#2 丘の上の古びた屋敷
「……っくしゅん!」
明くる朝、エドガー・デュバルは部屋の肌寒さか埃っぽさか、あるいは両方か──によって引き起こされた自身のくしゃみで目が覚めた。上体を起こすと、なにやら見覚えのない部屋で、寝ぼけた頭では混乱しかけた。覚醒していくうちに昨日のことが段々と思い出されていく。
昨日は……、旅の最初の目的のシュガータウンに着いて、不死者の吸血鬼に会って……。それで雨で足止めをくらって、泊めてもらったんだっけ……。
雨のことを思い出し、そのとき未だに雨音が聞こえることに気がついた。やたら肌寒いのもそのせいだろう。
強すぎはしないが、しっかりと降っている雨を窓から確認すると、これは今日もまだ止みそうにないと、安堵とも焦燥にも似た、なんとも言えない気持ちが胸に広がった。
今日も泊めてもらえるだろうか?
屋敷の主人は、エドガーを歓迎しているとは言い難い。ただ、非情ではない。彼女の親切心をあてに、ともかく朝の挨拶をしよう、そう思った。
泊めてもらった客間の鏡を見ながら、軽く身支度をした。鏡は軽くひび割れていた。館の鏡は見た限りみんなそうであった。そしてその全てが人為的に破られているのがわかる。
髪や服装を整えた後、時刻を確認しようと、エドガーは部屋を見回した。時計は彼のやや手の届かない壁にかかっていた。針は7時25分頃を指していたが、……動いていなかった。埃と蜘蛛の巣を被った時計は完全に沈黙している。
エドガーは諦めたように肩をすくめて、客間を出た。
廊下も冷え冷えとしており、雨の音がやけに響いている。
雨漏りしていないのは幸いだな、とエドガーは思った。屋敷は古びていてあまり手入れがされていない。しかし、数名のメイドはいて掃除は行き届いている。が、それは彼女たちの手の届くところまでであり、簡単に手の届かないところは埃だらけだ。なぜなら彼女たちは骸骨で、高いところから落ちたら身体を欠損し、元に戻せなくなるからだそうだ。
だから消えてしまった照明の高いところにあるほとんどがそのままで、屋敷の中はずっと薄暗い。たまにところどころ、床にランタンが置いてある。その光も大したことはなく、近くの足元しか映さない。常夜の住民である我々でも夜目が効くわけではないから、この状態はあまり好ましいものではなかった。
二階から一階に降り、食堂の方へ向かう。今が何時だか知らないが、この屋敷の主人はそこにいると確信を感じていた。昨日は大体そこにいたのだから。もしいなくともメイドがひとりくらいはいるだろうと、エドガーは考えた。
食堂に入ると、やはり屋敷の主人はいた。ケーキやクッキー類を前にティータイムのようだ。
「お、おはようございます」
「ええ……。一応おはようの時間かしら」
エドガーは食堂にある時計──これは多分正常の動いている──を見やった。彼女の様子や物言いからしてなんとなく察したが、時刻は10時半にならないくらいだった。
「デュバル様、朝食を召し上がりますか?もうお昼に近い時間ですけれど」
その場にいたメイドがエドガーに声かけた。
「いただけるのであれば、是非!ええと、ミレイユさん」
彼女の名前を呼んだエドガーに、メイドのミレイユと屋敷の主人はやや驚いたような様子を見せた。エドガーはその様子に、もしかして名前を間違ったのかと軽く肝を冷やしたが、一番背が高くて細身の、少しきつめの言い方をするメイドはミレイユであると確信していたため、なぜだろうと思うのに至った。
ミレイユはそれ以上は反応せず、厨房へ引っ込んだ。エドガーは困惑しつつも、屋敷の主人のやや近くの椅子に腰掛けることにした。
「名前を覚えてるなんて思いもしなかったわ。全員のがわかる?」
エドガーはその問いかけにそういうことか、と納得した。ぱっと見た様子ではみんな同じ骸骨のメイドだ。しかし、彼女たちはそれぞれ体型も話し方も行動の仕方も違う。エドガーにとって区別し覚えることは難しいことではなかった。
「一応は……。あれ?でも何人いらっしゃるんですか?」
「6人」
「じゃあ、まだ会ってない方がいるかも。わかるのは4人です」
