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忘れないで

作者: エリス計画

 秋に差し掛かることを知らせる雨が午後には止んで、ガラス一面の水滴が太陽光をそっと曲げて通している。キラキラと透過ができない光が反射して、窓の外の木々と重なり、とても美しいと思った。

 男は手についた油絵の絵の具をペーパータオルで拭き取り、外に向けていたデジタル端末のフレームを手に取ると、部屋の中に向けてそのフレームに収まっている少女を見た。彼女はまるで時が止まったように動かず、口の端に笑みをたたえている。彼女は黒髪を後ろにまとめ、男から10年ほど前に買ってもらった、雪の結晶をモチーフとした髪留めをつけていた。

「あふぅ」

 と男は息を吐くと、コップに水をなみなみと満たして溢れさせ、口の端から水が漏れてきて、黒いシャツの襟元へ染み入るのも気にせず一息で飲んだ。それからシャツの中にバサバサとエアコンで冷えた空気を入れると、ちらっと彼女を見たが、脱いで上半身を露わにした。ズボンから肉が漏れていており、へそを巻き込んで埋もれた横線部分のその汗をペーパータオルで拭いた。

「きれいだったか?ひな」

ひなは当然のように答えない。

「もう秋が来るんだ。また」

 男は窓を開けると体をぐんと乗り出した。高い湿度が額を濡らす。

「あの、あれ。名前がわからないけど、ここから見える母の尖った木の、目立つ木の下でお前のお母さんと出会ったんだ。いやすれ違ったんだったかな?え、この話もう何回目だって?何回目だったかな。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13、14、15、16、17、18、19、20、21、22、23、24、25、25、26、27、28、29、30、31、30。うん31回目だ。何度話したっていいだろう、お母さんとの馴れ初めなんて。で、チューしたんだよ。いつかのデートで」

ひなはフレームの中で静かにしている。男はシャツで脇汗を拭うと、椅子の背に干した。

「お母さんは元気でやってるのか?そっちはいいところだって知ってるよ。話に聞いたところによると、あたり一面に桃の花が咲き誇っていて、年中通して暖かい場所だって聞いたよ。 そっちにいる人もみんないい人なんだろう?そうでなきゃ帰ってくるもんな。お母さんは今どうしてるんだろうか」

 男は表情が変わらない、ひなが写っているフレームを手に取ると、長い間じっと彼女の目を見つめた。彼女は何も答えてくれないが、見てくれてはいる。 何も言わないまま男は左目の端から涙をこぼして、雫がフレームの画面に乗った。 鼻水を手の甲で拭って、フレームを仏壇の前に置いた。

 それから、再び油絵の方に向き直って、 筆の先をどこに置こうかとあちらこちらに動かす。ピンク色や水色を基調としたパステル色の色彩にキャンパスを染めていく。 溢れるような夕暮れのキャンパスを、紙からはみ出して赤く手を染めながら、白いところを埋めていく。

「そっちの学校では、どうやって通学してるんだ。お母さんに車で送り迎えしてもらってるのかな?もしかして車は今でも乗れなかったりするのかな、お父さんのせいで」

 今でも忘れることはできないが、あれは娘を連れて、初デートの思い出の場所を親子で巡ると言うお出かけをしていた時だ。思い出の喫茶店でナポリタンを食べて、男の運転で告白をした木の前を車で通りかかった。娘に1回目の馴れ初めの思い出を話しながら、胸の内が暖かく、妻も薄明かりの中でほんのり頬を赤らめながら、あの日の思い出を娘に語って聞かせていた。

  そうして妻を見ていたら、 肩に強い衝撃があった。シートベルトが胸に食い込んで、 エアバッグが体を包んだ。 誰も何も言わなかった。 急いで男は運転席から降りて、助手席の方に回った。すぐに助手席と後部座席のドアが開いて、母親と子供が崩れるようにアスファルトに横たわった。そして……何度も何度も思い出す光景。到底忘れることなんてできない。 妻と子供を失ってしまって描き始めたこの絵は10年経っても書き上げることができない。書き始めると、とめどなく涙が溢れてきて、キャンパスの上に乗っている、パステル色のこの絵の色彩が、氾濫して滲んでしまって、なかなか先に進まないから。今日も悲鳴に近い声を上げて泣いている。すね毛の生えた足に滴り落ちる。

 しかし、今日はいつもと違う。最後の、ひなのお尻のラインを描いて、その絵は完成した。

「できた。出来たよ、ひな」

 そうして、キャンパスをイーゼルから取り外して、ひなに見せた。それは、あの事故の日。母と娘が車から出てきて、抱きしめ合い、慈愛に満ちて慰め合っている姿。それから、父親がその場から走って逃げて立ち去っている絵。

「この絵は……タイトル名『償い』だ。帰ってきてくれとはもう言わない。後悔を背負って生きてる、情けなくとも生きる俺を見ていてくれ。俺は、僕、私は……ずっと覚えている。お母さんは忘れても、ひなには覚えていて欲しいんだ。どうか、あの日まで、離婚するまで私たちが確かに家族であったことを。」


 ひなは取り決めた面会時間を過ぎたので、通話アプリを終了して髪留めを取った。

 


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