第二章 職場の彼女たち
朝のオフィスに、コーヒーの香りが流れる。
コピー機の音、キーボードを叩くリズム、控えめな笑い声――
どれもが日常の一部のようでありながら、美由紀にとってはまだ“よそものの空気”に感じられていた。
「美由紀さん、これお願いできますか?」
声をかけてきたのは、営業部の松岡だった。
目元が涼しげで、物腰は柔らかい。
男性社員の中では唯一、ためらいなく“美由紀”と呼んでくれる人だった。
「もちろん。すぐやりますね」
にこりと笑って返した自分の声が、少しだけ誇らしく思えた。
(わたし、ここでちゃんとやれてる。少しずつ、だけど)
だが、その自信は、ある出来事によって揺さぶられる。
**
昼休み、給湯室で女性社員数名が集まっていた。
美由紀は、何気なく挨拶をして中に入ろうとしたが、その空気がピンと張りつめたことに気づく。
一瞬の沈黙。
そして、ひとりが言った。
「……ごめん、ちょっと女子トークしてたの。あとでね?」
その口調は柔らかかったが、“線を引く”には十分だった。
美由紀は微笑んで「わかりました」と答え、すぐに給湯室を後にした。
(わたしは、“女子トーク”の対象じゃないんだ)
気づかないふりをしていた。
けれど本当は、こうなることも覚悟していたはずだった。
「女性」として働いていても、「女性たち」の輪に入れるとは限らない。
“女性として振る舞うこと”と、“女性として扱われること”の間には、見えない深い谷がある。
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その夜、美由紀は久しぶりにレナに連絡を入れた。
美由紀:ねえ、わたし、“女”って名乗っていいのかな。
レナ:あなたがそう言えるなら、それがすべてでしょ。
レナ:でもね、“女の輪”ってやつは、実はけっこう残酷よ。
スマホの光の中で、その言葉が胸に刺さった。
(わたしが望んでいるのは、“女性としての承認”なのか?
それとも、“わたし自身”が認められることなのか?)
混乱していた。
職場の彼女たちに溶け込みたいという思いと、自分らしくいたいという欲求が、食い違っていた。
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週末。
美由紀は、約束していた場所へと足を運ぶ。
小さなビルの地下。
控えめなプレートに刻まれていたのは、あの名前――
Luce
「夜の名前を忘れた人たちが、光を見つける場所」
レナの言葉が、扉の向こうで静かに待っている気がした。
美由紀は、深く息を吸い、ノックをする。
その音は、これまでのどんな言葉よりも、自分の“本音”に近かった。
次章予告:第三章「夜に潜る」
Luce――そこは“名乗り直した人々”が集う場所。
さまざまな“性のかたち”に触れながら、美由紀は自分の居場所の輪郭を探し始める。
そして、一人の“彼”との出会いが、彼女の価値観を揺らしていく――。