「そうね、ロゼリーはしばらく休養中だし、ドゥニーズは昨日お休みだったもの」
「なるほど、まだ会っていませんね……」
エドガーはなんだか試されたような気がして、ドキマギした。だがこれが仮に何かのテストだとしたら、無事にパスしただろう。屋敷の主人の機嫌がにわかに良くなった。
「どうぞ、こちらを」
「あっありがとうございます」
エドガーの目の前に皿が供された。皿の上には、砂糖がかかったクロワッサンときっちり形の整ったオムレツ、くし切りのトマトがあった。
食事をしている間、食堂は静かで雨音ばかりが聞こえていた。
「長い雨ですね。このまま一日中降っているでしょうか」
食べ終わったエドガーの皿をさっさと片付けるべく、近寄ったミレイユが屋敷の主人に向かって声をかけた。
「ええ……、ずっと降ってそうね。……」
エドガーはその受け答えを若干緊張しながら聞いていた。流石に明日には止むだろうから、もう一晩だけ泊めてもらえないか、そう言おうとした。
「いいわよ。雨が止むまで、もう一晩くらい。明日は流石に止むでしょ」
「えっ!あ、ありがとうございます!」
声にでも出ていたかと思うくらい、見透かされたように滞在の許可をもらい、エドガーは面食らった。
「変に騒がなければ、自由にしてていいわ」
屋敷の主人はそのまま続けた。一晩で少し警戒心が薄れたのか、ただただ無関心なのかはわからない。
「わかりました。ご迷惑はおかけしません」
そう言ってエドガーは立ち上がった。あまりここに長居するのは、屋敷の主人にとって快いものではないだろうと思った。厨房にいるミレイユに軽くお礼の挨拶をしてから、彼は食堂を出た。
せっかく、『自由にしてもいい』と許可をもらったので、お節介でもこの屋敷の手伝いをしようとエドガーは思っていた。しかし、それをどうやって、誰に持ち掛ければいいのか……。よし、次に会ったメイドの誰かに手伝いを申し出よう。考えを決め、エドガーはなんとなくビリヤードルームに向かった。
ビリヤードルームはそこそこ広い。しかし、ビリヤード台だけがぽつねんとあるのみで、全体的に寂しい印象がする。
ここをこの屋敷の誰かは活用するのだろうか……。屋敷の主人ももう一人の少女ノエラも、メイドたちもビリヤードをする印象はない。また、エドガー自体もやったことがなく、あんまり興味もない。ただの思いつきだが、ここを別の用途に使った方がいいんじゃないかと考えた。
エドガーは、自分ならこの部屋をどうするかとか、この屋敷に手を入れるならとか、あれやこれやを考えながら、部屋の中をうろうろしていたが、別のところに移動するべく、扉に向かった。そして、ドアノブに手をかけた瞬間、いきなり扉が開いた。
「きゃあ!……す、すみません!こんなところにひとがいるなんて思いもしなくて……」
「いえ!こちらこそすみません……」
扉を開けたのは小柄なメイドだった。エドガーのまだ会っていないうちの一人だった。
「ああ、えっと、エドガー・デュバルさま、でしたか?ジョスに話は聞いたんです!」
「はい。ジョス……、ジョスリーヌさんのことですか?」
ジョスリーヌは、昨日エドガーに館を案内したメイドだ。彼女もまた小柄だったし、元気がよく若々しい印象を受けた。この小柄なメイドも若い娘のようで、どうやらこの二人は親しい友人なんだろうか、と考えた。
「そ、そうです!あっ申し遅れました、わたしドゥニーズと申します。あの……、デュバルさまは今日まではいらっしゃるんですか?」
「ええ、さっき今日まで滞在の許可をもらいました。一日中雨降ってそうですからね。ありがたいことです」
「それはよかったです!ところで……、どうしてこちらに?」
「いやあ、なんとなくです。どなたかビリヤードをおやりになるんですか?」
エドガーのその質問に首を左右にしてドゥニーズは答えた。
「いいえ、誰もしませんわ。わたしがここに来たときからそうです。みんなここには掃除をしに来るくらいです」
そう言ってほらと、右手にもっていた箒をあげて見せた。エドガーはその時初めてドゥニーズが箒を持っていることに気がついた。
「ああ……。そうだ、ご迷惑でなければ何かお手伝いをしたいのですが。例えば、……灯りを変えるとか」
