双頭の獣
性描写が含まれますので、苦手な方・義務教育中の方はご遠慮下さい。
『やっぱバレてた。最悪』
このメールの返信を、一日遅れでシノから着信した時。
俺は背中から震度5の揺れに襲われていた。
あまりの揺れで、ベッドから一望できる夜景は、シャッターが開きっぱなしの写真のように無数の光の線になり、正しい遠景を網膜に焼き付けることができない。
ベッドがきしむ音、シーツが擦れる音、肌がぶつかる音、潮が満ちるように緩やかに大きくなっていく水音。
その全ての音が、揺れと同時に身体に反響するたびに、うつ伏せになった頭上で縛られた両手首に痛みが走る。
一定の律動で激しく、ぐるぐると廻る視界と、自分の荒い息音のせいで、携帯の着信音はひどく静寂に感じた。
「俺が見てやるよ」
突然振動は止み、ベッドサイドテーブルの携帯に、背中から手が伸びる。
「まさか浮気なんてしてないだろな?」
震源の男が、俺を携帯を手に取り開ける。
先程までの余韻は微塵も感じさせず、余裕の声でニヤつく三木を、肩越しに振り返る。
自分の肩と背中が、小さな内出血の痕でまだらになっていた。
「するわけないじゃん」
だって、付き合ってもいない。
三木とは対照的に、俺はさっきまでの余震が身体から離れず、息が上がって、声がかすれている。
「菅原 志乃?」
「同級生」
「ああ。隣のクラスの奴か。えっと――、『問題ないだろ。放っとけばいいよ』だってさ。……何が問題ないんだ?」
やっと身体から波紋が消え、何とか普通に喋れるようになった。
「この前言ってた、キングの買い物……キングのペットがさ――、俺のクラスの新しい副担任だったんだよ」
「まじで? そりゃちょっとひくな――」
三木は興味無さそうに驚いてから、携帯を閉じて、枕元に投げた。
今朝早くから車に連れ込まれ、日中は殆んどを船の上で過ごした。
三木の父親が所有するというクルーザーに、三木の兄とその友達と俺達の4人で乗り込み、海へ出た。
再び身体の内部から、こだまし始めた揺れと、徐々に大きさを増すぴちゃぴちゃという水音を感じながら、昼間見た海面のうねりを思い出す。
一定のリズムで身体ごと大きく揺さ振る、あの波にのまれている様だと思った。
その律動は、脳の奥まで反響し、正常な思考を奪う。
自分は今何をしているのだろうと、考えさせないようにする。
何のために息をして、何を思い描いていたのか、思い出させないようにする。
そんな事を考えていたら日が暮れる、楽しければいいじゃないかと、失笑するもう一人の自分が現れる。
そうやって揺れに乗じて、少しずつ劇薬を脳に染み込まされる。
楽しくて、美味しくて、気持ち良くて、もっと気持ち良くなるために少し苦しくて、そうやって一日が終わっていけばいい。そんな日常に明け暮れて、波に身を任せて、侵食されていけばいいと思わせる。
純粋に心から、本当に楽しい一日だったと思う。
クルージングの後、三木のよく使う、このホテルの部屋の風呂に二人で入ってから、町へ出た。車で名所と呼ばれる場所をドライブした後、ずっと前からねだっていた時計を買ってもらった。
それから、このホテルの最上階のレストランでフルコースを食べた。あの時窓から眺めた夜景は、今とは違い、ちゃんと自分の網膜に静かに形をとどめていた事を思い出す。
縦揺れは、だんだん四肢の先端にまで伝わり、全身で共鳴して、一つの波長をどんどん大きくしていく。
拘束された両手首が、更に鈍痛を増す。
震度3――5――6――。
口から全ての空気と熱を吐き出して、真空になった身体からは、乾いた短い吐息しか出てこない。
自分以外の別の男の声が、激しい息遣いの合間を割って、口から漏れ出す。
苦しさと快楽を含ませた、女のような艶めかしい喘ぎ声。
教室にいれば学校モード、客の隣にいれば接待モード、男と寝る時はベッドモードの自分に、自動で切り替わる。
アンドロイドの様に都合良く、場面に応じて自分の性格が切り替わるように身体を造り替えてくれた、今までの幾人もの男に、俺は感謝している。
