深海魚の夢
「では、今回は前とは別の薬を出しておくから。急に止めたりしないようにね。あと――眠る時の薬も必要だよね?」
パソコンに何かを入力しながら、白衣を着た初老の男が優しく尋ねる。
シノの手術が成功して一命を取り留めたという連絡が椎名の携帯に入ってから、シノの命同様、俺も何とか手放しかけた落ち着きを蜘蛛の糸一本で取り戻した。
しかし病院の駐車場の車内で子供のように泣きじゃくったせいで、精神的にも体力的にも疲労が激しく、この小さな精神科の病院に着いた後も放心状態だ。
「黛君?」という声に驚き木村医師の顔を見上げる。
「今日は一人で来たのかい?」
笑みを残しながら、またパソコンに向き直る。
「あ。えっと――。学校の先生に連れて来てもらいました」
魂が抜けきったような自分の声を聞いている。
「そうか。その先生とちょっと二人で話をしたいんだが……構わないかな?」
何を話すのだろうと考えたが、もうどうでも良くなって「はあ」とだけ言った。
内科だったら余命宣告あたりだろうが、ここは精神科なのでそれは無いだろう。
「先生と二人で話したいって」
待合室で座っていた椎名に言うと、立ち上がり俺の肩に手を置いて代わりに座るように促された。
椎名が診察室に入ってから優に十五分が過ぎた。
患者本人である自分より時間がかかるというのはどういう事なんだろう。
後ろの壁にもたれかかり携帯を取り出す。
携帯の使用禁止と大きく張り紙がしてある前で堂々と電源を入れた。
小さな病院の待合室は診察時間終了十分前で受付の看護士も含めて、俺以外誰もいない。
メールが来ていないかチェックすると、一件の受信が表示された。
『今週末どこ行きたい?』
送信者の三木という名前を見て、ああいたな――そんな奴、とため息をつく。
全てを忘れるためなら、週末派手に遊ぶのも悪くないな。
何も返信しないまま電源を切ると同時に、診察室のドアが開き「ありがとうございました」という椎名の声が聞こえた。
会計を済ませる間も椎名は特にいつもと変わらない様子だった。
俺も診察室でどんな話をしたのか聞く気も全く無かった。だいたい本人に知られたくない会話だから俺を遠ざけたのに、俺が知ったら意味が無い。
病院のドアを開けて外に出ると、駐車場から駆けてくる姿に足が止まる。
厄日だ。
診察時間ギリギリに駆け込んで来ようとする少年も足を止めた。
「ゆき兄……」
どうしてこのタイミングなんだ。
神様も友達が自殺未遂を起こした日くらいは、俺をそっとしておいてくれるくらいの気遣いがあってもいいと思う。
駆け寄ってきた少年は、俺の両肩に手をやって不安いっぱいの顔で覗きこむ。
「やっぱり体調悪いの? 目真っ赤だよ? 木村先生なんか言ってた?」
一方的な弟の質問攻めに、俺は溜め息をついて隣を通り過ぎようとする。
「どうしてコイツがいるんだよ!」
質問事項がが終わったと思ったら、次は椎名の姿を見つけて怒り始めた。
和斗はやはりまだ情緒不安定だ。だからここにいるのだけど……。
それが自分のせいであると分かっていても、その記憶からは目を背けたい。
「あなたも、恥ずかしくないんですか? こんなに精神的に弱っている人につけ込んで……金で身体を買ったりして!」
「おい!やめろ! この人は関係ないだろ!」
困った顔の椎名に詰め寄る和斗の肩をつかんで、こっちに体を向けさせる。
お前の相手は俺だろ、和斗。
「どうしてこんな奴庇うんだよ! 兄さん!」
こんな質問一つ、深く受け止めてしまいまともに答える事が出来なかった。
和斗より俺の方がずっと重症だ。
「もしかして……好きなの?」
和斗の声が急に神妙さを増す。
あまりの勘繰りの良さに息を呑む。
「そうだよ! 好きで好きで仕方ないから、無理言って隣にいてもらってるんだ。悪いか?」
こんな形で椎名への気持ちをカミングアウトするとは思ってもみなかった。
横目で椎名の表情を見上げたが、前回のシチュエーション同様この状況を逃れるための嘘だと思っているのか、無表情だ。
「……嘘だ。だって……だってゆき兄は、龍斗兄さんの事まだ……」
「おい」と椎名が止める前に、和斗の首元を掴んで壁に突き飛ばしていた。
椎名の前でそれ以上言ったら殺してやる。
和斗が重心を崩してよろめきながら後ろに下がり、壁に背中をぶつける。
車のドアが閉まる音がしたので、駐車場に目をやると、この世で一番会いたくない男が、見覚えのある車の外に立っている。
和斗がこんな所まで自転車や徒歩で来るはずが無い。誰かに車で送ってもらうに決まってる。その誰かを予想するぐらいの事が何故今まで出来なかったんだろう。
「和斗。お前とはもう家族でも兄弟でも無い。戸籍上も、もうそうなってる。だから俺に関わらずに、頼むからさっさと消えてくれ」
怒鳴る気力も無く淡々と放った後、立ち止まってこちらを見ている男から目をそらしたまま、椎名の車まで足を速める。
「いいのか?」
「さっさと出してよ」
低いエンジン音が唸りだす。
疲れきった体に車の振動が心地よく、エンジン音が止んで、初めて自分が眠っていたのだと気付いた。
「ちょっと待ってろ」と言い残し、椎名は車から降りて『阿津野』と看板の出た、見るからに高級そうな日本料亭の門をくぐって中へ入って行った。
しばらくして出てきた椎名の手には、見舞いの時に持ってきた物と同じビニール袋が二つかかっていた。