「それは……!大変ありがたいのですが……。ミレイユさんに聞いてみます。どこにいるかしら……」
「ミレイユさんなら、さっきは食堂にいましたよ」
「ほんとですか!?では聞きに行ってきます!」
と、やや慌ただしくドゥニーズはビリヤードルームを出た。一人残されたエドガーは少しの高揚感を抱いていた。手伝いの申し出ができ、自分の希望が叶いそうだ。それにまだミレイユが食堂にいるならば、屋敷の主人もそこにいるはずだ。いいんじゃない、と軽く承諾してくれるだろう。
間も無くして、ドゥニーズは戻ってきた。急いだようで、若干息が切れている。
「デュバルさまがそういうなら是非と!」
「ありがとうございます。じゃあ……、まず何をしましょうか?」
「えーと、じゃあ……」
それからしばらく、いくつかの部屋のつかない灯りを交換したり、高い位置の埃をはたいたり、狂っていたり止まっていたりしている時計をできる限りで直したりした。
作業をしている内に、エドガーは自身の学生時代のことを思い出した。そのころも似たような雑用をしていたものだ。そしてそれは大体が、恩師であるシルバー・フェンリルの指示によるものだった。他の教師に頼まれたこともやってはいたが、特にシルバーからは、執務室によく出入りしていたのもあって、よく頼まれていた。シルバーは、「君は文句を言わずよく働いて、便利だ」とたまに言っていた。エドガーからしたら、単に暇で、敬うべき教師に頼まれたことならと、当然に思っていただけだった。それもあってか、普段生徒を比較しないシルバーであるが、エドガーのことは気に入っていた。そうでなくては、シュガータウンの不死者の吸血鬼のことなど、独り言だとしても漏らさないだろう。不死者の吸血鬼が自身のことを外部に知らされたくないのは、彼も知っていたはずだ。
──そしたら、なぜ自分には教えたのだろう。自分をここに行かせたかった理由があったのではないだろうか。エドガーはシルバーの意図についてしばらく考えたが、さっぱりわからなかった。もしかしたら、本当に大した意味はないのかも知れない。実際あの人にはそんなところがある。
ふと、思いついた。この館の主人に、シルバー・フェンリルについて聞いてみよう。彼らはおおよそ昔から知り合いで、館の主人はシルバーが教師だと驚いていたことから、以前の彼を知っている。
よし聞こう、と決めたとき、ドゥニーズに声をかけられた。
「デュバルさま!そろそろ休憩にしませんか?お嬢様が声をかけてきなさいって!」
「あ、そうですね……。あれ?今何時ですか?」
「3時を過ぎたところですわ」
「もうそんなに……」
手伝いを始めてから、おおよそ4時間くらいは経っていたらしい。作業の間全く時間の間隔を失っていた。しかし、その甲斐あって、屋敷の中は随分明るくなった。
「どうぞ、食堂へ。お嬢様がいますから」
エドガーは食堂へ向かった。そこには、今朝いた時と同じように館の主人がいて、傍には1人のメイドがいた。しかし、メイドは今朝いたミレイユではなく、やや体格のいいしっかりとした印象の受けるメイド──、ソレーヌがいた。ソレーヌはこちらにどうぞ、と館の主人の近くの椅子をエドガーに薦めた。もちろん素直に従う。
「随分、色々やってくれたみたいね。感謝するわ」
屋敷の主人がエドガーに声をかけた。
「屋敷の中が、随分明るくなりましたわ。ありがとうございます、デュバルさま」
「いえいえ、むしろご迷惑でないなら良かったです」
エドガーの前に、朝のように目の前に皿が供された。今回は朝食のメニューではなく、柔らかそうなクリームに苺とラズベリーが乗った綺麗なチョコレートケーキがあった。屋敷の主人の前にも同じケーキがあって、それは食べかけだった。エドガーは皿を置いたソレーヌにお礼を述べると、ケーキを口に運んだ。
「……!美味しいですね、このケーキ」
「そうでしょう?ソレーヌは本当にお菓子作りが上手なのよ」
屋敷の主人が得意げに言う。ソレーヌは手を口元に持っていき、照れ笑いをした。
「そういえば、その、伺いたいことがあるのですが……」
