茨の海
目の前にある大きな空瓶を眺めていた。
ガラスに映る自分の顔を、見える方の目で覗き込んだ。
重たい鎖の上に映る右目の眼帯と、少し腫れて古血が固まる口角が痛々しい。
ネガフィルムのように淡色に映し出される世界で、首の周りの鎖状の擦り傷や顔の青い内出血の痕が見えないせいで、まだまともに自分の顔が見られると思った。
高校に行くのをやめて、三木の家に住むようになって一ヶ月程が過ぎた。
身体には前の傷や痣が消える前に、日々新たな痕が増えていく。
中には内股の傷のように、もう一生消えずに自分の身体に刻み込まれているものもある。
その傷は俺の内腿の柔らかい皮膚をS字状に引き攣らせ、飼い主のイニシャルを彫っている。この刻印のために皮膚を裂かれてしばらくは、歩く事さえ困難だったが、幸いというべきなのか、それを刻んだ飼い主自身が医者の卵であったため、病院でされるのと同じ処置を受け、一週間もしない内に傷は塞がった。
それでもまだ時折痛む事がある。
三木の暴行はベッドの中でも、それ以外でも日に日に酷くなっていた。
特に先週北川が家を訪れて帰った後は、色目を使ったなどと言い掛かりをつけて乱蹴された。それ以来俺を痛めつける事に興奮を覚えたのか、台所やリビングの床などに急に押し倒されて無理やり犯される事が多くなった。最初は逃げたりやめて欲しいと懇願したりしていたが、それが逆に相手の興奮を煽る事に気づいて、今ではただ災難が身体の上を過ぎ去るのを目を瞑って待っている事にした。散々蹴ったり殴ったりして、俺が意識を失いかけたところで服を脱がされる。そうかと思えば、昨日の夜の様に妙に優しくベッドで抱いて、耳元で愛してるなどと囁いたりする。
三木に対する恨みや憎しみは全く無かった。
それどころか、もう一人の自分を見ているようで、この人は俺がいなくちゃ駄目なんだという使命感のような感情までも持つようになった。
兄の龍斗もこんな気持ちだったのだろうかと思う。
今はただ自分がいつか入ることになる大きな空の標本ビンを毎日のように見つめている。
手を触れるとガラスのヒンヤリとした感触が、異世界への通じている事を思わせる。
ここへ早く入りたい。
いつからか、そう思うようになっていた。
あんなに気味悪く思っていた、標本ビンだらけの書斎が、今では俺の唯一落ち着く場所になっている。
壁一面に飾られたガラスの向こうから沢山の深海の生き物が自分を静かに見つめている。
一日の大半がこの静の時間に費やされる。
一瞬、隣に置いてあるビンの中の白い足の指が、自分を誘うようにピクリと動いた気がして一歩下がった。
最近頻繁にこういう事が起こる。
自分の標本ビンの隣にある三木の弟の足の標本であったり、他のグロテスクな形の深海魚達が、待ちくたびれて自分を迎えに来るようにざわめき、ガラスの向こうの世界に引き摺り込まれそうになる。
毎日の様に三木に飲まされる身体が火の様に火照るよく分からない薬と、精神科の薬との飲み合わせが悪いために見える幻覚じゃないかと、自分で勝手に診断している。
薬漬けの脳ミソでは、幻覚が病気のせいなのか薬のせいなのかよく分からない。
もしかしたら幻覚なんかではないようにも思う。
急にゾクリと背筋に違和感が走る。
昨日腕に出来たばかりの煙草を押し付けられた火傷をさすりながら、急に冷えだした身体を丸めて部屋を出た。
夕方になっても外は明るく蒸し暑い。
顔をしかめて玄関から少し歩き、門の横にある郵便受けに向かう。やはり太陽の下は苦手だ、早くさっきの部屋に帰りたい。
郵便受けを開けて夕刊と何通かの封筒を取り出した。三木宛のダイレクトメールに目を通していると、自分の数メートル先で人の気配がした。
閑静な住宅街で人に会うのは珍しい。
顔を上げると門の外に男が立って、こちらを食入る様に見つめていた。
クタクタの安そうなスーツを着て、暗色の短髪の男が眉をひそめている顔を、いつもの半分の視界で確認したが、しばらく誰だか分からなかった。
DEEP BLUEの個室で、同じ表情で見つめられた事があったと気付き、やっと自分の副担任だった男の顔と重なった。
「黛……」
懐かしい響きと声に、一ヶ月とは思えないほど昔のように思う過去が呼び覚まされた。
俺は自分が本気で好きになった人の顔も忘れてしまうくらい、おかしくなってるんだと知った。
今でも毎晩、隠れて好きだった人の声を聞いている。
そのために古い携帯を二三日に一度ちゃんと充電している。
自分を下の名前で呼ぶ愛しい人の声と、いつかの温かい唇の感触だけで、崖っぷちギリギリの平常心を何とか繋ぎ止めている。
二三言、言葉を交し、歩いて一番近い喫茶店に二人で行くことにした。
