わたくしの前の職場では
私が前に仕えていた主人はこの国の宰相様でした。
小さな頃は、若かりし頃の宰相様によく遊んでいただいたものでした。
豊かなお髭とお腹を揺らして私を追いかけ回して下さった事も、高い高いをしていただけた事もありました。
平民の私の髪に躊躇いなく触れ、あまつさえ花を飾っていただけたという思い出は一番の宝物でございます。
このように心優しき方だったのですが、いつの頃からか宰相様は性格がお変わりになられました。
今思い返せば、母が不慮の事故で帰らぬ人となった辺りからでしょうか。
⋯⋯いいえ、もっと前かもしれません。
宰相様は、ある日私を私室に召し上げ、服を着せ替えるようになったのです。
それは仕事着ではなく、貴族の若いご令嬢が夜会に着ていかれるようなドレスでした。胸や足が大胆に露出をしている所を見ると、私の当時の年齢よりもっと上の方が着るようなものだったかもしれません。
「何故このような服を⋯⋯?」
「────黙りなさい」
最初は私を着せ替えるだけで満足していたようです。
しかし着せ替えが常態化するようになり、私もこの不思議な行為に慣れるようになりますと、ある夜宰相様は怖い顔をしながら私を縄で縛りました。
私は何か粗相をしてしまったのかと震えながら謝りましたが、宰相様はそれらを一切聞かず私を床に転がしたのです。
その後は長い木の棒などで腹のあたりを打ち据えられ、胃の中のものを戻してもその折檻は続きました。
ようやくその責苦が終わると、私はそのまま冷えた床に寝そべり一夜を明かしました。
朝になると、宰相様は何事もなかったかのように縄をほどいて私にいつもの仕事をさせたのです。
その夜から解雇される日まで、私の腹に青あざが絶える日はございませんでした。
他人を痛めつける事で欲望を満たす趣向があることは存じ上げておりますが、宰相様のご趣味は確かにそれだったのでしょう。
その特殊な欲望は、ある日突然、まるで病気に罹患されたかのように、発露したのでございます。
そんな宰相様の、特殊な欲望を、人為的に────例えば魔法薬を使って────無理やり作り出したのだとしたら。
私は宰相様に対して何を思えば良いのでしょう。
私はそんな事を考えながらティーセットを洗い場まで片付けに行きました。
「⋯⋯、」
そんな私に、珍しく先生は物言いたげな顔だけを向けました。
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「ネル、街に出るんだって?」
私が支度をしているとオーリーが話しかけてきました。
どうやら私が市場に行くのを聞きつけたようです。
「先生のお使いです。薬草が少なくなったので、街の薬屋に」
「あたしも行きたいなあ!ねえ、ついていっていい?」
「私は構いません」
「やったぁ!たまには息抜きも良いよねぇ」
「私は仕事ですが⋯」
「かたいこと言わないでよ、どっかで甘いもの買ってこようよ」
「それぐらいなら」
私はオーリーを連れて屋敷を出ました。
屋敷から歩いて一時間程の距離にある、ギースという街にたどり着きました。
賑やかな街なのですが、私の目的地は街のはずれにひっそりと佇む小さな薬屋です。
小さな店ながら、他の店では仕入れの少ない貴重な薬草を用意して下さるのでいつも贔屓にしているのです。
「こんにちは」
「あン? ああ、なッだ。お屋敷ッとこッ娘か。今度は何ッが足りなッの」
ここの店主は独特の訛りです。慣れれば聞き取りやすいのですが、オーリーは初めて聞いたのか戸惑っています。
「はい、ええと⋯⋯『モヌルの葉 200束 メレの実 40個 酒精を100瓶』ですね」
「またァ!? モヌルやメレはともかく、酒精なンか他ッ店でも買えッだろ。瓶を届けッの楽じゃないッだよ、あんたッところッお屋敷ぁ山ッ上なンだから」
「まとめ買いした方が手間がかかりません」
「まッたく、水増し請求してやろッかね」
「手間賃としてお納めいただけるよう多めに渡すよう言付かっております」
「んん!? ⋯⋯ま、そこまで言われッたら何ッも言えなッよ。じゃ、三日後にゃ届けッよ。全くこンな小さな店の何がいいッだか」
「先生はこの店の薬草の質を信頼しておられますよ」
私がそう言うと、店主は無言で照れ笑いしました。
お使いも終わったので店を出て、オーリーと街を散策しておりますと、何やら甘い良い香りが漂ってきました。
「あ! もしかして揚げ菓子じゃない?」
オーリーは匂いの元に指を指しました。
屋台から砂糖と油の混ざったいい匂いが漂います。
「買いに行こうよ!」
「ええ、行きましょう」
甘いものと油と粉は、どうしてこうも人を惹き付けるのでしょう。一つだけ買うつもりでしたのに、気がつけば油紙の袋に五個ほど揚げ菓子が収まっておりました。
