わたくしの秘密なのですが
その日は雨が降っておりました。
朝から頭痛がすることに若干の不快感を覚えながら身体を起こそうといたしますと、私は何故かすんなり起き上がれました。
「⋯⋯おはようございます」
いつもの先生のお戯れがございません。
しかし、先生は私の部屋にいらっしゃいました。ただベッドの前の椅子に腰掛けて新聞を読んでいらっしゃいます。
性的な目的を伴う接触のない起床は久方ぶりでございましたから、私は違和感を覚えながらベッドから下りました。
不思議に思って先生の顔を見ますが、先生はじっとりと私の顔を見つめるだけです。
「⋯⋯おは、おはようネル」
「おはようございます、先生」
私がそう言うと、先生は感情の読めない複雑な顔で笑いました。
「きみはいつだって、僕を先生と呼ぶね」
「ええ。私も皆様のように旦那様とお呼びした方がよろしいでしょうか」
「いい。好きに呼ぶといいとはじめに言ったのは僕だから。⋯⋯ところでネル、君は前どの屋敷に仕えていたのだっけ」
「宰相様⋯⋯オリバー・リー・ウェストウィック様のお屋敷でございます」
「そう。⋯⋯でも今はもう「前」宰相殿と言った方がもう良いかもしれない」
「⋯⋯?」
私が首をかしげると、先生は新聞の見出しをひらひらと揺らしながら残酷な事実を告げました。
「⋯⋯亡くなったそうだ。自ら命を絶ってね」
私は初めて心臓が凍った経験をいたしました。
亡くなった。
あの宰相様が。
私は目を閉じて宰相様⋯⋯オリバー様の冥福を祈りました。
「⋯⋯そうでございますか。先生は私にこれを伝えにいらっしゃったのですか」
「う、うん。⋯⋯君の元職場の事だし」
「先生自ら気にかけていただいて、ありがたく存じます」
私はにわかに重くなった身体を動かし着替えを始めました。
「⋯⋯喪に服さなくていいの?」
「必要ありません」
「⋯⋯そう、」
先生はそれだけ言うと、私の頭を撫でて部屋を出ていきました。
++++++++++
「やだちょっと、どうしたのよネル~」
私はオーリーと朝の挨拶を済ませると、彼女に抱きつきました。
オーリーは照れながらも、満更でもない様子です。
「いえ、少しこうしたいなと」
「時々甘えん坊さんよね、ネルって」
「そ、そうでしょうか」
「気づいてない?」
「自覚はありませんでした」
「ま、寂しい時はあたしに頼ったっていいのよ。なんたって先輩だからね!」
「すみません、オーリー」
「そこはありがとうございます、じゃないのぉ?」
私は苦笑してオーリーの頬に手をあてました。
「ありがとうございます、オーリー」
「ちょっ! それ反則!なにその顔!」
頬をほんのり染めたオーリーを伴い、私たちはアンソニーさんのところにやって来ました。
「おう、今日はどうした」
「どうしたって、いつも通りの朝じゃないのよ。しかも、退屈な雨の日の」
「オーリー、お前じゃねえ。そっちの奴だ」
「私ですか?」
「あんたぁ、いつもと雰囲気が違ぇな。何かあったか」
「⋯⋯あると言えばございましたが⋯⋯とても私的な事柄です」
「そうか。なんだ、まあ何があったか知らねえがよ。気ぃ落とすなよ」
「ありがとうございます」
アンソニーさんとこんなに会話をしたのは初めての事でございました。
私はそれほどまでに、目に見えて平常心を失っているのでしょうか。
いけませんね。これでは皆様に迷惑がかかります。
「ほら、朝食は出来上がってるから冷めねえうちに持っていけよ」
「はい」
私はワゴンに朝食を乗せながら、思いきってアンソニーさんに話しかけてみました。
「アンソニーさん」
「なんだ」
「今日の夕食の賄いはなんの予定ですか?」
「あー? いつも通り、パンと野菜くずのスープと⋯⋯豚のレバーで作ったパテが余ってたな」
「やっりぃ!あたしそれ大好きなんだよね!」
「お前さんはレバーは苦手か?」
「いいえ、とても好物ですよ」
「そうか。なら夜を楽しみに待ってな」
「ええ」
私はアンソニーさんに頭を下げて先生の部屋に行きました。
カチカチと銀食器が揺れ、フードカバーから漏れ出た匂いが鼻孔をくすぐります。今日は香ばしく焼かれた野菜とベーコンでしょうか。
夕飯のメニューはふと気になって気まぐれに聞いてみたのですが、それを聞いた私はほんの少し後悔しております。
もう、アンソニーさんの料理は食べる事が出来ないのでしょうから。
++++++++++
「ああオーリー。ネルを見なかった?」