「なにを?」
「シルバー先生のことを……。お知り合いなんですよね?」
「ええ。そっか、教師をしていたのよね。今でもかしら?」
「多分そうだと……、ええそうですね」
エドガーは自分が学校を卒業したのはずっと前だったことを思い出し、今でもいるかは分からない、と一瞬思った。が、親戚の女の子が今年入学して、少し話を聞いた時に話題にのぼったのを思い出した。つまりはまだまだ教師として学校にいる。
「私もシルバーのこと、聞きたいわ。だって教師だなんてらしくないもの」
「そうですか?……らしくない……」
「だって、あの人基本的にあんまり人に興味がないじゃない。生徒に学びを教え、導く立場なんて……。随分会ってない内に性格でも変わったのかしら?」
「あ、でも人に興味がない感じはしてましたよ。あとずっと担任は持っていなかったかも。授業だけしてました」
「へえ、何を教えてたの?」
「歴史学です。教科書に載ってない裏話とか、実際はこうだったとか話してて結構面白かったですよ」
「なるほどね、それはらしいかも」
「あの……、どうして先生とお知り合いなんですか?」
エドガーはシルバーとこの屋敷の主人との接点が考えてもよくわからなかった。どこかに共通する部分がある、というのは感じるが、具体的なものもわからない。
「ああ、ある時、シルバーが訪ねてきたの、ここに。今の貴方みたいに」
「そうだったんですか……」
シルバーが教師をやる前はあちこちを旅して回っていたというのは、聞いたことがあった。その旅路でここに辿り着いたのだろう。
「ここって、簡単には辿り着けないようになってるのよ」
「えっ?ここって……、このシュガータウンに?」
エドガーはその話を聞いて驚いた。少なくとも自分が来た時は特に迷わなかった。
「そうなの。私がそうしてもらうようにしたの。だからこの町に魔物はいないでしょう?」
「そういえば、そうですね……」
言われてみれば、この町には不死者しかいないような気がした。この屋敷のメイドもそうだ。
「そうしてもらうようにしたとは……?」
「魔物の人は絶対私に関わってくるのよ。前はそうだったから。それが嫌だったの」
「それは……、僕が押しかけてさぞ……、その、嫌な思いを」
「まあ歓迎はしていなかったわ。でも、メイド達がはしゃいだし、なんか色々やってくれたみたいで、そんなに悪くは思っていないわ、今はね」
その言葉に、エドガーはほっとした。そしてやっぱり迷惑だったんだと思うのと同時に役に立てたならよかったとも思った。
「それで……、この町はこの町を知ってる人しか辿り着けないようになってるの。あ、魔物だけよ、不死者は来れるわ」
「僕は先生から聞いたから、来れたんですね」
「そうでしょうね。でもシルバーはひとりでに辿り着いたの」
「先生は、厳密には魔物じゃあないからでしょうか」
「多分そうだと思う。自分でも言ってたから」
シルバーは、姓のとおりフェンリルである。彼はどちらかというと神のような存在に近い獣で、大抵の魔物より高い魔力を保有し、ずっと長寿だ。当然『不死者の吸血鬼』と同じくらい珍しい、というよりもこの世界には、自身と自身の双子の片割れの2体しかいないとシルバーは語っていた。
そしてようやくエドガーは、屋敷の主人と会話していく内に、この2人の共通点に気がついた。
「シルバーはそれから、度々訪ねてくるようになって、色々は話をしてくれたりしたんだけど、……最近来なくなったのは教師になったからかしら?」
「じゃあ、もっとずっと前から来てないんですか。僕の一番上の兄が学校に通っていた時から先生はいましたし……」
「そうね、ずっと前から来てないかも。……兄弟がいるの?」
屋敷の主人は、エドガーの兄弟について興味を示した。
「兄が2人と、妹が1人います」
「まあ、たくさんいるのね。仲はいいの?」
「うーん、よくわからないです。悪くはないと思うんですが……。妹とは仲良いかもしれないです」
家にいても兄達とはあまり接点がなかった。幼い頃も一緒に遊んだような記憶はあまりなく、寂しい思いをした。エドガーはそんな気持ちを思い出し、悲しくなった。兄達のことは嫌いではないし、嫌われてはいないと思う。ただ、それだけだった。
