味じゃないんだ。ただ、ここのカウンター、空いてる席少なくて」
その人は、やわらかく微笑んだ。
「わたし、葵っていいます。あなたは?」
一瞬、迷ったが――
「美由紀。……美由紀です」
名乗る声が自然に出たことに、自分でも驚いた。
**
会話は途切れることなく続いた。
葵は、Luceに通いはじめてまだ間もないらしい。
「わたしも、ここに来る前はけっこう迷ったんだよね」
「外では“女”って言われても、鏡の中には“どちらでもない”自分がいて……。それを他人に説明するの、すごく疲れる」
(わかる)
美由紀は強く頷いた。
「わたしも、名前を変えてからようやく“自分”って言えるようになった。
でも、その“自分”も日によって変わることがある。……それって、変じゃないのかなって思う時もあった」
葵は、微笑んだまま言った。
「変じゃないよ。
わたしたちの“輪郭”が柔らかいだけで、ちゃんとここに“いる”ことに変わりはない」
(輪郭が、柔らかい――)
その言葉に、美由紀の胸が静かに反応した。
それはまるで、見えない境界線を誰かがそっとなぞってくれたような感覚だった。
**
夜も更け、帰り際。
葵がふと言った。
「よかったら、今度、一緒に展示見に行かない?
性の多様性をテーマにした写真展があって。……たぶん、美由紀さんも好きかも」
「うん。行ってみたい」
即答していた。
気づけば、カオルのことを思い出さずに返事ができたことに、自分でも驚いていた。
あの痛みは、確かに胸の奥に残っている。
けれど、その痛みさえ、“わたし”を作っていると、今は思える。
人は誰かとの関係の中で、自分の形を探し続けるのかもしれない。
そしてその輪郭が、変わりゆくたびに少しずつ、“本当のわたし”に近づいていくのだ。
美由紀は、小さく深呼吸した。
境界は、越えてもいいものなのかもしれない。
揺らぎながらでも、進んでいいのかもしれない。
“わたし”は、ここにいる。
次章予告:第八章「名を超えて」
葵との出会いが、美由紀に新たな視点をもたらしていく。
恋でも友情でもない、“誰かと在ること”のぬくもり。
そして、自らが背負ってきた名前たち――「てつ」と「美由紀」を、どう抱きしめていくのか。