「テディ様!お体の事もありますし、そんなに走らないでも⋯⋯そういえばさっきからネル、見かけませんね。洗い場にはいなかったし、どこに行ったんだろ」
「うーん。ネルに手紙が届いてたから、渡しておきたかったんだ」
「手紙!? ネルって天涯孤独じゃなかったんですか? えー、誰からだろう」
「⋯⋯それがねえ、ウェストウィック家から来ているんだよ」
「そりゃ何でまた」
「ネルが前に勤めていた家だろ? オリバーが死んだのと関係あるかな」
そのような会話を聞きながら、私は身を隠すように窓の外におりました。
ぽつぽつと雨の降りはじめた、屋敷の屋根の上でございます。
オリバー様からのお手紙を拝読するにはタイミングが悪かったようですね。でもまあ、内容はある程度察しがついておりますから構いませんでしょう。
私は雨で滑る屋根をそろそろと歩きながら物見の塔へと向かいました。
風も強く吹いておりますから落ちないように気を付けねばなりません。
この屋根を通らねば塔の一番上にいけないのは大層不便でございます。
どうしてこのような設計にしたのか、建築した方に一度聞いてみたい程ですね。
私は煉瓦の壁から突起している、埋め込み梯子を上ってなんとか上に到着いたしました。
遠くの方では雷が光っており、嵐が本格的に近づいていることを予感させました。
私は塔の手すりに足をかけました。下を見ると、くらくらする高さです。
私は小さく頷きました。
この高さなら、確実に死ぬことが出来ます。
私は手を組んで祈りました。
宰相様の笑った顔が脳裏に浮かびます。
子どもの頃の楽しかった思い出、母の死、宰相様の豹変、棄てられた事、この屋敷に拾われてからの色々────
総合的に考えて幸せな人生だったのではないでしょうか。
私は目を開け、足に力を込めようとしました。
「⋯⋯何してるの、ねえネル」
背後から、いつもよりじっとりとした先生の声が聞こえてきました。まるで私に恨み言を吐こうとしているようです。
それにしても、いつの間にここに来られたのでしょう。
先生は一粒の雨も身体についておりません。
息を切らした様子もなく、最初からそこにいたのだという佇まいで手すりに腰掛けいらっしゃいます。
「この塔へはどのように⋯⋯」
「秘密のルートがあるから。ネルなら特別に教えてもいいよ。だから一旦引き返して。とりあえずその手すりから足を下ろしてよ、ねえ」
「何故でしょう」
「きみ、死のうとしているでしょ。待ってよ、えーと、きみに手伝ってほしい事があるから、」
「それは私でなければなりませんか? 生憎今は立て込んでおりますので、他の方にお願い致します」
「僕は君がいい」
「⋯⋯申し訳ありません」
私がそう言うと、先生は小さくため息をつきました。
「じゃあ、どうして死にたいか教えて。やっぱりウェストウィック殿の死がきっかけ?」
「ええ、おっしゃる通りでございます」
「きみ、ひどい虐待を受けていただろ。それなのに後を追うの?」
それを聞いて私は目を見開きました。
「ご存じだったのですね」
「きみが捨てられていた状況と、ウェストウィック殿の性格を考えたら自ずと」
「そうしますと⋯⋯宰相様は、屋敷の外でもああいった────人に暴力をふるう事を楽しみとするような性格だったのでしょうか」
「僕は政界には疎いから噂話程度にしか聞いたことがないけれど。ある時から性格が変わったのだとか。どんな暴力をふるっていたかはテディの方が詳しいよ」
「ある時⋯⋯」
「10年前の冬だね」
「そうですか。それは、」
母の亡くなった時期でございます。
やはり、あの時からだったのでしょうか。
++++++++++
「────子どもの目から見ても、母と宰相様はお互いを慈しみあっていたようでした。それでも身分は違いましたし、奥方様のお気持ちもありますから、母と宰相様は二人きりで会うなどという事はございませんでした。身体的な接触のない関係だったのだと思います」
それでも、いえそれだからこそ、奥方様の悋気が母に向くのは仕方がなかった事でございます。
奥方様は母に辛くあたりましたから、私と母はいつも震えながら庭の隅の小屋で眠っておりました。
屋敷の他の使用人達も、私たち親子を同情の眼差しで憐れむことはございましたが、それだけでした。
奥方様のいじめは宰相様が家にいない間ずっと続きましたが、いつしか母への暴力は宰相様の知るところとなったのです。