「そう。今は離れてるじゃない?寂しくはないの?」
「え……」
その言葉にエドガーは言葉を詰まらせた。寂しいと感じてはいないが、ないと答えるのは少し違う気がした。屋敷の主人はそんなエドガーの様子を不思議に思った。にわかに食堂の中が静かになった。
「コレット!」
そのとき、勢いよく食堂の扉が開き、元気な声と共に少女が入ってきた。手には洋服を持っている。
「……ノエラ」
コレットと呼ばれた館の主人が、今しがた入ってきた少女、ノエラに声をかけた。
「見てください!新しい服が出来上がりました!」
ノエラが手に持っていた洋服を広げてみせる。暗い色をしたフリルのワンピースで、館の主人が今着ているようなのと似た雰囲気をしていた。
「そう。ありがとう。明日着てみるわね」
そう言って館の主人はワンピースを受け取った。エドガーはその様子を黙って見ていたが、自分もなにか声をかけたほうがいいのか、と迷っていた。
「あ!エドガー、灯りとか時計とかありがとうございます!お陰で随分明るくなりました」
「ああ、いや、そんな大したことは」
エドガーは驚いた。まさかノエラに名前の呼び捨てで話しかけるとは思わなかったのである。屋敷内のことはメイドの誰かから聞いたのだろうか。そういえば、ノエラには今日は一度もまだ会っていなかった。
「ずっと気になってはいたんですけど、ノエラでは力及ばなくて、とっても助かりました!」
この小さい少女が灯りを取り替えるのは想像がつかないな、とエドガーは思った。それよりも先程手渡していたワンピースが気になる。
「そのワンピースは、……もしかして君が?」
「ええ、そうです!今コレットが着てるのだってノエラが作ったんですよ」
今ノエラが着ているのもそうですとくるりと回りながら言った。彼女の作った服はいずれもたくさんのフリルがあり、細やかな装飾が施されている。彼女は相当服を作るのが好きで、腕も確かであるとわかった。
「それはすごいなあ」
エドガーは尊敬と驚嘆を込めた一言を言った。ノエラは満足そうにし、その場を去った。
「いつの間に仲良くなったの?」
怪訝そうに館の主人がそう聞く。エドガーは仲良くなれた覚えがないため、首を左右に振った。
「わからないですよ。でも邪険にされないで良かったです」
「でも、貴方のこと名前で呼んだじゃない」
「今日はさっきはじめて会いましたよ。昨日もそんなに話したわけじゃないし……」
館の主人はその答えに納得がいかない様子だった。不機嫌そうな表情をしている。そういえば、とエドガーは名前の件で思い出した。
「さっきノエラが呼んでいましたけど……、貴女はコレットさんていうんですか」
「そうだけど。言ってなかったかしら」
言っていないとは言わずに、エドガーは微笑だけ返した。屋敷の主人──コレットはそんなエドガーの様子に少しだけ申し訳ない気持ちになった。少し邪険にしすぎていたかも知れない。
今話している感じや、昨晩滞在していた時の様子、屋敷内の手伝いを申し出て、色々やってくれたことなど、彼は始終感じが良い。やや気弱で自己肯定感の低さを感じるが、物腰柔らかで穏やかな表情をしている。そんなところから、ほぼ警戒心はなくなっている。
「コレットでいいわよ。呼び捨てで。ノエラだってそう呼んでいるでしょう」
若干お詫びの気持ちも込めて、コレットはエドガーに提案した。エドガーは戸惑いつつも、ではそう呼びます、と答えた。
「あと、話し方もそんなんじゃなくていいわ。あなたがいつも話している風で構わないわ」
コレットは、見た目で言えば自分より年上の人に丁寧に接されるのに、そろそろ居心地の悪さを感じていた。ただこの提案をしたことで、自分がエドガーと仲良くなりたがっているみたいだ、と思い、短い間だけれど、と小さな声で付け加えた。
「わ、わかった。ありがとう」
エドガーは、困ったような照れたような表情でそう答えた。コレットはそれに少し安堵した。
翌朝。
昨日までの雨はすっかり止み、春らしい若干肌寒いそよ風の吹いた良い天気だ。