携帯で誰かと話している。相手はキングだろうか。
そう思いながらまた目を閉じた。
自分の部屋に着いて、椎名の買ってくれた阿津野の弁当を二人で食べた。
食欲が無く食べ物を口にする事自体苦痛だったが、食べない訳にもいかず、たいした会話も交さないまま無理やり口に詰め込んだ。
好きな人との急接近に普通なら天にも上るくらい浮かれるのだろうが、俺の場合、今日は今すぐベッドに直行したいくらい疲れているし、浮かれた分だけ後で自分を呪う事になるので複雑だった。
食後に今日貰ったばかりの薬を導眠剤も含めて何種類か飲む。どうやらこの行為を確認するために部屋に上がりこんだらしい椎名は、薬の種類と個数を確認した後ジッと隣で俺を見つめていた。
どうしても俺が寝るまでいる、と言い出した椎名を放っておきシャワーを浴びる事にした。
髪の毛をバスタオルで拭きながら部屋に戻ると、片膝を立ててテレビを見ている椎名の背中が目に入って、手を止めた。
自分の部屋で好きな人がテレビを見ている。その背中を眺めている。この光景が、こんな自分が普通だと思える日常がきたら、どんなに幸せだろう。
「少しは疲れ取れたか?」
「……うん」
振り返った椎名に今日初めてと思える微笑を返した。
こんな会話が普通になったらどんなに幸せだろう。
この人が普通に隣にいる生活はどんなに楽しいものだろう。
その日常が自分にとってどれだけ手の届かない尊いものかという考えに及ぶ前に、思考を停止できたのは食後の薬が効いてきた証拠だろうか。
「もう寝ろ。今日はいろいろあったしな」と言われ、時計を見るとまだ十時前だった。
シャワーのせいで先程までの眠気が飛び、絶対まだ寝れないと思ったが、自分がベッドに入らない限り椎名が帰らないと分かっているため、渋々眼鏡を外してベッドに横になる。
「そんなに見られたら絶対寝れない」
子供を寝かしつけるかのように俺の横に腰を下ろし、見下ろしている。
「鍵外からかけて、郵便受けに放り込んどくからな」
椎名が帰る時の話をしたので、急にズキリと気持ちが揺れた。
「ねえ、先生。先生ってどんな人が好みなの?」
「は?」
他愛の無い話で胸のズキリを落ち着かせる。
「例えばさ――教え子と付き合うとかはダメなの?」
「ん? まあな――。高校生とは教育上問題大有りだな」
やっぱりダメか。
「じゃあ、教え子じゃなかったら――どんな人がいい? 美人でスタイル良くてモデルみたいな女?」
「……さあな。あんまり考えた事ないけど……」
「もし俺が、教え子じゃなくて、男じゃなくて、あと五歳年いってて、美人でスタイルが良いモデルだったら、俺と付き合う?」
自分でも訳が分からない質問に「なんだそれ?」と大好きな笑顔が返って来る。
「あっ、でも中身が俺のままじゃ性格悪いからダメか……。じゃあ俺が、教え子じゃなくて、二十歳過ぎてて、性格も良くて、先生の好みのタイプで、更にモデルの女だったら、俺の事好きになる?」
幸せだろうな、そうなったら。
でもそれじゃあ、もう俺じゃないもんな。
「薬が効いてるみたいで良かった……」
椎名は目を細めてながら、俺の濡れた前髪を指で掬う。前髪の向こうに覗いていた好きな人の優しい表情が少し近くなった。
あの瞳にいつも俺が映っていたらどれだけ幸せだろう。
深海魚が夢を見ている。
絶対に瞳に映すことの無い、明るい海面を。
薬が作り出した、みなもの向こうに映る青い空の幻影を。
それでもいい。
目が覚めた後、この反動で身体がどれだけ深く暗海に沈み込んだとしても。
今だけでいい。
今だけ夢を見させてほしい。
こんな時に限って薬の効きが抜群によく、瞼の重さに耐えれない自分がいる。
身体が海面すれすれをプカプカ浮いてるかのように揺れて気持ちがいい。
自分の中だけで響いているのか、口に出しているのかも分からない声でつぶやく。
俺が、教え子じゃなくて……高校生じゃなくて……男じゃなくて……
……身体売ってなくて……こんなどうしようもない性格じゃなくて……
……先生が……キングの買い物じゃなかったら……
そしたら……そしたら、俺の事好きになってくれる?
そしたら……目の前の俺にキスしてくれる?
いつのまにか繋がれていた左手が僅かに強く握られた。
――そうじゃなくても、好きになってる――
そんな幻聴と共に、唇に柔らかい温もりが落ちてくる。
――おやすみ。ユキヤ――
宝物である携帯のボイスメモが一度再生され
小さな金属音を合図に
夢が終わる。
ちょっと甘い話書いてると、口がジャリジャリする―('・ ω・`)モキュン!
次は浮き上がってこないくらい沈めてやるソイヤ━( p`д´)q━!!
いい加減にしろよ、自分。
も―病気だ。これ。
朝から人様のBL小説を拝読しておりましたら、運悪くバッドエンド。ってか好きな人が死んじゃう話で、しばらく自分も小説書けないくらい沈みました……(;゜д゜)ギュットネ!
しばらく浮かべなかったので、他の甘甘なBL読んでやっと浮き上がった次第でございます。
どうかこの小説バッドエンドにはなりませんように……頑張れ自分(人'д`o)
まあ既にストーリーは決まってるのですが♪
コメントや拍手がゼロになったりすると……ある日突然主人公が死ぬかもしれません(*゜∀゜*)オドシカ!?
ヾ(=д= ;)オゥイ