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第五章 ゆれる境界線

春が近づき、東京の空気が少し柔らかくなってきた。

オフィスビルの窓から見える街路樹が、ほんのわずかに芽吹いているように見える朝――


美由紀は、いつもと同じように会社に向かっていた。

白のブラウスにグレージュのスカート、揺れるピアス。

控えめに整えたメイクは、職場という“ステージ”のための衣装のようだった。


自分の中にある“男”の名を忘れたわけではない。

けれどそれを語る理由も、誰かに許しを請うつもりもない。

そう思えるようになったのは、Luceという場所、そしてカオルの存在があったからだった。


だが――

その“静けさ”が崩れたのは、ほんの些細なきっかけだった。


**


「……あれ? 美由紀さんって、昔“てつ”って名前じゃなかった?」


同僚の女性、佐野がそう言ったのは、給湯室での何気ない会話の中だった。


一瞬、時間が止まった気がした。


「え……?」

その場にいたもうひとりの女性が、曖昧な笑みを浮かべる。

佐野は、何も気づいていない様子で続けた。


「だってさ、うちの高校のときの同級生に、似てるなーって。あの人も女装してたんだよ。文化祭の時にさ、けっこう目立ってて」


「まさかねー」

軽く笑う声が、耳の奥に刺さる。


(ここまで来たのに……。もう“てつ”じゃないのに……)


美由紀はその場を静かに離れた。

誰も追ってこなかった。


**


トイレの個室で、美由紀は手を胸元に置いた。


(過去は、こんなふうに追いかけてくるんだ)


職場での自分。

Luceでの自分。

そして“かつての自分”――


それらがぐらりと混ざり合い、ひとつの身体の中で居場所を奪い合っていた。


**


夜、美由紀はLuceへ足を運んだ。

「また話そう」と言ったカオルの言葉が、今こそ必要だった。


カオルはすでに来ていて、カウンターの端でグラスを傾けていた。


「……顔、暗いね」


「ちょっとね」

そう言って微笑もうとしたが、すぐに崩れた。


「職場で、昔の名前のこと……ばれかけたの」


カオルはすぐに飲みかけのグラスを置き、美由紀の方を真っ直ぐに見た。


「どうしたい?」


その問いに、美由紀は言葉を詰まらせる。


「逃げたい。でも、逃げたくない。……ちゃんと“美由紀”として、そこにいたい」


「じゃあ、そうすればいい。

過去は変えられない。でも、“誰で生きるか”は、いつだって選べるんだから」


それは、カオルが何度も自分自身に言い聞かせてきた言葉なのだと、美由紀は感じた。


そしてその夜、美由紀は初めて自分から、カオルに質問を投げかけた。


「……カオルは、恋をしたことある?」


沈黙。


「あるよ」

やがて答えた声は低く、穏やかだった。


「でも、“性”を理由に壊れたこともある。“自分が何者か”より、“相手にとってどう見えるか”で、全てが決まってしまうこともあるから」


「じゃあ……どうすればいいの?」


「それでも、信じて差し出すしかない。

この身体も、この心も、“揺れてる”ままでも、誰かに預けてみるしかないんだ」


その言葉に、美由紀の胸の奥がふっと緩む。


(“揺れてる”ままでも、生きていいんだ)


**


帰り道、二人は並んで歩いた。

肩がふと触れた瞬間、美由紀は自分の手が震えていることに気づいた。


それは、恐れじゃなかった。

希望にも似た、“変わってしまうかもしれない”予感だった。


次章予告:第六章「告白」

カオルとの距離が少しずつ縮まり、美由紀の中で“恋”という名の輪郭がはっきりしていく。

だがその想いを伝えた瞬間、予想外の反応が返ってくる――

“本当の自分”を告げることは、愛されることと引き換えにできるのか?

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