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わたくしが目を覚ましますと

私がいつも通りの時間に目を覚ましますと、先生は足の間に顔を埋めていました。


布団はどこに行ったのやら。

⋯⋯落ちております。


先生は気にせずもぞもぞと股間をまさぐろうとなさいますが、その部分は乙女の最大の秘密ですからやめてくださいと再三強めに申し上げたのは3日前の事です。

足の間からはあはあという熱気と湿り気がこもり、大変不快です。


「⋯⋯あっ、あ、おおはようネル⋯⋯」

「おはようございます。先生、起き上がれませんからどいてくださいませんか」

「えっと、その、これは⋯⋯やっぱり邪魔だった? でもね、えーっと」

「分かっているならもうおやめになってはいかがでしょう」

「⋯⋯う、」


私は太ももで先生の首を挟み折り、しばらく悶絶している物体をベッドから蹴落とすと身支度に取りかかりました。

寝間着から黒のワンピースに着替え、部屋にかけてある小さな鏡で襟によれがないか確認します。


長い髪は邪魔にならぬようひとつにまとめ室内帽へと押し込み、袖口を確認してエプロンを着用すれば、立派なこの屋敷の客間女中の出来上がりです。



この屋敷はさる侯爵家のご子息────つまり私が先生とお呼びしている方でございますが────ヴィルヘルム様の別邸でございます。


巷では「狂科学者の箱庭」などと不名誉な名で呼ばれているお屋敷ですが、実際その通りでございます。



ヴィルヘルム先生は侯爵家の三男でありますが、齢十にしていくつもの学術論文を書き上げ、その研究成果が我が国の文明発展に寄与したとして、王室より褒賞のお言葉と共に博士の学位を賜ったとの逸話があるお方です。


侯爵家は国の魔法科学発展のためにと先生のための研究室をお作りになりました。それがこのお屋敷でございます。



とはいえ侯爵家がこのお屋敷を建てられた理由の一つに、先生のエキセントリックな性格へのご配慮があったという点も加味しなくてはなりません。


先生のご専門は魔法薬学でございます。とりわけ魔物とその他の動物との相関性をテーマとし、日夜オークや豚を使った生体実験を行っております。


生きたまま実験動物を解体し取り出した新鮮な臓物を薬品に漬けるなど、研究実験のやり様は苛烈です。


先日、先生はオークの反射機能を調べるためと言って一日中首なしオークの脊髄をアイスピックでぶすぶすと刺していらっしゃることもありました。

半分趣味ではないかと思うところもありますが、あれも一つの実験なのでしょう。


並みの神経を持ち合わせていれば卒倒するような実験の数々を行っておりますから、先生が侯爵家の他の家族から忌避され本邸を追い出されても致し方のない事とは思います。



そう、私の務めているこの屋敷は、正しく狂科学者の隔離施設なのでございます。



────余談ではありますが、隔離施設に追いやっておきながら、日夜研究にいそしんでおられる先生の研究成果だけを掠め取っていくという王室や侯爵家のやり方に、いささか疑問を覚えないこともありません。

平民の女中一人の意見など取るに足らないものと自覚はしておりますが、思うだけなら自由でございます。




私はと言えば、前に仕えていた主人に解雇を言い渡されふらふらと街をさ迷っていたところを先生に声をかけられ雇われた女でございます。


前の主人の邸宅で住み込み女中として仕えていた母から生まれた身で、身分の上では平民となりますが屋敷の外に出たことはあまりございませんでした。


市井の暮らしに戸惑うばかりでありましたので、これ幸いとばかりに先生に拾われたのでございます。

毎日魔物や豚の絶命の声が響く以外はいたって平和な職場です。






「ねえネル⋯⋯い、い、一緒に、その、朝ごはん⋯⋯」

「朝食のお時間はもう少し先ですのでお待ちください。今は清掃の時間でございます」

「⋯⋯う、たまにはその、雇用主である僕の意志を⋯⋯」

「私の仕事は本来お客様への応対をする客室女中でございます。されど人手不足故に清掃や洗い物の片付けなど屋敷の維持、加えて先生の実験の補佐まで様々な事を命じられ、日々それをこなしております。この上更にお命じになるのですか」