母の秘密の────家族以外の男性には決して見せられない部分への傷が、どういう事か宰相様に知られてしまったのです。
宰相様はあの時珍しく大層お怒りになり、奥方様を他の領地に追いやろうとなさいました。
しかし、すんでのところで奥方様が改心し事なきを得たのです。
「⋯⋯そんなに嫉妬をしていたウェストウィック夫人が急に変わること、あり得るの?」
「先生のご推察通りです。奥方様はより狡い方法で、母に暴力を振るうようになったのです」
「────へえ。毒でも盛ったか」
「は⋯⋯いえ、あれは薬でございました。毎日健康のために飲むようにと、奥方様は食事の横に添えて朝晩薬を出すようになったのです。ええ、宰相様に」
「ウェストウィック殿に?」
「⋯⋯先生は、以前私が尋ねた魔法薬について覚えていらっしゃいますか」
「人を加虐趣味に変える薬の話?」
「ええ。宰相様の飲んでいた薬は緑色の小瓶に入った液体でございました。あれを飲んだ宰相様は、しばらくの間は快活になりご政務も通常より精力的にこなすことが出来るようになりました」
「瞳孔は開いていた?」
「時折そのようにお見受けしました」
「なら、薬の影響で躁状態だったかもしれない。⋯⋯その薬、すごく臭くなかった? 蛙を百匹集めて密閉した箱を嗅いだときみたいな」
「⋯⋯その体験をしたことはありませんが、概ね合っていると思います」
「じゃあ間違いない。確かに僕が作った魔法薬だ」
先生は小さく嘆息しました。
「あれは本音を言えず気鬱になった人の為に、抑圧した感情を開放させる薬だ。心の奥に封印していた様々な性癖だって一時的には発露するけど、大抵の人のは大したことないから気にしないでも良い副作用で、それぐらいのものなんだけど」
「宰相様にはご都合が悪かったようですね」
「しかしあの薬、常飲するものじゃないんだけどな。依存しないようにわざと苦く不味くしたはずなのに、夫人は毎日飲ませたって?」
「⋯⋯きっと、宰相様は奥方様への罪の意識がおありでしたから」
薬を飲むようになった宰相様は、それまでと一変して母と頻繁に会うようになりました。
もちろん人目ははばかりますが、それでも使用人の噂にのぼる程度にはあからさまな逢瀬でした。
そして、母の肌に痣が多くつくようになったのもその頃からでした。
「私は当時、奥方様がまた隠れて母をいじめていたのだと思っていました。しかし、実際はおそらく違ったのでしょう。母に暴力をふるっていたのは、他ならぬ宰相様だったのです」
母は日に日にやつれて、いつしか私を屋敷の外に逃がそうとし始めました。
私はそんな母を見捨てて逃げる事をせず、母の傷ついた肌を手当てする毎日を送っておりました。
そして、
「ある冬の朝です。母は馬車に引かれて死にました」
辻馬車の馬が突然街で暴れたのだそうです。
母は痛め付けられた足をひきずっていたので、逃げる事が叶わなかったそうです。
母が亡くなってから、宰相様は目に見えて心を悪くされていきました。
自分の内なる欲望が母を殺したのだと、宰相様はご自分を苛んだのです。
「そしていつからか、宰相様は私を呼び付け暴力をふるうようになりました。その時はいつも私に、貴族のご令嬢の着るようなドレスを着せながら⋯⋯」
「⋯⋯へえ。ネルに。へえ、そんな事してたんだ。へえ⋯⋯死んで良かったんじゃないかなそんな変態野郎、うんその方が絶対良かった、もっと苦く作れば良かったなあの薬」
ところで、と先生は話を切りました。
「ネル。きみがが何で死にたいか、そろそろ教えてもらっていいかな」
私はそれを尋ねられると、一瞬の羞恥心を胸に覚えながら口を開きました。
「⋯⋯加虐趣味があれば、その逆もまたございますね」
「ま、まあ、それはそうだけど」
「私はそれでございました。宰相様にぶたれているある夜の事です。私は得も言われぬ高揚感の後に、宰相様の振るう鞭を嬉しく思うようになったのです」
それ以来、私はあの暴力を快楽へと変換させ毎夜を過ごすようになりました。
そして、私は、私がその趣味であると知られてはもう宰相様にいじめて頂けないのではないかという浅ましく卑しい思いから、苦しむふりをして暴力を受けていたのです。
痛いのだ、これは嫌がらねばならない事なのだと言い聞かせながらも、そのような痛みを楽しんでいた私は、以前の人格者であった宰相様にも亡くなった母にも顔向けの出来ない本当の愚か者でございます。
