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第四章 カオルという存在

それからの数週間、美由紀は職場とLuceとを行き来する生活を送っていた。

平日の昼間は「会社の美由紀」として、着崩さず、口調も柔らかく、静かに振る舞う。

週末の夜は「わたし」として、あいまいなままの性を携えて、地下の扉を開ける。


その両方が本当の自分なのか、それともどちらも仮の姿なのか、まだ答えはなかった。

けれど、それを問い続けることこそが、生きているという実感に近かった。


**


「今日、もう少しだけ、話していかない?」

カオルがそう言ったのは、三度目のLuceでの夜だった。


「もちろん」

美由紀は迷わず頷いていた。


店を出たあと、二人は近くのバーに入った。

照明はさらに落とされ、ワインレッドのソファが沈んだ空気をつくっていた。


「俺ね、最初は“女”として生きようとしてたんだよ」

カオルはグラスを指先でまわしながら話し始めた。

「親も保守的だったし、会社でも“女の子”でいれば評価されやすかった。……でも、だんだん無理がきかなくなってきて」


「無理、って?」


「鏡を見るたび、知らない他人が映ってる気がした。笑ってても、それが自分じゃない感じ」


美由紀は、それがどういうことか、痛いほどわかる気がした。


「“自分”って、どこにあるんだろうって考えたよ」

カオルは、少し笑った。

「それで、自分の体に“名前”を与え直すことにした。“カオル”は、自分で選んだ名前なんだ」


「……素敵な名前」


「ありがとう。美由紀も、自分で選んだんだよね?」


「うん。“てつ”のままじゃ、生きられなかった。でも、“美由紀”になっても、どこか宙ぶらりんで……」


言葉に詰まる。

カオルは黙って待ってくれていた。


「たまに思うの。“性”が曖昧なわたしが、誰かを好きになったり、誰かに愛される資格って、あるのかなって」


その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほど、胸の奥が熱くなった。


「資格なんていらないよ」

カオルの声は、驚くほど優しかった。

「“誰を好きか”って、“自分が誰か”ってことと、いつも同じじゃないから」


「……」


「美由紀は、“女”になりたいんじゃなくて、“誰かとつながりたい”んじゃないの?」


その問いかけに、美由紀は何も答えられなかった。

ただ、視線を伏せて、自分の手を見つめることしかできなかった。


**


その夜、二人は並んで駅まで歩いた。

触れ合わない距離、けれど、何かが確かに“近づいている”気配。


「また、話そう」

そう言ったカオルの横顔に、美由紀は深く頷いた。


夜の街にネオンが滲む。

わたしはまだ、誰かを愛していない。

でも、誰かを信じてみたいと、思った。

次章予告:第五章「ゆれる境界線」

美由紀は、カオルとの交流を通じて“恋心”のような感情に気づき始める。

だがその一方、彼女の過去を知る者が現れ、職場に小さな波紋が広がりはじめる。

“わたしであること”の輪郭が、また揺らいでいく。

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