「⋯⋯そ、それを言われると、うーん、でも⋯⋯」



先生はそう言いながら私のスカートをたくしあげます。なにやら首筋からははぁはぁとした息遣いまでかかってきます。

先生が太ももを撫でさするので強かに手の甲をつねり、ぎゃあという悲鳴を背に私は朝の清掃に出掛けます。寝静まった夜に埃は降り積もるものです。朝一番の清掃が清々しい空気を作るのです。




モップを手に取り廊下を掃除していると、客間女中の先輩、オーリーがやってきました。



「今日も旦那サマは絶好調?」

「ええ。いつも通り私の股間に顔をつっこんだりスカートをたくしあげて太ももを撫でたり」

「うわあ⋯⋯毎日毎日よく耐えられるねえ」

「私はなんとも。ですがこの屋敷の女中の入れ替わりが激しいのは、先生の性的逸脱行為のせいではありませんか?」

「それ以前に、あの実験小屋の臭さで逃げていくのが多いよー。マトモな神経じゃこんなとこやってられないっての」

「⋯⋯そうですか?」

「アンタはよく続くよねえ。アタシと違って五体満足の普通のお嬢ちゃんだってのに」


オーリーはそういって苦笑しました。

そう笑う彼女の顔半分には火傷のひきつれがあります。昔大きな火事に巻き込まれたのだとか。


「オーリーも普通のお嬢ちゃんなのでは?」


私は首を傾げました。少なくとも五体は満足です。そう言うとオーリーは首を横に振りました。


「キズモノもキズモノだよ。だからここの先生に拾われたんじゃない」




オーリーの言う通り、この屋敷にいるものはどこかにコンプレックスを抱えています。


火傷だったり、指が欠けていたり。

少し人より舌が長かったり子ども程しか背丈がなかったり、または大きすぎたり。

考えてみれば、見た目が他の人と少し違うだけで社会から弾かれかけていた方々が多いように思います。


しかしオーリーは掃除や洗濯がとても上手で、シーツや服についた汚れを落とす技などは神がかっております。

こんなに素晴らしい特技を持っているのに、他のお屋敷からは歯牙にもかけられなかったのだそうです。


言うのはばかられますが、他のお屋敷の皆様はかなり損していらっしゃいますね。




ちなみに先生は見た目にコンプレックスを抱えた方々を雇う事が多いので、屋敷が人体実験の場だとまことしやかに噂されております。

そこに関して言えば、正直不本意でございます。先生は人間には手を出したことがございません。⋯⋯まあ、多分。

よって屋敷内の使用人は侯爵家の別邸としてもかなり少ない方なのですが、少数精鋭と申しましょうか、とにかく優秀な人材が豊富なのです。

私は、この部分においては先生の慧眼を密かに尊敬しております。




「旦那様ってばさ、ホントあんたにお熱なんだから。いい加減くっついちゃいなよ」

「いいえ、それはなりません」

「なんで? なんか問題あんの? ちょーっと陰気臭くて、ちょーっと痩せぎすで、ネチネチしてて髪や服装も今ひとつだけど、元の素材は案外見られるじゃない」

「見た目は問題ないと思いますが、私の心が先生に向かいませんので」

「おっやあー? てぇことはさ、外にイイ人いるのかしら。もう先約アリ?」


オーリーがにやけた顔で鼻を膨らましました。

こういった時の彼女はしつこいので、少し面倒です。




「⋯⋯へえ楽しそうな話してるね。どの男? 僕の知ってる奴? 前の職場? それとも今?」


突然、先生が音もなく私の背後から現れ、脇の下に手を入れました。指が胸の横を掠めます。

私は先生の小指を逆方向に曲げてから手を剥がしました。



「ひゃっ! お、おはようございます旦那様」

「⋯⋯お、オーリー、おはよ⋯⋯今日の調子は?」

「まあぼちぼちってとこですね」

「⋯⋯それは良い────ところでネルに恋人がいるって小耳に挟んだんだけど、冗談だよね? からかってるだけだよね? ねえそうだよね?」

「ちょっと、旦那様落ち着いて!」


私はため息をつきながらお答えしました。


「残念ながら今現在そういう方はおりませんし、今後も出来ません。仕事に戻りたいので先生はそこをどいていただけますか?」

「⋯⋯は、はい」

「どっちがご主人様なの、この二人」



++++++++++



私はオーリーと二人で朝の清掃を終え、厨房へ向かいました。

厨房ではコックのアンソニーが鍋をかき混ぜています。


「よお」

「おはようございますアンソニーさん」

「持っていけ」

「はい」


アンソニーは左手が半分ありません。

ですが器用に何でも料理を作ります。味も盛り付けも一級品で、私達が食べる賄いまでも絶品です。


今日の朝食も、芳しいスープの匂いだけで豊かな美味の奥行きを予感させるほど。あまり前の主人のことを悪く言いたくはありませんが、食事に関しては天と地程の差がございます。




