サヨナラ放送室
授業が終わって生徒がまばらになった校舎と、陸上部が動き始めた運動場に目をやる。
ここからでは真下の自転車置き場は見えない。
ざらつく手すりに視線を移すと、水色に塗装されている鉄の上に靴跡があった。
シノのがつけた靴跡だろうか。
どんな気持ちでこの手すりに足をかけて乗り越えたのだろう。
今の俺には、この手すりを乗り越えてここから飛んだら自由になれる気がした。この汚れた身体を脱ぎ捨てて、暗い闇から抜け出せるような気がした。
「ユーキはここへ戻ってくるよ。お前の居場所はここだからな」
一晩中ベッドに繋がれていた手錠を外しながら三木は「学校行っておいで」と言った。
「戻って来なければ、お前の兄弟やその周りにユーキの事教えてあげるだけだし。そうなってでも帰りたい場所があるなら、ここには戻って来なくていいよ」
逃げると思わないのかという自分の質問に、三木はいつもの笑顔でそう答えた。
短い付き合いなのに、自分の事をよく理解していると思った。
全てを忘れたいと居場所を探していた自分には、あの豪邸に帰らない理由が思いつかなかった。
制服の襟の下に隠れている太い鎖に手をやる。
屋上の入り口の錆びたドアが開く音がした。
振り返ると野木だった。
シノの事があって以来、昼休みは一緒にいたりもするが最低限の会話を交すだけで、シノの事も病院で俺が目にした事も話さずにいる。
「お前も俺の前から消えんだな……」
立ち止まってぼんやりと俺の顔を見つめたと思ったら、いきなり喋りだした。
「何? 俺はシノみたいにここから飛んだりしないよ?」
あれ以来、初めて野木の前でシノの名前を口にした。
「でも消えるんだろ?」
さすがだな――と感心した。確かシノと言い争いをした時も野木は俺の異変に気付いていた。
「止めるのか?」
「止めれないんだろ? 俺じゃあ。 シノも止めれなかった」
野木の瞳が宙をさまよい、寂しそうな表情になったのを見て、自分のためにそんな顔をしてくれる親友を心から愛しく思った。
屋上を後にした俺は、椎名に会いに行った。
メールで放送室にいると聞いたので二階に向う。
放送室のドアをノックして中に入ると、椎名が放送機材に背を向けて、教室と同じ生徒用の机でプリントを広げていた。
「居残りしてる生徒みたいだね」
「ここが気に入ってるんだ。落ち着くし、好きな音楽が聴ける」
放課後の放送室は窓から夕日が射し込み、クラシックが流れているのにとても静かで、椎名のプライベート空間と化していた。
「黛が会計してくれないせいで、実行委員会がまわらないんだ」
そう嫌味を言いながら、プリントをそろえて机の上でトントンとやる。
座っている椎名に上から覆いかぶさるようにして、いきなり唇を重ねた。
椎名とキスをするのは三回目だ。
最初は和斗に見せるための嘘のキス。だから二回目が本当の最初のキスといえる。
そして三回目のこのキスが最後のキスだ。
夕日でオレンジ色に染まる好きな人の髪の毛を、そっと掌で撫でた。少し硬い髪の毛からでも椎名の温もりを感じる。
全部欲しい。この髪も、唇も、肩も、身体も、声も、もちろん心も、全部。
唇を触れるだけのキスなのに、何度も角度を変えて唇を動かして身体の感覚全てを使ってこの感触を脳に憶えこませる。
この瞬間を一生忘れないくらい堪能して、この記憶だけでこれから生きていく。
先生ありがとう。
この思い出だけで、俺はこれから茨の海を歩いていける。
唇を離して椎名の表情を確認すると、特に驚きもせず俺を見上げていた。
「どうした、急に」
微笑む椎名の肩に顔をうずめる。
「ねえ、先生。俺と一緒に逃げない? 逃避行ってやつ。俺こう見えてちゃんと貯金してるから、結構遠くまでいけると思うんだよね――東南アジアとか余裕だよ?」
どうしてこうも現実味の無い夢ばかり俺はいつも見るのだろう。
