第十一章 光のさきに
六月の風がやわらかく頬を撫でた。
ふと見上げた街路樹には、淡い若葉が揺れていた。
それは春の名残と、夏の気配とが、穏やかに混ざり合う季節。
美由紀は、ひとりで街を歩いていた。
リナとの再会から、二週間が経った。
時間は短くても、あの日の言葉たちは、心に深く染み込んでいた。
“わたしは、わたしとして、生きていい”
それを初めて他者の前で、はっきりと口に出せた日。
過去が赦され、現在が肯定され、未来が少しだけ近づいてきた気がした。
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この数年、美由紀は“わたし”という存在をつくるために多くを学び、悩み、選び取ってきた。
服、声、歩き方、仕草、言葉――
どれも誰かの真似じゃなく、“自分らしさ”を見つけるための試行錯誤だった。
でも最近は、その「外側」ではなく、
もっと“内側”にあるものへと向き合い始めている。
“誰かと在る”ということ。
それは、ただ恋愛や関係性の話だけではない。
誰かと対等に向き合い、ぶつかり、受け入れられ、そして受け入れること。
それは、“自分”を肯定しきれていなければ、できないことだ。
ある日、葵とカフェで話したときのこと。
「美由紀さんは、恋愛……どう考えてるの?」
その質問に、少し黙ったあとで答えた。
「……難しいよね。
男としての“身体”で生きてきたし、今もそれを持っているわたしが、
誰かを好きになるって、まだ怖さがある。
受け入れてもらえなかったらどうしようって、つい考えちゃうから」
葵は静かに頷いたあとで、こう言った。
「でも、身体だけじゃないよね。
誰かを好きになるって、その人の声だったり、匂いだったり、
表情だったり、眼差しだったり……
いろんな感覚の蓄積なんだと思う。
“形”だけを好きになる人なんて、実は少ないのかもしれない」
その言葉は、美由紀の胸にふわりと灯をともした。
たしかに、これまで自分が惹かれてきたのも、
外見だけじゃなく、その人の空気や、話し方、優しさ、怒り方だった。
そして、そういう自分を見つめてくれる誰かが現れたなら――
(そのとき、ちゃんと“わたし”として向き合えるようでいたい)
**
その夜、帰り道の電車の中で、スマホにメッセージが届いた。
【リナ】:ねえ、また会えないかな?
今度は、もっとゆっくり話したい。
美由紀は、しばらく画面を見つめた。
リナの気持ちは、まだ確かな形ではない。
懺悔なのか、友情なのか、あるいは――それ以上の何かか。
でも、美由紀はもう怯えなかった。
過去の名前を受け入れたからこそ、
今の“わたし”をちゃんと選べる。
だから、指先でゆっくりと返信を打った。
【美由紀】:いいよ。会おう。
わたしも、もう少しちゃんと話したい。
送信ボタンを押したとき、車窓に映る自分の顔が、どこか誇らしく見えた。
光が揺れる夜の街。
その先には、まだ見えない何かが続いている。
けれど、美由紀は歩いていける。
“わたし”という名前で、名を越えたまなざしで――。
次章予告:最終章「わたしであること」
出会い、別れ、名を越えた選択の先に、美由紀が見つけた“答え”。
それは決して完璧ではないけれど、確かな“今”としてそこにある。
物語は、静かに終章へ。