第六章 告白
春の夜風は、まだ冷たさを残していた。
都心の街灯が灯る帰り道、美由紀はカオルと並んで歩いていた。
その距離は、以前よりも確かに近かった。
会話は自然で、沈黙すら心地よかった。
けれど、美由紀の胸の奥には、ずっと言葉にならないざわめきが渦巻いていた。
(このままじゃ、きっと後悔する)
そう思ったときには、足が止まっていた。
「……カオル、少し、いい?」
振り返ったカオルの表情に、いつもの静けさが浮かんでいる。
「なに?」
深呼吸ひとつ。
心の底にある迷いを抱えたまま、美由紀は言葉を紡いだ。
「わたし、あなたのことが……好き」
カオルは微かに目を見開いた。
「……ありがとう」
その声は優しかった。
でも、次の瞬間、美由紀はその“ありがとう”の意味を悟ってしまった。
「……でも、俺は今、誰かと関係を築ける状態じゃないんだ」
一拍置いて、カオルは続けた。
「美由紀のことは大切だよ。だけど……“好き”って気持ちには、まだ応えられそうにない。
たぶん俺、まだ自分のこともちゃんと愛せてないから」
**
その場に冷たい風が吹き込んだわけではない。
ただ、美由紀の胸の奥で、小さな何かが崩れる音がした。
「……うん、わかった。ごめんね。急に、こんなこと言って」
「謝らなくていい。
伝えてくれて、ありがとう。
そう言ってもらえる自分でいられて、嬉しいよ」
カオルの言葉は、どこまでもまっすぐだった。
だからこそ、美由紀の中の“叶わなさ”が、より強く胸を締めつけた。
(傷ついてないわけじゃない。でも、ちゃんと、受け止めてくれた)
それだけで、少しだけ救われる気がした。
**
数日後。
美由紀は一人でLuceを訪れた。
カオルはいなかった。
空いた席に座ってグラスを傾けながら、静かに思いをめぐらせる。
(わたしは、自分で選んだ“名前”で、ちゃんと恋をして、振られたんだ)
それがどれだけ、痛みと誇りの両方を持っているか、今ならわかる気がする。
(でも、これでよかった。わたしはもう、“てつ”としてじゃなく、“美由紀”として傷つけたんだ)
それは、“名乗ること”がもたらす苦しさではなく、
“名乗ること”が可能にした、生の一部だった。
グラスの中の氷が、静かに音を立てた。
その夜、美由紀はまた一歩、
“わたしであること”に近づいた気がした。
次章予告:第七章「境界を越えて」
美由紀は、自分の“性”と“恋”を通じて、また一つ変化を受け入れていく。
過去と未来、男と女、その間に揺れる自分自身の境界を、超えていくために。
Luceに現れた新たな人物との出会いが、新たな転機となる――