トラヴィスと魔眼
レイヴンと別れ、トラヴィスの用意した研究室へ向かう廊下の途中。
反対側から部下を数名引き連れて歩いて来たその男は、待っていましたと言わんばかりに声を掛けて来た。
「お帰りなさいステラさん。また、突然何処かへ行ってしまわれたので心配しましたよ? 女性の一人歩きには気をつけて頂かないと。夜は何かと危険ですから……」
「……」
トラヴィスは魔眼の収まった目を開いてステラへと近付いていく。
瞳の無い黒一色の目。
相手の思考に入り込み、記憶を改竄する異能の力の持ち主。
「私には効かないわよ」
「クククク……。分かっていますとも。貴女には魔法が一切通用しませんからね。それ故、私はこうして直接お願いをしに来ているのですよ。我々と利害が一致している貴女に……」
分かりきった事を繰り返すトラヴィスにステラは苛ついていた。
釘を刺しに来たつもりなのだろうが、単なる嫌味でしかない。
いちいち癪に触る男だ。
「……」
「ですが、安心しました。私の杞憂だった様ですね」
ステラは再び歩き出す。
目的の為とは言え、こんな奴とこれ以上話をするのは苦痛だ。
今は横になって休みたい。
トラヴィスの横を通り過ぎたところで、また声を掛けて来た。
「ステラさん……」
「まだ、何か用?」
「クククク……。今の貴女は実に良い目をされていますよ。とても素敵な目だ。それをお伝えしたかったんです。それではまた……」
「……」
トラヴィスはそれだけ言うと、暗い廊下の先へ姿を消した。
部屋に戻ったステラは、鏡に映った自分の顔を見て苦笑した。
酷い顔だ。
透き通っていた青色の瞳は淀み、ステラの心がそのまま表れている様だ。
こんなに汚れた目でレイヴンを見つめていたのかと思うと吐き気がする。
レイヴンの私を見る目は、明らかに敵だと認識した者の目だった。
会いに行かなければ良かった。
鉱山の地下で……かつて一緒に過ごした家に現れたレイヴンを見て、心が揺らいでしまった。
幼い日のレイヴンは言ってくれた。
私の青い目が好きだと。
けれど今、鏡に映る自分の目はどす黒く淀んでしまっている。
「私を見るなぁッ!!!」
ステラは拳で鏡を叩き割った。
切れた手から滴り落ちる血が割れた鏡に映るステラの顔を塗り潰していく。
「ふふふ…あははは……。どうしよう、こんなに心が辛いのに、もう涙が一滴も出ない……。私が選んだ道は本当に正しかったの?」
ステラの問いに答える者は誰もいない。
僅かに開いた窓の隙間から吹き込む風がステラの赤い髪を揺らしていた。
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「南へ……? 何故、今向かう必要がある?」
アルドラス帝国皇帝ロズヴィック・ストロガウスは、南の大陸への侵攻を進言してきた第一騎士団団長トラヴィスを見下ろした。
「南には肥沃な大地が広がっております。また、魔物も強力な個体が多く、捕獲出来れば我々の目的に大いに役に立つ事でしょう。それに、南のーーー」
「待て。そんな事は分かっておる。だが、儂が聞きたいのは何故今なのだ? という事だ。先日の魔物混じり襲撃からまだ幾らも日が経ってはおらぬ。第八騎士団団長ゲイルを欠いた今、安易に動くべきではなかろう。帝国兵も貴族供も皆、疲弊しておる。今は時では無い。下がれ」
「はっ……」
進言を棄却されたトラヴィスは謁見の間から静かに退出すると、珍しく溜息を吐いた。
「トラヴィス」
「ああ、ルーファスさんじゃないですか。いつ帝国に?」
トラヴィスの目の前に気配も無く現れたルーファスと呼ばれた男は、フードを深く被り、顔には黒い仮面をつけていた。
「今し方戻ったばかりだ。それより何があった? ゲイルが死んだというのは本当なのか?」
「ええ、まあ……。いろいろありましてね。歩きながら話しましょう」
「分かった」
城の中庭へと続く通路を歩きながらトラヴィスは状況の説明を始めた。
「厄介な事になりましてね。先日、中央大陸と外界を隔てている壁が消失したのを知っていますか?」
「ああ。北の山脈から見ていた。直ぐに再展開された様だが?」
「ええ。再び世界を隔てる壁が展開され、中央大陸への道は閉ざされました。実はその間に、少々ヘマをやらかしてしまいました」
やれやれといった風に首を振るトラヴィスを見たルーファスには、実はトラヴィスが今の状況を楽しんでいるだけだと直ぐに分かった。
頭も良く、腕も立つ。しかし、トラヴィスの人格はとてもまともとは言えない。その性格でよく騎士団長が務まるものだと、ある意味感心する。
「ゲイルが死んだ理由と関係があるのか?」
「それもあるのですが、例の魔物混じりの襲撃を受けました」
「何だと⁉︎ お前がいながら何故そんな事になる?」
「それについては弁解のしようもありません。凄まじかったですよ。あの力、魔剣の物だけでは無いでしょう」
「それ程か」
帝国内で随意一の実力者であるトラヴィスにここまで言わせるとは、例の魔物混じりは相当に厄介な相手らしい。
「アレは化け物です。理性が残っていたところをみると、あれが全力と言う訳では無いのでしょう。しかし、早い段階で力の一端を見れたのは幸運でした」
「幸運だと?」
「ええそうです。アレと対峙してみてよく分かりました。あんな化け物に戦って勝つなんて事は不可能でしょう。実験ついでに魔物の大群を差し向けてみたのですが、見事に一蹴されてしまいました。私やルーファスさんでも倒すのが難しい魔物を剣の一薙ぎで倒してしまうのですから、呆れてしまって……夢でも見ている様でした」