私とオーリーはワゴンに出来立ての朝食を乗せて先生の部屋まで運びました。

先生の部屋の扉を開けるのは私の役目です。オーリーが先生の私室に食事を運び込み給仕を行います。


「あ、ネル。おはよう!」

「テディ様、おはようございます。今朝のお加減はいかがですか」


私の後ろから声をかけたのはテディ様でした。

私はテディ様に深くお辞儀をして、彼の整ったつむじを見下ろしました。

テディ様は可愛らしい少女に見間違えそうになる、小柄な方です。


「うん。わりといいよ。ヴィルヘルムの薬が効いているからね」


テディ様は持病を抱えており、先生の開発した魔法薬でなんとか命を保っているという話です。

さる貴い血筋のご子息という話ですが、それ以上の話は私どものような身分には伝わっておりません。

見た目は十にも満たない少年の姿ですが、れっきとした成人男性なのだそうです。

ちなみにテディというのは単なる愛称ですが、ご本名は存じ上げておりませんので、皆さんが呼ぶのに倣い私もただテディ様と呼んでいます。



「そういえば今日は王室からお客さんが来ることになっているよ」

「左様ですか。お客様がお見えになるのはいつ頃でしょう」

「昼前には着くと書面にはあったけど」

「かしこまりました。客間の準備をいたします」




テディ様はこの屋敷で治療目的で逗留しておりますが、何故か家令のような事をされています。

大方暇を持て余していらっしゃるのでしょう。


しかしこの屋敷の主であるあの先生に屋敷の使用人をまとめる才はございませんので、皆彼を頼っております。


テディ様の持病が完治した後この屋敷はどうなってしまうのか。

これが目下、使用人一同の恐怖の種でもあります。



「あれ、テディ様?」



オーリーが給仕を終えて部屋から出てきました。

テディの後ろ姿を見送る私に声をかけます。


「今日は何だって?」

「今日の昼前に王室からお客様がお見えになるとのことです」

「は!? あたし聞いてない」

「私も今聞きました。すぐに応接間の準備を始めなくては」

「嘘でしょ!ってぇことはあたし、今日はネルなしで洗濯すんの? 血まみれの実験服が沢山溜まってんのに!」

「それではオーリーが客間の準備とお客様の応対を?」

「冗談冗談、そっちのが嫌よ。王室の奴らなんかもうアタシ、だいだいだ〜〜いっ嫌いなんだから」

「私も好きで応対している訳ではありません」

「う〜〜〜⋯⋯だってあんたがいけばさー、客も多少、ほんの少しだけ、屋敷の人間を人間扱いすんだもん。そっちはお願いね、ネル」


オーリーは肩に手を置きぐるぐると腕を回しながら洗い場まで向かいました。



++++++++++



「ああ、茶などは必要ない。下げろ」

「そうでございますか。失礼いたしました」


昼前⋯⋯をとうに過ぎた昼下がりの時間にお客様がいらっしゃいました。

何回かこの屋敷にいらっしゃった事のある方らしいのですが、私は初めてお目にかかります。

時間を守れない方が何故このようにふんぞり返っていられるのでしょう。

偉い方は精神の構造が違うのでしょうね。



「何が入っておるか分からぬのでな。私は無事に貴公への書状を届けて上に報告しなくてはならぬ。一服盛られている暇はないのだ」

「⋯⋯左様ですか」


私は一礼をしてお茶を下げました。

別になんの薬品も入っておりません。一般的な薬草茶でございます。


この屋敷にいらっしゃる方は大抵お茶に薬が入っていると騒ぎ立てるのですが、一度としてお茶に薬をいれた事はございません。

噂に踊らされる方というのは、貴族も平民も等しく滑稽です。


「⋯⋯で、何の用?」


先生は客間の長椅子にゆったりと腰掛けてお客様と対峙しております。もちろんお茶は召し上がっております。

