入学試験⑧(誘拐犯)
誘拐犯たちは子どもを抱えたまま、人気のない通りを抜け、古びた倉庫の中へと消えた。
「……あそこか。あれが誘拐犯のアジトっぽいな」
ミケチが低くつぶやく。錆びた鉄の壁に囲まれた建物は、使われなくなった工場のようだった。まわりには人影もない。
「シアラ、ここから先は本当に危険になる。絶対に無理はしないで。中で何があっても、僕のそばを離れないこと。いい?」
「……うん」
小さく頷いたシアラの手は、ほんの少し震えていた。でも、その瞳には不思議な芯の強さが宿っていた。
「よし……いくよ」
ガンッ!
ミケチが倉庫の扉を蹴り開けると、鈍い音が中に響き渡った。
「おい、お前ら! その子を今すぐ返せ!」
中には粗雑な身なりの男が二人。ひとりはまだ子どもを抱えたまま、もう一人がこちらを振り返って舌打ちする。
「くそっ、追ってきやがったか!」
「なんだお前ら、ガキが出しゃばってくんじゃねぇ!」
「その子は、お母さんが待ってるんだ。これ以上勝手なことはさせない!」
ミケチは一歩前に出て、構えを取る。
「シアラ、ここから先は僕に任せて。後ろで見てて」
「……気をつけてね」
そう言って、シアラは倉庫の隅に身を寄せた。震える子どもを見つめ、心の中で強く祈る。
(大丈夫……ミケチが、きっと助けてくれるから)
「お、お母さーんっ!」
子どもは涙をこぼしながら、遠くにいる母親を思って叫んだ。その声に、ミケチの目が鋭くなる。
「……僕が絶対に連れて帰る」
―――――
フィーネの効果もあり、力の差はこちらが圧倒的だった。
「……エンチャント・炎」
ミケチが静かに詠唱すると、右腕に赤く揺れる魔力の炎がまとわりつく。かつて《エンチャント・炎》と呼ばれていた魔法は、指輪の力によって《エンチャント・イグニス》として進化していた。
だが――。
(今の俺が使えば、一撃で終わってしまう。下手すれば命を奪いかねない)
ミケチは魔力を制御し、力を抑えたまま男たちへ踏み込む。
「ぐっ、なんだこいつ……!」
ナイフを振るう男。しかし、その動きはミケチにとって遅すぎた。
「そのスピードじゃ、昼寝できるな」
ミケチは身を傾けて刃をかわし、拳を男の腹に叩き込む。火花を散らす一撃に、男は後方へ吹き飛んだ。
もう一人が子どもを下ろし、背後から殴りかかる。
「お前みてぇなガキに──っ!」
だがその拳も届かなかった。
ミケチが男の腕を掴み、動きを封じる。
「……もうやめとけ。相手、間違えたな」
剣を構えたミケチに、男たちは恐怖する。
だが、吹き飛ばされた男が再び立ち上がり、子どもを抱え込んだ。
「動くんじゃねぇぞ! こいつの首を切る!」
子どもは恐怖で泣き出した。
「うるさい、黙れガキ! お前もだ! 助けたきゃ剣を捨てろ!」
ミケチの表情が曇る。
(……油断していた。慢心していた。強くなった自分に酔っていた……それが、この事態を招いた)
「……わかった。剣を置く。だから、その子には手を出すな」
ミケチが剣を地面に置いた、その瞬間だった。
男の一人が跳ね起き、ミケチに拳を振り抜く。
「──ぐっ!」
不意を突かれた一撃が、ミケチの頬を捉えた。よろめき、片膝を地につく。
「お兄ちゃん!」
シアラが叫ぶ。
(どうしよう……私にできること……考えろ……!)
視線の先で、ナイフを手にした男が、震えるチモにじりじりと迫っていた。鋭く光る刃が、チモの目の前で揺れ、恐怖を煽っている。
(だめ! あのナイフを……どこか遠くへ!)
閃いた。《ミニ・ゲート》──物体を転送する空間魔法。その力を使えば、あの凶器を消し去れる!
