第四章 カオルという存在
それからの数週間、美由紀は職場とLuceとを行き来する生活を送っていた。
平日の昼間は「会社の美由紀」として、着崩さず、口調も柔らかく、静かに振る舞う。
週末の夜は「わたし」として、あいまいなままの性を携えて、地下の扉を開ける。
その両方が本当の自分なのか、それともどちらも仮の姿なのか、まだ答えはなかった。
けれど、それを問い続けることこそが、生きているという実感に近かった。
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「今日、もう少しだけ、話していかない?」
カオルがそう言ったのは、三度目のLuceでの夜だった。
「もちろん」
美由紀は迷わず頷いていた。
店を出たあと、二人は近くのバーに入った。
照明はさらに落とされ、ワインレッドのソファが沈んだ空気をつくっていた。
「俺ね、最初は“女”として生きようとしてたんだよ」
カオルはグラスを指先でまわしながら話し始めた。
「親も保守的だったし、会社でも“女の子”でいれば評価されやすかった。……でも、だんだん無理がきかなくなってきて」
「無理、って?」
「鏡を見るたび、知らない他人が映ってる気がした。笑ってても、それが自分じゃない感じ」
美由紀は、それがどういうことか、痛いほどわかる気がした。
「“自分”って、どこにあるんだろうって考えたよ」
カオルは、少し笑った。
「それで、自分の体に“名前”を与え直すことにした。“カオル”は、自分で選んだ名前なんだ」
「……素敵な名前」
「ありがとう。美由紀も、自分で選んだんだよね?」
「うん。“てつ”のままじゃ、生きられなかった。でも、“美由紀”になっても、どこか宙ぶらりんで……」
言葉に詰まる。
カオルは黙って待ってくれていた。
「たまに思うの。“性”が曖昧なわたしが、誰かを好きになったり、誰かに愛される資格って、あるのかなって」
その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほど、胸の奥が熱くなった。
「資格なんていらないよ」
カオルの声は、驚くほど優しかった。
「“誰を好きか”って、“自分が誰か”ってことと、いつも同じじゃないから」
「……」
「美由紀は、“女”になりたいんじゃなくて、“誰かとつながりたい”んじゃないの?」
その問いかけに、美由紀は何も答えられなかった。
ただ、視線を伏せて、自分の手を見つめることしかできなかった。
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その夜、二人は並んで駅まで歩いた。
触れ合わない距離、けれど、何かが確かに“近づいている”気配。
「また、話そう」
そう言ったカオルの横顔に、美由紀は深く頷いた。
夜の街にネオンが滲む。
わたしはまだ、誰かを愛していない。
でも、誰かを信じてみたいと、思った。
次章予告:第五章「ゆれる境界線」
美由紀は、カオルとの交流を通じて“恋心”のような感情に気づき始める。
だがその一方、彼女の過去を知る者が現れ、職場に小さな波紋が広がりはじめる。
“わたしであること”の輪郭が、また揺らいでいく。