第一章 再出発の街
「東京に住むって、やっぱり勇気いるよね」
引っ越し業者の男性が段ボールを運びながら、そんなことをつぶやいた。
美由紀は「そうですね」と笑い返したが、その実、心は揺れていた。
(本当に、ここでやっていけるんだろうか――)
新しい部屋は、築浅のワンルーム。
白い壁に、まだ生活の匂いはなく、どこか“仮住まい”のような空気をまとっていた。
けれど美由紀は、この街で、いまの自分として生き直すと決めたのだ。
「てつ」は、もうここにはいない。
「美由紀」という名前を、自分自身で選び直したあの日から、彼女は“再出発”の扉を開けていた。
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数日後、新しい職場への出勤が始まった。
事務職として雇われた中小企業のオフィスは、社員十数名ほどのコンパクトな空間だった。
最初に出迎えてくれたのは、人事の佐伯という女性。
40代で物腰が柔らかく、美由紀の履歴書を見ながらこう言った。
「“美由紀さん”で、よろしいんですね?」
「はい。……その名前で呼んでいただけると、うれしいです」
「わかりました」
佐伯は微笑みながら頷いたが、どこか“慎重な距離”がそこにはあった。
他の職員たちも同様だった。
明るく接する者もいれば、あえて名前を呼ばずに済ませる者もいた。
一見“平穏な空気”の中に、見えないざらつきが潜んでいるのを、美由紀は敏感に感じ取っていた。
(受け入れてくれてる、のかな……それとも、腫れものに触らないようにしてるだけ?)
何度も考えた。
でも、ここでそれを問うことは、まだできなかった。
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夜、美由紀はベッドに座り、スマホでひとつの住所を検索していた。
“Luce”――レナが紹介してくれた、都内の“居場所”だ。
『夜の名前を忘れた人たちが、光を見つける場所』
そんな言葉を添えた、レナのメッセージが添えられていた。
(怖い。でも、たぶん――必要な場所)
美由紀は、自分がどこに属しているのか、まだよく分かっていなかった。
女性として完全に受け入れられているわけでもない。
かといって、男性だった頃の「てつ」に戻ることは、もうできない。
“どちらでもない”という在り方は、世の中にとってはまだ異物だった。
(だったら……探しに行かなきゃ。わたしが、わたしでいられる場所を)
次の週末、美由紀はLuceの扉を叩く決意をする。
それは、「名前」を越えて、「存在そのもの」で生きるための、第一歩だった。
次章予告:第二章「職場の彼女たち」
新しい職場での日々の中、美由紀は“女性として扱われること”の複雑さと向き合い始める。
ある同僚の一言が、彼女の心に大きな波を起こす――。