エドガーは起きてからすぐに天気を確認すると、少し落胆し暗い気持ちになった。今日はもう天気が良くなったから、この家を出ていかなければならない……。
時刻は7時半頃、昨日直した時計は多分正確だ。すぐに出て行ってもいいが、昨日は雨で出来なかった、庭の方の明かりも変えておきたかった。昼前には終わるだろうし、そのくらいは滞在してもいいだろう。
エドガーは名残惜しく辺りを見渡して、自分が寝ていたベッドを軽く整えると、部屋を出た。
昨日と同じように食堂へ真っ直ぐ向かう。廊下は相変わらず静かで冷え冷えとしていたが、しっかり明るく、昨日とはすっかり様子が違っていた。
一階に降り、食堂の扉を開けた。そこには昨日と同じ場所にコレット、隣にノエラ、傍らにメイドのミレイユがいた。
「おはようございます」
「おはよう、今日は早いわね」
「おはようございます!エドガー」
朝の挨拶をしあったところで、ノエラが自分の隣をエドガーに勧めた。それにエドガーはやや驚いた。なんだか懐かれたように思えるが、その理由が全く思い浮かばない……。しかし素直に従い、隣に座った。コレットもそれにやや驚いた表情をしたが、何も言わず静観していた。
「今日でもう出るんですよね?」
ノエラがエドガーに聞く。エドガーはちらとコレットの方を盗み見た。彼女は無表情で紅茶を啜っていた。
「うん、まあ……。そうなるね」
「ちょっとだけ名残惜しいです。次はどこへ行くんですか?」
「そうだね……、どうしようかな……」
ノエラに聞かれて初めてエドガーは、全く次の行き先など考えていなかった、と思った。しかもすぐには思いつかない。頼りもない。放浪することになりそうだ。
再びエドガーはコレットを盗み見た。先ほどと全く同じ様子で、こちらの会話に関心すらないようだった。エドガーはコレットが、行き先が決まってないならいてもいい、と言うことを心の奥底で考えていた。実際にはその素振りはなく少し落胆した。
「まあ、どうにでもなるよ」
どうにでもなれ。と、自分に言い聞かせた……。
昨日と同じメニューの朝食を食べ、エドガーはコレットに切り出した。
「ええと、そのよかったら、外の方の明かりも取り替えてもいい……かな?」
「え、ええまあ、いいけれど……。なんだか申し訳ないわね」
コレットはエドガーのその申し込みに少し驚きつつも、承諾した。今日でもうお別れなのに、こんなギリギリまで屋敷のことをやってくれるのか。なんとなく、……なんとなく追い出すのは惜しい気がする。しばらく滞在を許したら、他にも色々やってくれそうな気がする。
しかしそんなことを提案するわけにもいかないので、少しだけ考えていた、問題が解決された屋敷についてのことは頭の中に押し込むことにした。
「よかった!泊めてもらった恩返しだから気にしないで」
コレットは、お人好しにそんな返事をするエドガーを見つめ、なんとなくシルバー・フェンリルがエドガーにこの町のこと、自分のことを教えた訳がほんの少しだけ分かったような気がした。
外は肌寒いが爽やかな風が穏やかに吹いていた。
晴れやかな空とは打って変わって、春だと言うのに雑草が枯れて乾涸びているのを、がさがさ踏みながらエドガーは自分の家の庭のことを思い出していた。
もともとは花などもなく伸びた枝を切るだけ、雑草を刈るだけ、くらいのパッとしない庭だったのを、エドガーは一念発起し、バラを筆頭に季節ごとに花を咲かす美しい庭に仕上げた。
他の家族たちは、エドガーの行動にも庭の様子にも口を出さなかったが、今までちっとも庭に出ていなかったのに、たまに彷徨くようになり、エドガーはそれに喜びを感じていたのを思い出した。
……ここから出発したら、もう家に帰ろうかな。
自宅の庭を思い出したら、途端に気になってしまった。通いのお手伝いさんには片手間でいいからと世話を頼んだが、暇がなく手付かずかもしれない。
庭のことも気になるし、どうせ他に行くあてもないのだから、本当に帰っていいかも知れない……。
そんなことを考えながらエドガーは、庭の隅の方にある風化しつつある木の倉庫に向かっていた。灯りを取り替えるために必要なはしごがここにあるのだ。