「随分と楽しそうだな」
言葉とは裏腹に、トラヴィスの表情は晴れやかだ。
とても悩みのある人間の顔では無い。
「そうでもありません。実験用に飼い慣らしていた魔物を全て倒されてしまいました。今も陛下に南への侵攻を進言していたのですが……」
「ふん。まあ、当然だろう。北と南の動きは不透明な部分が多い。下手に動けないのはお前も分かっていた事だろう?」
「騎士団を統括する立場にあるものでね。分かってはいても、時には無能を演じる必要もあるのですよ」
「面倒な事だ」
「ええ、本当に……」
トラヴィスの魔眼にはいくつも制約がある。
相手を術中に嵌めるには直接目を見る必要がある。
記憶の改変、改竄に関しても記憶の整合性が取れない様な規模だと効果が薄くなる。
そして、一度かけた相手には魔眼の効果を上書き出来ない。
便利で強力な力ではあるものの、扱いには苦労する代物だ。慎重にならなければならない。
「俺も報告しておきたい事がある」
「確か、北の国境調査でしたか?」
「ああ。北の連中にはまだ主だった動きは無い。だが……」
ルーファスは顎に手を当て考え込む様な素振りを見せる。
「ん? どうしたのですか? 何か言い難い事でも?」
「そうでは無い。トラヴィス、国境辺りに未開のダンジョンがあるのを知っているか?」
「ええ。あの場所には私も以前から興味を持っていました。しかし、国境が近過ぎて調査に向かおうにも陛下のお許しが出ません」
「そうだろうな。あそこの近くを通った時だった。見たことのない一団が近くでキャンプを張っていたんだ。見たところ冒険者と呼ばれる連中の様だったが、何処の所属なのか分からなかった。よもや南の連中ではあるまい……」
「もしや……」
トラヴィスは基本的に帝国領から動かない。勿論、表向きにという事だが他国の調査をしていない訳では無い。ルーファス達諜報員の他に子飼いの部下がいる。その情報によれば北に他国に手を出す余裕は無く、南はなんの動きも無かった筈だ。
「心当たりがあるのか?」
「可能性。という話ですけれどね。中央の冒険者である可能性があります」
「中央の? だが、世界を隔てている魔法の壁が解かれていたのはほんの僅かな時間だった。有り得るのか?」
「元々、壁の境に居たとすれば充分に考えられます。偶然迷い込んだのか、それとも予め予定されていたのかは分かりませんが」
これまで外界との関わりを閉ざしてきた中央大陸の連中が、自分から外界へ来るとは考え難い。
であれば、前者の理由が濃厚という事になる訳だが、わざわざ国境付近のダンジョンに行く理由が分からない。偶然にしてもあの辺りは高い山脈がる。普段とは違う場所に来た事くらい気付いているだろう。
「そうか。念の為に俺の部下に調査をさせよう。妙な動きをすれば直ぐに分かる」
「お願いします。私はこれから少々立て込みますので、その辺りの事はルーファスさんにお任せします」
トラヴィスは立ち止まると不気味な笑みを浮かべた。
美しい顔立ちをしているトラヴィスのこの笑みだけは何度見ても慣れない。
「あの女か?」
「そうです。我々はどうにかステラさんをこちらに引き入れる事に成功しました。『願いに叛旗を翻す者』彼女がいれば、あの魔物混じりは抑えられます。我々の研究にも大いに貢献してくれる事でしょう」
「成る程。それについては俺は門外漢だ。だが、良いのか?」
「何がです?」
「警戒すべき者は他にもいるだろう。中央から動かない二人はどうするつもりだ?」
中央大陸にいる三人の化け物。
その中でも剣聖、賢者の二人は要注意だ。
強大な力を持ちながら、目立った動きを見せず。中央から動かない。
明らかに外界の動きを警戒している。
トラヴィスは特に表情も変えないまま淡々と言った。
「どうもしません」
「何?」
「今までは世界を隔てる壁の不安定な部分を上手く利用すれば、情報収集が可能でした。しかし、再展開された壁は以前の物よりも強固な術式が組まれています。つまるところ、調べようにも打つ手が無いのです。お手上げです」
「……」
「大丈夫ですよ。その為のステラさんです。いずれ彼女が世界を隔てる壁を解除するでしょう。そうなれば……」
「あまりあの女を信用しない方が良いと思うがな。北と南の動きもはっきりしない上、東の大陸については情報が一切無い。迂闊に動くと足元を掬われるぞ」
東の情報は非常に貴重だ。近付く事も困難な魔法の壁を越える技術が開発されてからある程度の情報を得る事が出来る様になって来た。しかし、中央大陸に棲息している魔物は強力な個体が多く、一番近いドワーフ達の住む街へ行くのにも相当量の物資や手練れを用意しなければならない。
その為に功を焦った貴族を差し向けたりもしているが、効果のほどは今一つだ。
「ルーファスさん」
「何だ? 俺の言っている事は間違っているか?」
「いえ、陛下と同じ様な事を言うのですね」
「……くだらん。俺はもう行く。何かあれば報せてくれ」
「分かりました。それではまた……」
ルーファスが音も無く姿を消した後、トラヴィスは中庭にある噴水の前で一人、笑いを堪えていた。
北と南の情報が無い? 東の情報も無い?
当然だ。
情報を遮断しているのはトラヴィス本人なのだから。
「実に滑稽ですね。帝国でも指折りの諜報員が魔眼の術中にはまっているなんて。私は私の研究さえ成功すれば、他の事などどうでも良いのです。東の連中に復讐出来るなら、帝国など……おっと、つい言葉が過ぎました。帝国には頑張って貰わないといけません。ああ……待ち遠しいですねえ」




