第三章 夜に潜る
Luceの扉は、予想していたよりもずっと静かだった。
無機質なコンクリートの壁に囲まれた地下への階段を降りると、厚い防音扉が一枚だけ現れる。
そこには看板もなく、名前すら書かれていない。ただ一つ、ドアの横に黒いチャイムがぽつんとあるだけ。
(ほんとに、ここ……?)
不安と、ほんの少しの期待。
美由紀は一瞬だけ逡巡し、チャイムを押した。
数秒後、扉が内側から開いた。
「はじめまして、美由紀さん、だよね?」
現れたのは、レナではなかった。
ショートカットの女性……いや、よく見ると中性的な雰囲気を持った人物が、やわらかく笑っていた。
「どうぞ、緊張しなくていいよ。ここ、初めての人多いから」
案内された中は、意外なほどあたたかみのある空間だった。
古いレンガ調の壁、落ち着いた照明、ソファ席のまわりには何組かの人が静かに語り合っている。
音楽はごく小さなボリュームで、ジャズのようなピアノが流れていた。
(夜の中にいるのに、息がしやすい……)
それが美由紀の、最初の印象だった。
**
奥のカウンターで、美由紀はコーヒーを頼んだ。
一人で過ごすつもりだったが、すぐに隣の席に座った人物が声をかけてきた。
「初めて? ……緊張してる?」
見れば、整った顔立ちの中性的な人物。
服装はシンプルだが、姿勢の美しさと目の力に、どこか引き込まれるものがあった。
「はい……。緊張してるの、わかりますか?」
「誰でも、最初はね。俺もそうだった」
「……“俺”?」
相手は頷いた。
「俺はカオル。FTM――トランス男性。ここの常連ってほどじゃないけど、よく来てる」
「美由紀です。“女装子”……です、たぶん」
どこか自嘲気味に言ったその言葉に、カオルはふっと笑った。
「“たぶん”でいいんだよ。ここではみんな、“仮の姿”を脱ぎ捨てに来てるから」
その言葉に、美由紀の喉の奥がきゅっと締まる。
(仮の姿。わたしは、いまの自分を“仮”だと思ってるの?)
「誰かに証明しなくてもいい。ただ、自分が何者でいたいか、選べばいいだけ」
そう言って、カオルはグラスの水をひとくち飲んだ。
それは、どこか懐かしい響きだった。
かつて慎が言ってくれた言葉と、重なるようで、でももっと自由だった。
**
その夜、美由紀は何人かの人と話をした。
トランス女性、ノンバイナリーの学生、Xジェンダーの会社員……。
共通していたのは、“何者かであろうとしてきた”という苦しさと、それでも生き続けてきたという誇りだった。
帰り道、美由紀は一人、東京の夜の中を歩いていた。
ビルの窓に映った自分の姿。長い髪、控えめなメイク、揺れるスカート。
(これは、仮じゃない。わたしは、わたしのままでいい)
ふと、スマホを取り出してカオルにメッセージを送った。
美由紀:今夜、会えてよかった。
美由紀:あなたみたいに、自分の言葉で語れるようになりたい。
数分後、簡潔な返信が届いた。
カオル:それならまた、Luceで話そう。
カオル:君の言葉を、聞かせてよ。
誰かと“夜の言葉”を交わせた気がした。
自分が何者であるかではなく、どんなふうに在りたいのか。
その問いに、少しずつ答えが生まれてきた。
次章予告:第四章「カオルという存在」
Luceでの再会。
カオルの語る過去と、美由紀に投げかけられる“性と表現”という新たなテーマ。
心の奥を揺さぶられるような夜が、美由紀を次のステージへと導いていく。