「そうして私は毎夜を愚かな快楽に耽り、とうとう宰相様に捨てられたのでございます」
「ふうん⋯⋯つまりご主人様に捨てられたから死にたくなったって事?」
「いいえ。宰相様は私を捨てる際、このようなものをお与えになりました」
私はスカートの中に手を入れて、下穿きを脱ぎました。
そう、私は、毎日のように先生が顔を押し付けてくる、乙女最大の秘部の奥をあらわにしたのです。
「⋯⋯、これは」
先生は複雑な表情で私の秘部を見つめました。
私の陰部はすべて革の下着鎧に覆われております。下着鎧の内側には長い針があり、針は私の腰に深く突き刺さっています。
そして下着鎧の中心部、丁度私の臍下には小さな鍵がついておりました。
この鍵を外さなければ、脱ぐことは出来ません。
鍵はもちろん宰相様が持っていらっしゃいます。
「宰相様が、男性と交わる事を禁じたのです」
「⋯⋯こんな貞操帯、どこで誂えたんだ」
「あの方は私を棄ててもなお、私の首に縄を付けていらっしゃるのです」
私の首を引っ張る縄は、未だ宰相様が握っておられるのです。
私はただ、宰相様のいらっしゃる場所に向かいたいだけなのです。
私はたくし上げていたスカートを戻し、先生に見せるために腰掛けていた手すりに体重を預け足を浮かしました。
「先生、」
「ね、ネル。手すりから遠のいて⋯⋯欲しい。ほら、風も強くなってきたし、雷も」
私は小さく笑いました。
「あの方以外にこれを見せた事、内緒にして下さいね」
「────ネルッ!!」
私は、今際の際で宰相様に背いてしまった事に照れ臭さを感じながら、身体を後ろに倒しました。
胃の中がひっくり返りそうになる浮遊感と共に、先程とは比べ物にならない程の思い出が私の頭を過ぎていきます。
このお屋敷での新しい生活、新しい職場の仲間、そして先生────⋯⋯。
過剰な接触に目を瞑れば、あの方は良い方です。だって私のような薄汚い女に手を差し伸べて、拾って下さったのですから。
だからこそ、私は心を先生に向けませんでした。ええ、向けないようにしておりました。
私は首の縄を自分でほどけない愚かな女でございますから、いつか先生を失望させてしまうと思ったのです。
⋯⋯これが私の、最後の懺悔でございました。
「────⋯⋯らう」
「え!?」
目を瞑った私の顔を、温かく湿ったものが包みました。
ほのかに香るのは、薬品と豚の血の臭い。
「せんせ、待っ⋯⋯!!」
最後の言葉まで言うことなく、私たちは雨で濁った土に落下しました。
私の背中に鋭い針のような痛みが無数に刺さりました。
肺の中の空気が全て空になり、それを取り戻そうとぜろぜろとみっともない音を立てて喉がなりました。
でも、それだけです。
骨一つ折れていなかったようで、私は一時も待たず身体を起こせるまで回復いたしました。
私はゆっくりと起き上がり自分の落ちた場所を見下ろしました。
案の定、先生は私の下敷きとなっていました。
何という事でしょう、地面にめり込んだ先生の頭は楕円にひしゃげ、血の混じる水たまりに白とピンクの中身が見えております。
湯気をたててピクピクと痙攣するそれに対し、私は両手を組んで祈りました。
「⋯⋯申し訳ありません、先生」
私などよりも余程尊い命を投げうって下さいましたのに。
最後まで説得して下さいましたのに。
それでも私の首に繋がれた縄は、まだ死を望んでいるのです。
私は重い腰を上げ、処刑台を目指すように再び塔を目指しました。
目指そうと、したのです。
「⋯⋯捨てるくらいなら、」
「────え?」
「いらないなら、僕がもらう」
クスクスと笑う声が聞こえました。
私の足元からです。
下を見ると、男の手ががっしりと私の脛を握っておりました。
「先、生?」
先生の潰れた頭を中心として散らばった肉片が、うぞうぞとくねりながら集まっています。
見る間に肉片は形作り、昏い表情で笑いながら見上げる先生の顔となりました。
「ねえ、ネル。ネル。首に縄を結わえたネル。前の主人が忘れられないのかい。地獄の番犬よりも忠義者だ。その縄、切ってほしい? 欲しいんだろ? 欲しいって言ってよ。僕なら出来るよ。だからホラ僕にその身体、」
先生は血と砂に塗れた手を私の頬に擦付けました。
そんな世にもおぞましい光景に、私の足はふらつきました。私の神経にもまともな部分が残っていたのでしょう。
「ちょうだい」
先生の言葉の最後を辛うじて聞き取りながら、私は気をどこかへやってしまいました。