「空間よ裂けよ、彼方へ揺らめけ──《ミニ・ゲート》!」
シアラの詠唱と同時に、男の手に握られていたナイフが空間ごと切り取られ、シアラの手元に現れる。
子どもの首元にあった刃が、突如として消えた。
「なっ……!」
男が目を見開く。
「お兄ちゃん、いまっ!!」
シアラの叫びと同時に、ミケチは顔を上げた。その瞳には、もはや迷いはなかった。
「よくやった、シアラ」
静かに、確実に――ミケチは立ち上がった。
―――――
「アクセル──《エンチャント・イグニス》!」
ミケチは魔力を爆発的に高め、足元を蹴り出す。紅蓮の炎をまとった剣が唸りを上げ、男を切り裂く。
轟音と共に男は壁際まで吹き飛び、もう一人の男も青ざめて後退した。
「逃がさない」
ミケチは無言で一歩一歩詰め寄る。炎の剣を高く掲げ、振り下ろした。
男は断末魔すら上げられず、床に沈んだ。
二人の誘拐犯は、完全に動かなくなった。
「……終わった」
ミケチは炎を収め、子どものもとへ駆け寄る。
「大丈夫? 怖かったね。もう大丈夫だから」
しゃがみ込んだミケチに、子どもは小さくしがみつく。
「おにいちゃん!」
シアラも駆け寄り、子どもの手を優しく握った。
「シアラの魔法、ナイスすぎたよ。あれがなかったら、どうなってたか……僕の油断が招いたんだ。ごめん、そしてありがとう」
シアラは照れくさそうに笑い、子どもに問いかける。
「私、シアラ! 名前はなんて言うの?」
「チ、チモ……」
涙をぬぐいながら答える子どもに、シアラは優しく微笑んだ。
「チモちゃん、えらかったね。よし、お母さんのところに帰ろう」
ミケチは立ち上がり、誘拐犯たちに目を向ける。
「お兄ちゃん、この人たちどうするの?」
「この近くにギルドがあるんだ。シアラ、呼んできてくれる? 僕はチモちゃんを守りながら見張ってる」
「うん、任せて!」
シアラは元気よく頷き、倉庫の外へ走っていった。
残されたミケチのそばで、チモがそっと顔を上げる。
「……おにいちゃん、ありがとう」
その言葉に、ミケチは驚き、そして優しく微笑む。
「僕の名前はミケチ。チモちゃんが無事で、本当に良かったよ」
チモはミケチの袖をぎゅっと握り、ミケチはそっとその肩を包み込んだ。
倉庫の外では、風が草木を揺らし、鳥のさえずりが聞こえていた。
ようやく、静かな安堵が訪れていた。
―――――
「お兄ちゃん、連れてきたよ!」
シアラがギルドの人々を引き連れて戻ってきた。
「助かったよ、ありがとう」
ミケチが微笑むと、ギルドの人々は手際よく犯人たちを拘束する。
「最近、この街でも子どもの誘拐が増えていてね。今回の件、本当に感謝するよ」
「いえいえ! チモちゃんのこと、僕たちがちゃんと送り届けますね!」
ギルドの人は満足そうにうなずいた。
「しっかりした腕前だ。もし冒険者登録を考えているなら、いつでも歓迎するよ」
そう言い残し、ギルドの一行は倉庫を後にした。
ミケチはチモに手を差し出す。
「さあ、チモちゃん。お母さんのところに戻ろう」
「うゆ!」
隣でシアラも手を差し出す。
「一緒に行こ? お母さん、きっと心配してるよ」
チモは二人の手を見比べ、笑みを浮かべながら両手を重ねた。
ミケチとシアラは顔を見合わせ、微笑み合う。
倉庫の扉を開けると、差し込んできたまぶしい光に、チモが思わず目を細める。
外の空気を胸いっぱいに吸い込み、少し顔を上げた。
ミケチとシアラの両手を握ったまま、チモは小さな足で一歩を踏み出す。
「お母さんの待ってる場所まで、行こっか」
ミケチが優しくそう声をかけると、チモは元気よくうなずいた。
三人は並んで、倉庫のある路地を抜けていく。石畳を照らす日差しはやわらかく、吹き抜ける風も心なしか心地いい。
