優先席
甲高い警笛音がホームに鳴り響く。どうやら電車がきたみたいだ。
朝7時。早朝の電車の中はまだ人が少ない。
煙が吹き出るかのような音とともにゆっくりとドアが開く。並んでいた人たちが我先にと行った具合に電車に乗り込み、椅子取り合戦が始まった。
私ももちろん参戦する。そして座った。
そこは『優先席』。
私は朝が本当に弱い。椅子に座るやいなや、すっと目を閉じ、まどろみ始めた。
しばらくしてふっと目を開けると、電車の中は既に満員だった。腕時計に目をやるともう30分は乗っていたようだ。
とはいえまだまだ時間はある。
再び目を閉じようとしたその時だった。
視界の下。一本の杖が目に入る。
顔を少し上にあげる。目の前には周りの大人の人に押されながらも、懸命に杖で自分の体を支えているお婆さんの姿があった。
「あの、よかったらどうぞ。」
頭で考えるより先に言葉が口をついてでた。
お婆さんは一瞬目を見開くと、目尻を緩ませ、
「ありがとう。」
と一言呟いた。
次の日。朝7時。またいつもの電車に乗り込む。
今日も元気に椅子取り合戦。
そして座った席は……『優先席』
列車が動き出す。心地よい揺れに身を預け、私はいつものように眠り出す。
うとうととしていると甲高い金属音ともに強い力で体が右側に引っ張られる。どうやら急ブレーキがかかったらしい。
「うっ、うっ、うわあああああん」
その時、堰を切ったような大きな鳴き声が響き渡る。それも目の前からだ。
ふっと目をあげると、ベビーカーの中で赤ちゃんが大泣きをしていた。
よしよしっと大慌てで側の母親があやしている。
それでもなかなか泣き止まない赤ちゃん。
周りの人の視線には同情の気持ちの中に苛立ちの感情が混ざり始める。
どうにかしたいな…。気持ちは込み上げるもののどうすればいいかがわからない。
なにか…なにか…ないかな…?あっ!
ポケットを弄ると、あるものに気づく。
「あの、これよかったら…」
母親の目の前に恐る恐る飴を差し出す。こんなので大丈夫かな。
しかし、母親はほっと安堵した表情を浮かべ、
「ありがとう。この子飴大好きなの。」
包装紙を剥がすと、赤ちゃんの口に入れる。
泣き続けていた赤ちゃんの鳴き声が少しずつ収まり、落ち着いた表情で飴を舐めはじめる。
「泣きやんだみたい。本当にありがとうね。」
「いえ、泣きやんでよかったです。あと、よかったらどうぞ。」
さっと立ち上がり、席を譲る。
「え、でも…」
「いいんです。私、大会近いから脚鍛えなきゃなんです。」
両腕を曲げて、ランニングのポーズをしてみせた。
「ふふ、そうなのね。ありがとう。それじゃあお言葉に甘えさせてもらうわね」
そう言うと母親はすっと座った。そして、泣いていた時に流れたのであろう、赤ちゃんの口元の涎を優しく拭き始めた。
立ち上がった私はつい先ほど自分が言った言葉を思い返す。
「大会…か」
あの日は南関東の地方大会の日だった。
ふと昔をおもいだす。
高校3年。最後の夏。支部大会、県大会を勝ち抜いた私は地方大会に出場した。ここで6位以内に入ることができればインターハイ。全国だ。私は100メートル走の選手として出場した。
この日に向けて血の滲むような努力をしてきた。
部活後、みんなが帰ったあとも1人で残り走り込みをした。
顧問の先生と相談しながら、スタートダッシュやフォームにも磨きをかけた。
食事や睡眠だって人一倍気を遣ってきた。
なのに……。
0.01秒だった。6位の選手との差だ。私はその瞬間全国への夢に破れた。
大会が終わり、帰りの電車を待っている間、みんなが凄く励ましてくれた。
だけど私はありがたいけどいらぬお節介だと思った。精一杯やったんだ。誰かが言ってたじゃん。