力を入れると壊れてしまいそうな、しかし建てつけの悪い倉庫の戸を引き、中を見た。目当てのはしごはすぐ目の前にあった。その他にも大体が古ぼけていて使えるかどうかわからないが、庭いじりに必要そうな用具は揃っているらしかった。
エドガーはとにかくはしごを引っ張り出すと、取り替えたい灯りの前に設置した。
はしごは木製で、ところどころ苔むしていて、ぐらぐらとなんとも頼りなさげで、おまけに昨日までの雨でしっとりと湿っていた。エドガーは不安を覚えつつも、他にないのだから仕方がないとはしごに登った。
「……そのはしご、大丈夫でしょうか?」
いつの間にやら外に出ていたメイドのソレーヌが声をかけた。
「え、ええ……。そんなには高くないし、大丈夫でしょう」
木が軋む嫌な音を聞かないふりをして、エドガーは自分にも言い聞かせるよう答えた。
「本当に?なんだか不安ね」
声の主にエドガーは若干驚いた。まさかコレットまで外に出てくるとは。
「別にそこまでしなくったっていいのだけど……」
「いやいや、大したことでもないから」
そういいつつエドガーは新しい灯りを取り付けるべく、はしごから少し身を乗り出した。
瞬間。
右足を置いていた上から2段目が鈍い音を立て、折れた。
「…………!!!」
右足首に激痛を感じる。エドガーはどうやら足から落ち、足首を折ったのではないかと思った……。
「ああ……。ソレーヌ、ドクターを呼びに行ってもらえる?」
悪い予感はあたるようで、なんとなくこうなるような気がしていたコレットは、痛みでうずくまっているエドガーに駆け寄り、ソレーヌに医者を呼ぶよう言った。
この町には医者がいるんだなあと痛みで若干朦朧としてきたエドガーは思った。
「とりあえず、屋敷の中に戻りましょう。……立てるかしら……」
「……なんとか。ごめん、支えてもらえる?」
「ええ」
エドガーはコレットの肩を借りながら、なんとか立ち上がり、片足でふたたび屋敷に戻った。
もし足が折れていたらそれなりに長い間、折れていなくてもある程度は置いてもらうしかないのではないだろうか……。
エドガーは隣のコレットの表情を見たが、いつものように無表情で、この状況をどう思っているかはわからなかった。ただ不愉快を顔に出していないから、それほど悪いようには考えていないようだった。
玄関から程近い応接間のソファに座らされたエドガーはぼうっと痛みの中、これもなにかしらの縁なのかななどと考えていた。
思いがけないことが起きて、最低でも今日明日はここから出て、歩きで旅をすることはできないだろう。するともうしばらくはこの屋敷にお世話になるかも知れない。もしかしたら、追い出されるかも知れないが……。
先のことは全くわからない。ただ今はありのままを受け入れるしかないとエドガーは悟った。そのうち、この足の怪我にも意味があると気がつくのかも知れないのだから。
骸骨メイドの説明
ロゼリー
初老くらいの女性。もちろんこの中で最年長かつ1番古株。そのため、メイド達の総括をしている。最近は身体の風化がひどく、あんまり長い時間働くことができないでいる。
ミレイユ
壮年くらいの女性。てきぱきとした仕事さばきと、誰に対してもはっきりものを言うことから、この中では4番目に来たにも関わらず、副リーダーを担っている。
ソレーヌ
壮年くらいの女性。優しげでおっとりしているが、仕事はきっちりこなす。屋敷には2番目に来ており、みんなに信頼を寄せられている。お菓子作りの腕前はダントツで、今でも腕に磨きをかけている。
エーヴ
やや若めの女性。こちらも優しげでおっとりしているが、ソレーヌとは違いぼんやりとした印象を受ける。食器を磨いたり、窓を拭いたり、掃除は好きだが、整理整頓は苦手。
ジョスリーヌ
若く元気のいい女性。若い娘らしい溌剌さがある。この中では3番目に来ておりそこそこ古参だが、いつまでもフレッシュな様子。大抵のことを器用にこなす。
ドゥニーズ
ジョスリーヌと同年代くらいの女性。この中では1番最後に来た。普段はおとなしいが、ややおっちょこちょいで失敗すると慌ててしまい、よく怪我をしがち。