角を曲がったそのときだった。
「──あっ!」
チモがぴたりと立ち止まり、目を見開く。
通りの先に、一人の女性が立っていた。服は乱れ、顔は涙で濡れている。それでも、チモの姿を見つけた瞬間、迷わず駆け出してきた。
「おかあさん──!」
チモはぱっと二人の手を離し、まっすぐに走り出す。石畳を蹴る足音が高く響き、飛び込むようにその腕へと抱きついた。
「チモーっ!!」
女性は力いっぱいチモを抱きしめ、崩れるようにその場にしゃがみ込む。
「ごめんね、ごめんね……よかった、無事で……!」
泣きながら、何度も頭を撫で、背中をさすり、頬をくっつけて、言葉にならない想いを伝える。
チモも涙を浮かべながら、何度もうなずいていた。
そのすぐあと、女性はチモを抱き寄せたまま、ミケチとシアラのほうへと向き直った。
「……あの、本当に……本当にありがとうございました!」
深く頭を下げるその声は、涙と感謝で震えていた。
「いえ、無事でよかったです」
ミケチは少し照れたように笑いながら返す。隣のシアラも、そっと会釈をした。
──ふたりは、それ以上何も言わなかった。
母と子が抱き合うその光景を見届けると、視線を交わして、小さくうなずく。
「……僕たちは、これで」
ミケチがそう言って、歩き出そうとしたそのとき。
「──お兄ちゃん! お姉ちゃん!」
後ろから、小さな声が呼び止めた。
振り返ると、チモが母の腕の中から顔を出し、こちらを見上げていた。
「助けてくれて……ありがとう!」
その顔には、涙と一緒に、心からの笑顔が浮かんでいた。
ミケチとシアラは一瞬きょとんとし、それからふっと優しい表情を浮かべる。
「……うん。またね、チモちゃん」
ミケチが手を振ると、チモも元気よく、小さな手をぶんぶん振り返してきた。
「ばいばーい!」
それを見て、シアラもやわらかく微笑み、しゃがんでチモと目線を合わせた。
「チモちゃんも、元気でね。バイバイ」
やさしく手を振ると、チモはぱっと笑顔を広げて、両手で力いっぱい手を振ってくれた。
その姿を最後に、ふたりはふたたび歩き出す。
「……あの子、笑ってたな」
ふと漏らしたミケチの言葉に、シアラも静かに頷く。
「ほんと、よかった」
それから少しのあいだ、柔らかな風が二人の間を吹き抜ける。
「……でもさ、こういうの、悪くないよな」
「……なによ、急に」
「いや、なんとなく。人助けっていうか、ちょっと、ヒーローになれた気がするというか」
「……キモい」
呆れたように顔を背けながらも、シアラの口元にはかすかに笑みが浮かんでいた。
「ま、でも……ありがと、シアラ」
「……別に、あたしは手伝っただけ。感謝なんていらないわよ、バカ兄」
照れ隠しのようにぶっきらぼうな言葉を返しつつも、シアラの声はどこか柔らかかった。
二人並んで歩き出すと、通りには夕日が差し込み、影が長く伸びていた。
「……明日、合格発表だな」
ミケチがぽつりとつぶやく。
「うん。でも大丈夫でしょ? お兄ちゃんなら、余裕で受かってるよ」
「僕もそう思うよ..さすがに」
ミケチは肩をすくめて苦笑する。
「そうね。でも、落ち着きのなさでは一番だと思うわよ」
「おい、それ褒めてないだろ!」
軽口を叩きながらも、ミケチの表情はどこか晴れやかだった。
並んで歩く二人の背中を、やわらかな夕日が包み込む。
家の灯りが見えてきたころ、シアラがふと立ち止まる。
「……お兄ちゃん、明日はちゃんと早起きしてよね」
「おはようのキスで起こしに来てね、シアラ」
「きもいしね、バカ兄」
呆れたような声とともに、シアラは顔を背ける。
それでも、どこか楽しげな空気が二人を包んでいた。
そして二人は、並んで家の扉を開けた。