どれが本当の自分なのかは分からないが、少なくとも今妖艶な声をあげている自分は、本当の俺では無いと思いたい。
もう一人のベッドモードの俺は、すごい速さで、麻痺した身体の隅々まで染み渡り、四肢の自由を俺から奪い取る。
もっと早く登場してくれていれば、よかったのに。
先程から、もう何回も意識が飛ぶ寸前の状態を体感した。いっそ意識を無くした方が楽だと思うのに、三木がそうもさせてくれない。
ベッドモードじゃない俺は、刺激に対して強く造られていないし、そこから快楽を見い出す事も難しい。案外デリケートなのだ。
もう一人の自分に、ほぼ全ての器官を奪われ、眼球を動かして視界を移動させる自由だけが残った。
仕事熱心なもう一人の俺は、体の自由を手に入れた事を喜びながら、首元にキスを繰り返す背中の男を喜ばせようと、言葉を発する。
「んんっ……やぁ。……おかしくなる……許してぇ」
煽る様に、わざと羞恥に頬を熱くして、独り言のように呟く。
体が繋がっているせいで、相手の興奮が手に取る様に伝わってくる。
「ん?何?聞こえない」
わざとらしく耳元に唇を付けて、低く囁く三木の声を聞き、ベッドモードの俺は更に喜ぶ。
「ん――。……三木さんの意地悪」
聞こえないくらいの言葉を残し、さっき奪い取ったばかりの俺の表情を操作して、目を潤ませた、泣きそうな顔を演じさせる。
「もっと、はっきり言ってくれないと分からないよ」
三木が笑いながら、また首に唇を落とす。チクリとした小さな痛みに、また一つ所有権の証が、身体に刻み込まれたのを感じる。
もう一人の俺と、背中で存在を感じる男の鼓動は徐々に高まっていき、自分の身体の熱で骨から溶かされそうな恐怖を覚える。
許された自由でもう一度、窓に目をやる。
白い輪郭だけで、下半身が一つの双頭の獣の姿が、光の筋を映し出す黒いガラスに重なって見える。
ベッドに這いつくばり、取り憑かれたように獲物にむさぼり付いている。
あの獲物は俺自身か。
違う。俺はむさぼり付いている方か。
双頭の獣に食されている姿の見えない獲物は、俺が目を背けたい、忘れたいものの様でもあり、触れる事さえ出来ない、尊いものでもある様に感じる。そして、それはもう残りが少ないような気がした。
獣の動きが激しくなるほどに、俺の神経は冷静さを増し、それを通り越して深く沈み、冷たく凍っていく。
突然振動が止まり、双頭の獣の身体が、二匹に別れたと思った途端、視界がひっくり返った。
明るすぎる照明の中に、好きでも嫌いでも無い、男の顔が現れる。
三木は、俺を仰向けにさせて、涙とよだれでぐちゃぐちゃになった顔を丁寧に舐めてくれた。
ベッドモードの俺は、一匹だった身体が離れてしまった事をひどく悲しんだ。
仕事しよ――ぜ! ユーキ、テメ――。と侵食されつつある俺の脳の中で、悪態をつき、三木の足に自分の足を誘うように絡める。
三木は面白そうに笑うと、俺の右ひざを折り曲げ、胸の辺りまで持ち上げた。
「柔らかい身体だな……」
胸元にある自分の下肢が、血管が透けるほど白い上に、汗でヌメヌメとしていて生々しかった。まるで、深海魚の尾ひれのように。
「どうしてほしい? ユーキが自分でおねだりしてごらん」
優しく麻酔のような言葉を、耳に直接吹き込まれる。
脳は瞬時に麻痺して、もうベッドモードの自分と、そうじゃない自分との区別がつかない。
俺はベッドモードの方だったかもしれないと、思い始める。
さあ、今からが本当の夜だと、身体がうずき始める。
俺の声なのか、もう一人の自分の声なのかすら分からない声を、自分では無い者の意思で口に出す。
そいつは目を閉じた俺の身体の中によく反響するように、ゆっくりとかすれた声で、嘔気のする、病んだ言葉を選び、吐く。
「三木さん……ユーキのこと、もっと愛して、めちゃくちゃにして……壊して……」
笑う口元。
「おおせのとおりに」
初濡れ場にて、直接的な表現は避けました。というか逃げました。それでもいやらしさが伝わるように努力したのですが……。口の中がジャリジャリする……。
人にいやらしさを伝えようとしてる自分の腐食ぶりに呆れるばかりの56です。