「そこのベンチで食べていこう!今日はいい天気だっ⋯⋯ああ!」
「どうしましたか」
「あの屋台の親父、一個入れ忘れてるじゃないのよ!全く、文句言って二個貰ってくるわ!」
オーリーはそう言って屋台に戻りました。彼女のあの性格は、私個人としてはとても好ましく思います。
私はベンチに腰掛けてオーリーを待ちました。天気はよく、穏やかな気温です。
ふわ、と柔らかな風が私の耳をくすぐると、遠くから懐かしい声が聞こえてきました。
「おい、ネル? お前ネルだよな!どうしてここに⋯⋯」
「トビーですか?」
私の元へ走ってきた青年は、前の主人の邸宅で庭師をしていたトビーでした。
もっとも彼は今もあの屋敷の庭を整えているのでしょうが。
「ネル! お前どこ行ってたんだよ。あれから探したんだぞ」
「あれから、と申しますと」
「お前が身一つで屋敷を追い出されてからだよ」
「それはご心配をおかけしました。今は先生に拾われましたから心配はいりませんよ。屋敷の他の方々にもそうお伝えください」
「先生? 街医者のところか?」
「いえ、ヴィンセント様のお屋敷です」
「あっ⋯⋯!? あの狂科学者の箱庭⁉ 大丈夫かよ、あそこに入った使用人は人体実験されるんじゃ」
「それは荒唐無稽な噂です。私は健康的に日々を暮らしています」
「⋯⋯まあ、なら良いけどさ。けどよ、どうしたんだお前。いきなりご主人様に追い出されるなんて、変な粗相をやらかしたのか?」
「さあ⋯⋯どうなのでしょう」
解雇の理由は分かっておりますが、宰相様の名誉の為にも口は閉ざしておきます。私のその様子を、トビーは何かを言いたげに見つめてきました。
「どうなさいましたか」
「⋯⋯お前がさ、突然いなくなってから⋯⋯その。後悔してんだよ」
「後悔?」
「俺達使用人ってさ。解雇されたらそれまでっつーか⋯⋯お前も俺と連絡取らなかったろ」
「はい」
「俺はお前がずっとあの屋敷で働くもんだと思ってて⋯⋯でもお前、いきなりいなくなって、そういう事あんのかよって」
「要点が見えないのですが、どういうことでしょう」
「────あーもう! だから俺は!お前ともう会えねぇかと思ったら!寂しくなったんだよ!」
トビーは耳まで真っ赤にして叫びました。
道行く人もじろじろにやにやと私達を見ています。
中には口笛を吹いてからかう方までおりました。
「トビー、私は」
「別にあの屋敷に閉じ込められているんじゃねえんだよな。じゃあさ、俺とまた会えるだろ」
「⋯⋯会うことは可能です」
「じゃあまた会おう。飯はおごるぞ」
「ですが、トビー。私は」
「あっ!今断るんじゃねぇぞ!おれは今からが勝負だと思ってんだからな!女なんてすぐ気が変わるって言うだろ、それまで絶対諦めねえ。他に男いるのか?」
「────そ、」
「⋯⋯ネル。こいつ誰? ねえ、誰? 僕、君におつかい頼んだんだけどなぁ逢引しろなんて言ってないよねぇもしかして今までもこうやって会ってたの?」
「ひゃっ!」
「あら、先生」
突然私の肩を抱き、私の頭を胸元に押し付けたのは先生でした。
神出鬼没な方です。
「何故ここへ? 薬屋へのお使いは終わりました」
「⋯⋯ほ、他に頼もうと思っていたものを伝え忘れて、オーリーもいないし、他の者にも断られて、仕方がないから僕が来たんだ。で、で、でも、僕が街に出て良かったよ⋯⋯ネルのう、浮気を、未然に防げたんだからっ、ね、ふふふふ」
「左様ですか。それでは私は今から薬屋に戻ります。注文書はどちらですか」
「⋯⋯え、え、コレだけど⋯⋯」
私は先生から一枚の紙を受け取ると、揚げ菓子の袋に触れないよう注意深く懐にしまいました。
「それでは私はこれで。それと、トビー」
トビーの方に向き直りますと、トビーは青い顔で肩をびくっと震わせました。
「そこの先生の冗談はともかく、私はトビーとそういう関係にはなれません。申しわけありません」
私がそう言うと、トビーは少し寂しそうな顔をしました。
「⋯⋯そっか。俺、そんなにきっぱり断られるほど?」
「いいえ。あなたは快活な性格で面倒見の良い年上の青年で、良い技術を持った庭師です。私の先輩の言葉で言えば、おそらく"めっちゃ良い物件"なのでしょう。────これは私の問題なのです」
そう言うとトビーは少し笑いました。
「⋯⋯そっか。ありがと、仕事頑張れよ」
「ありがとうございます」
私はトビーに深くお辞儀をしました。
トビーはそれを見ることなく、翻って街の喧騒の中に飛び込んで行きました。
「先生、私は薬屋に向かいますので先生はオーリーを探して伝言をしていただけますか。"交渉が難航するなら私の揚げ菓子を一つあげますから戻ってきて下さい"と」
「⋯⋯ええ⋯⋯これから闇市散策しようと思ってたのに⋯⋯噂じゃマンドラゴラの鉢植えが」
「くれぐれも、よろしく、お願いします」
私はそう言って薬屋に向かいました。