結果じゃない過程だって。だから悔いなんてない。むしろここまで夢を見させてくれて感謝してるくらいだ。そう思った。
帰りの電車がくると、みんなと別れて乗り込んだ。
「また、明日!学校でね。」なんて言って爽やかに手を振ったっけ。
扉が閉まり、電車が動きだす。夕暮れの電車の中は仕事帰りのサラリーマンや学生で一杯で空いている席なんてなかった。
仕方なく私は扉の近くの席の前に立つ。
今日は疲れたな。
1人になって、今日のことが思い出される。
決勝戦はそうそうたる面々が集まっていた。川島さんに、松崎さん、近藤さん…有名な選手ばかりだった。こんな人たちと走れるんだってワクワクした。
弾けるようなピストル音がなってからはもう無我夢中で駆け抜けた。周りなんて見えなかった。ゴール。それしか見えなかった。
走り終えた後、しばらくは膝を抱えて息をつくことしかできなかった。やりきったと思った。出せる力は全て出し切ったと思った。
しばらくしてゆっくり電光掲示板を見上げた。
私の名前の横には「7」の文字。その文字を私はしばらくの間見つめ続けていた。
あれだけ練習して、そしてその全てをあの場で出し切ることができた。
だから、私はレースが終わった後、どこか晴れ晴れとした気持ちだった。その気持ちに嘘はなかった。
そう、晴れ晴れとしていたんだ。でも、やっぱり私は……。
「あれ、なんで…?」
気づくと、目からは大粒の涙が溢れ出していた。
拭っても拭っても、とめどなく溢れる涙は押さえられなかった。
悔いなんてない、ないはずなのに。どうしよう。止まらない。
自分でもよくわからない感情が全身を置い尽くす。
立っていることもままならず、私はその場にしゃがみ込んでしまった。
その時だった。
「ねえ、よかったらどうぞ。」
20代後半くらいだろうか。長い髪を後ろに結んだ1人の女性が私に声をかけてくれた。
「でも、うう、私、高校生です。大丈夫です。」
涙で腫れた目を向けて答える。私は優先される立場ではないと思った。
「立っていられないような人は大丈夫じゃありません。いいから座りなさい。」
お姉さんは毅然とした態度でそう答えた。そして私を引っ張りあげるや否や私を席に座らせた。
「お姉さん、でも」
私が立ち上がろうとするとそっと肩に触れ、耳元でこう呟いた。
「何か……あったんでしょう?
いいのよ、私のことは。席が空いてるのに座らないのも落ち着かないから座ってただけ。
むしろ運動不足だから、立ちたいとすら思ってたのよ。
だから、いいの。気にせず座って。」
その人は片目でウインクをすると、その場を去って行った。
そして私は少し浮き上がった腰を静かに下ろした。
気づくと涙は収まっていた。そして入れ替わるように眠気が押し寄せた。
私は静かに目を閉じると、私の意識は心地よい眠りの中に包まれて行った。
家に帰ると、今日のことを改めて思い出していた。
大会のこと、あのお姉さんのこと。
そしてしばらくして、あることに気づいた。
あの席はロングシートの1番端だった。そう、
お姉さんが座っていた席はそもそも優先席ではなかったのだーー。
その瞬間、お姉さんの優しさが再び私の中に押し寄せ、温かく私の心を満たしてくれた。
そして思った。私もあのお姉さんのようになりたい、と。
朝7時。甲高い警笛を鳴らし、いつもの電車がホームに参り込む。
ホームに並ぶ人だかりはいつもより多い。今日は厳しい戦いになりそうだ。
ドアが開き、いつものように椅子取り合戦が始まると、瞬く間に席が埋め尽くされた。
唯一空いている席は扉と扉の間にある、ロングシートの真ん中の席。
この席、外に出るのが大変なんだよなあ。
心の中でそう呟きつつ、私は座った。
そう、いつものように『優先席』に。