「薬はちゃんと飲めてるか? 疲れた顔してるけど」
「そんなことないよ。先生の方が疲れてんじゃん」
顔を上げて椎名の顔を至近距離から眺める。
少し痩せた気がする。初めて会った時の汚れの無い明るさに影が射しているように思えた。
「キングってどんな人? 先生にひどい事したりしない?」
また椎名の顔の隣に頭をつけて聞く。
俺だったら、椎名にこんな疲れた顔絶対させないのに。
怖い気持ちと、お互い干渉しないと約束した事もあって、今まで聞けずにいたキングの事を最後のチャンスだと思って口にした。
「そんなこと、お前が心配する事じゃない」
「でも、飽きられたら殺されちゃうんだよ?」
その言葉は自分自身に言い聞かせているように思えた。
飽きられていつか殺されるかもしれないのは俺も同じだ。
人に飼われるという事を体験して、初めて椎名の身が本当に心配になった。
「それで逃げようなんて言ってくれたのか?」
「うん……。それに先生と一緒にいたいし……」
最後にさりげなくでいいから、ちゃんと告白しておきたかった。
「殺したりしないよ。キングは……」
ポンポンと好きな人の掌が自分の頭で弾む。
「でも今までの奴等だって……」
「あの人だって……変われるさ」
何でそんなにキングを庇うんだよ。そう言おうと顔をあげると、椎名が見た事も無い照れ臭そうな表情をしていた。
その揺れる瞳を見て、ああ、この人はキングの事が本気で好きなんだと分かった。
相手に気付かれぬまま告白して失恋した。
どうか先生の好きな人が三木のような男ではありませんように。
そして相手も椎名の事を好きになって、二人でずっと幸せでいてほしいと切に願った。
俺の好きな人を幸せにできるのは、もうキングだけなんだ。
俺じゃない。
俺に椎名は救えない。
--あんたに俺は救えない。自分の人生も守れないような奴に、俺の人生をどうこうされたくない。俺の心配より、自分の心配しろって--
いつか副担任相手に吐いた暴言が、そのまま俺自身に返って来た。
いつのまにか音楽が止まって、外から運動部の掛け声だけが小さく響いている。
「先生。俺さ、好きな人と一緒に住む事にしたんだ」
身体を離して本題を伝えた。
「そ、そうなのか。どんな人なんだ? いい人か?」
「うん。いい人だよ。俺の客だった人……」
最後の会話で出来るだけ嘘をつきたくなかったので、俯いて小さく答えた。
「そうか。……まあ、その方が黛も精神的にも落ち着くかもしれないな……学校では俺が見れるけど、家に帰ったら一人ってのも心配してたんだ。誰かと一緒の方が安心だ」
「うん。それ言いに来ただけ。じゃあ、俺行くよ。仕事の邪魔だし」
嘘でも椎名を安心させられた事はよかったと思った。
ドアに向かおうとしたら、左手を握られた。
「もし、何かあったら相談しろよ。ユキヤのためなら俺は何でもする。それだけは絶対に忘れないでほしい」
強い眼差しに吸い込まれそうになる。
どうしてそんな事言うんだよ。
ただの生徒にどうしてそこまで言えるんだよ。
何で名前で呼んだりするんだ。
電話で言ってくれたら録音できたのに。
最後の最後にそんな事言われたら、寂しくなるだろ。
「先生……さっきの話……」
逃げようって言った話。一緒にいたいって言った話。
あれ全部……
「全部……」
本当だから。
本当に先生と逃げたい。一緒にいたい。
先生……大好きだよ。
「冗談だから……。さようなら」
そう言って、この世で最後の温もりを手放した。
二日ぶりの更新でございます。
今日も何なのこれ?な文章を皆様のもとへお届けいたします。オラアァ-Σ(゜∀゜ノ)ノ─ッ!イッケェェェ--!!!
明日からちょい痛い内容になる予定……。
目指せ来週始め完結!!
本当は今週始め完結って言ってたけど、何の躊躇も無く変更致しました(*゜∀゜*)オイコラ!
あともう少しお付き合い下さいませ(人'д`o)