同じお茶を口に含んでいる家主の前で堂々と「一服盛られては」と発言するお客様の、神経の太さを称賛すべきでしょうか。



「なに、かの御仁の経過報告と。⋯⋯まあ相談事というかだな」

「相談事」


お客様は私をちらりと見た後、歯切れ悪くぼそぼそと喋り始めます。

もしかして、いいえもしかしなくとも。


これは魔法薬の相談でしょう。



この屋敷にいらっしゃるお客様の三人に二人は先生に魔法薬のご相談をされます。

人を仮死状態にする薬、人を蛙に変身させる薬、人魚に足を生やす薬など、人の欲望の数だけ多様な魔法薬をお求めになるのです。


先生はその依頼を気分次第でお受けする事があるのですが、今回はどうでしょうか。





「人の心に作用するような魔法薬はあるものだろうか」

「人の心⋯⋯」

「⋯⋯うむ。まあ取り越し苦労だとは思うがな。────皇太子殿下のお心が最近乱れておるのだ」


先生は一拍おいて少し考えるそぶりを見せ、じっとお客様を見つめました。


「⋯⋯王国の若き獅子と名高いフレデリック殿下のお心に、何の憂いが。かのお方もまだお若くていらっしゃる。多少の気鬱はよくある事だ。薬を使うまでもない」

「違う。ある日を境に、殿下の性格が変わられたのだ。精神状態を宮廷医が診ても問題はないようなのだが、どうにも」


先生は、暫し上を見上げながら何かを考えている様子です。


「記憶に障害は?」

「ない。日常生活にも問題はない」

「なら放っておいていい。日々の中で何か思うところがあってお変わりになったのかもしれない。もっと日常に支障が出る程度の事があって初めて相談しに来なさい」

「それはそうなのだが⋯⋯そういう魔法薬があるのか、それだけが聞きたかったのだ」


先生はお客様をじっとりと見つめてほの暗く笑いました。


「あるにはあるが」

「例えばどのような」

「ある薬などは、人の性的指向を変えられる。前に処方したものは、動物を性的に愛する男を普通の異性愛者に変えて大層喜ばれた。貴公が望めば逆にも出来るが、試してみるか?」

「⋯⋯」

「そうだな、似た薬では人を加虐趣味に変えたり」

「あ、いや分かったもうよい。求めていた物と大分違った」

「お役に立てなくて残念だ」

「それでは失礼する」


私は客間の扉を開けて、足早に部屋を出るお客様を見送ります。

お客様はそのまま逃げるように屋敷を出ていかれました。

私は馬車の遠ざかる音を聞きながらお茶の片付けを始めました。



「⋯⋯ね、ねえ、その、ネルはどう思う? 今の話、気にならない?」


先生は私の腰に抱きついてうなじに鼻息を吹きかけました。

薬関係になると流暢にお話をされる先生ですが、何故日常会話はこうも声が小さくどもりがちなのでしょう。

もっと、常日頃から堂々となさっても良いと思います。


私は身体ごと振り返り、先生の顎を包みました。

先生の顔を見上げますと、先生は土気色の肌を多少上気させました。


「⋯⋯わ!? ね、ネル、急にっ⋯⋯僕の準備がっあっ」


そのままそっと顎を横に回して勢いよく首をひねり、腰に回された手が緩んだすきにすり抜けました。


「先生、」

「ゴボッ⋯⋯な、なに?」

「普通の人を加虐趣味にする薬があるのですか」

「⋯⋯え、ええと、正しく言えば心の奥底に抑圧されていたものを、引きずり出して増長させる薬⋯⋯だね」

「何故そのような薬をお作りになったのでしょう」

「⋯⋯じ、自白剤作ろうとして失敗したのを、物好きが持っていって、そこから広まって」

「そうですか」


私はそう言って、窓の向こうにある景色に目を細めました。



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