椎名を家に上げる訳にいかず、とにかく腕の火傷や青痣を隠すために真夏にパーカーを着て、鍵も掛けずに家を飛び出した。右目の眼帯と首や頬が紫色に染まった自分の姿を玄関の鏡に映して悲しくなった。 こんな姿を好きな人の前にさらすのは辛い。
どこかで幸せに暮らしていると思っていて欲しかった。
家の門から外に出るのが一ヶ月振りなので、やたらと挙動不審に陥った。
運よく喫茶店は客が一人もおらず、夜はバーになるだろうと思われる暗くて落ち着いた雰囲気だった。それでもカウンターの中でコーヒーカップを拭くマスターの目が気になったし、棚を閉めるちょっとした音にも身体がビクリと反応した。そんな俺を椎名が眉をしかめたままジッと見下ろしていた。
一度席に着いたが、極度の緊張で気持ち悪くなりトイレへ駆け込んで、たいして食べていない昼食を全て吐いた。
「高校……本当にやめるのか?」
トイレから帰って席に着くと、俺を驚かせまいと静かに問いかけた椎名に、コクリと頷いた。
最初に目を合わせてから一度も椎名の顔を見ていない。見られている視線は感じるが、俯いてコーヒーカップを見つめたまま、暗闇が広がる左目に神経を集中させた。
「男同士の方が話しやすいだろうって牧内先生も言ってくれて、俺が直接渡すために今日寄ったんだ」
そう言いながら、鞄の中からA4サイズの茶封筒を取り出して、テーブルの上に置いた。
退学届けは一度前住んでいたのマンションに送付してもらってから、三木がマンションの部屋まで取りに行くと言っていた。
マンションの部屋は最低限の物以外は殆んど放ったままにして出てきた。一応今月分までは家賃が引き落とされる予定だが、その後は残してきた荷物を全て処分して引き払う事になっている。
まさか退学届けを直接渡しに来るとは予想外だ。
どうやって俺の居場所が分かったのだろう。
携帯も解約したし、誰にも事情を話さず三木の家に住むようになった。
どうやって居場所を知ったのか聞きたい衝動に駆られたが、今は出来るだけ何も話さず目の前の退学届けを受け取りたかった。
「他の先生とも相談して、黛は勉強が出来るから高卒認定くらいはいつでも取れるだろうし、お前が本当に望んでるならこれ、渡すつもりで来たんだ」
一ヶ月前は他の生徒より少しは特別な関係に思えた椎名が、今では厳しい顔つきの副担任以外の何者でも無いように感じた。
それでも、元気でいてくれた事に安心した。
飽きて消されずに済んでいるということは、キングに椎名の気持ちが通じてうまくいっているのだろうか。
椎名は俺の反応を待っていたが、何も話す事がないので暇を持て余した。
「何か言ってくれないか? ……お前、好きな奴と一緒に住むって言ってなかったか? お前の事をそんなひどい姿にする奴が……本当に好きなのか?」
何か言おうとしたが言葉が出なかった。
一刻も早くあの部屋へ帰りたい。
あの深海のように暗くて静かな部屋の、綺麗なガラス瓶のなかへ。
今すぐ椎名の目の前から消え去りたい。
こんな姿をさらしていたくない。
椎名の腕がこちらに伸びてきて、眼帯に触れようとした。
僅かに震える指が見えない左目に届きそうになった時、ちょうど俺の携帯が震えた。
もちろん相手は三木で、このタイミングでの着信が、どこかで監視されているのではないかという恐怖を植付けた。
テーブルの上で震えてる携帯を慌ててつかみ、急いで耳にあてる。
「もしもし……」
『何で家電出ないんだよ。今どこだ?』
「ご、ごめん。 夕刊取りに行ってて気付かなかった……」
『二分以上鳴らしたんだぞ? まあいい。もう家に着くから話は帰ってからだ』
まずいことになった。
どうしてこんな時に限って早く帰ってくるんだ。
酷い怯えように椎名が言葉を失っている。
また動悸が始まって息が荒くなる。
慌てて携帯を閉じ、勢いよく立ち上がり、店を出ようとドアに向かう。
「黛! その……一緒に住んでる奴に会わせてくれないか?」
「そんなこと……そんなことしたら……殺される」
今までで一二を争うぐらい沈めたりました……。
まあ最後の山越えなので、次回が頂上予定!!
山越えと言えば、16は毎日キャンプ気分の全寮制高校に通っていたのですが、その時に寝言で
「わかった!わかった!! 牛乳買ってきたらいいんやろ!? ……あの山越えて」って言った奴がいます。
ええ。衝撃でした。
何しろ山越えて牛乳の買出しを強要された事が無かったので……。
この小説もあと一歩なので頑張ります!(#゜Д゜)アノヤマコエテ!!
今日は午後からお出掛け予定なので、出掛けるまで次々回分の執筆に励みます。
さあ、予定だらけの今週。週末更新出来るか!?
私が一番知りてーー(゜∀゜ )ドアホゥ!