第十二話 異変
「眠れ」
腹の底に直接響く太く低い声をした老竜は、ミアが外そうとしていた腕輪ごとミアに魔法をかけて、一瞬のうちに魔力の暴発を抑え込んだ。
(そんな!腕輪が……!)
半端に竜化した体からは竜燐が剥がれ落ち、強制的に抑圧されて行き場を無くした膨大な魔力が再び腕輪に吸収されてしまったの見たミアは瞬時に悟った。
竜化を抑える腕輪は着用者の魔力に馴染んで同調するように出来ている特性上、外部から干渉出来るのは本人以外には製作者だけだ。
ならば既に竜化の段階に入って高まっていた膨大な魔力を強引に抑え込み再び封印を施せる存在は一人しかいない。
(まさか!お爺、ちゃ……ん?どうして今更!だ、駄目!私が今やらないと!)
だが打つ手はまだある。
腕輪を完全に破壊すれば制御の全てを失う代わりに干渉を受ける事は無い。
「無茶なことを……」
ミアは力を振り絞って咄嗟に腕輪の破壊を試みたが、落胆したような呟きと共に重ね掛けされた魔法、はミアの思考を急速に低下させた。
それによって起きた体への反動は凄まじく、声を出す事はおろか指一本動かす事が出来なくされてしまった。
「ミアさん!!!」
「常世の……邪魔だ」
「うぅ……!」
すかさず助けに入ろうとしたクレアを巨大な竜の尾が風を切る唸りを上げて弾き飛ばした。
(ほう、これだけの体格差がありながら僅かにだが堪えたか。やはり油断ならん。レイヴンとの魂の繋がりが他の者より数段強い)
レイヴンの魂に近い者ほど強い恩恵が与えられる。その現象はまさしく神族のそれだ。
特にクレアはほんの一部ながらレイヴンの力を模倣する能力も魔剣エターナルと共に備えている。
しかし、今はまだクレアは雛の状態だ。己の為に戦うことを知らない。
(羽化を始める前であったのはあやつの見立てか。成る程、此度の計画を突然前倒しにした訳だ)
巨大な竜は、ミアが無事である事を確認するように視線を動かすと、後に続いていた数名の竜人に命じた。
「連れて行け。目が覚めても事が終わるまで抜け出さぬように見張っておくのだ」
「「ハッ」」
空に影を落とす程に巨大な翼を羽ばたかせて長い首をもたげる黄金竜の出現。
凶々しい気配は無い。強いて言うなら精霊王翡翠の力を顕現させた時のツバメちゃんの雰囲気に似ているだろうか。
圧倒的な存在感は、その場にいる誰もを上回っていた。
「クレアちゃん大丈夫ですか?!」
「う、うん。私は大丈夫だよミーシャお姉ちゃん。それより……」
「はい。あのおっきな竜が現れた瞬間からピタリと止んだんですよ。私にはもう何がどうなっているのか……」
ミーシャの言う通り、あれだけ激しかった竜人族からの攻撃が止んでいる。
竜人達がいた場所には人影も無かった。
(急にどうして……。目的を果たしたから?でも一体何の為に?)
竜人達の無意味にさえ思えた魔力弾の砲撃に唯一意味があったとすれば、周囲のマナの濃度が異常に増した事くらいだ。
(まだ他に目的がある?だけどまだ分からない)
クレアが元いた天界と魔界の狭間にある常世は肉体を失った魂が転生を待つ場であった。その常世は深い闇に包まれ、転生する間に少なからず生じる魂の劣化を防ぐために大量のマナで空間が満たされていた。
だが、この戦場と化した天空をマナで満たす意味は無い。無い筈だ。
結論の出ないまま時間だけが過ぎて行く。
ここはマクスヴェルトの言葉を信じるしかないと判断したクレアは、一先ずミーシャとルナを守ることを優先することにした。
老竜は巨体からは想像出来ない速度で移動すると、マクスヴェルトの周囲に展開された結界に無造作に爪を立てて抱き抱えるようにして力を込めた。
何かが反発するような衝撃の後、ミシリと不穏な音が響き、ガブリエルとフォルネウスの二人掛かりで手も足も出なかった結界に亀裂を生じさせた。
「天地を砕く恩恵を持つと言われる竜の爪と牙。初代竜王と同じ力か。まさかこの神聖魔法を流用した結界にすら有効とはね。厄介だけど……良かったのかい?その姿、長くは保たないでしょ?」
「……」
「ようやく出て来たっていうのにダンマリとは……。世界の意志か何か知らないけれど、邪魔をするならいくら貴方が相手でも容赦はしないよ」
結界に生じた亀裂は立ち所に修復され、マクスヴェルトはゆっくりと冷たい視線を老竜へと向けた。
だが老竜はマクスヴェルトには目も暮れず、真の姿を晒して息を切らしているガブリエルとフォルネウスに向かって再び口を開いた。
「何をもたついている。異界への扉を完全な形で開くのが主等の役割であろう。我等との約定を破る気か」
マクスヴェルトと戦っていた天使と悪魔の軍勢は誰に命令される訳でもなくそれぞれ武器を納めると、一斉にガブリエルとフォルネウスの背後に静かに控えた。
「まさか。扉の定着には時間がかかるのですよ。それよりもその輝き、原始の竜ですか。最後の生き残りが貴方のことだとは思いませんでしたよ。お目にかかれて光栄です。……元族長ダン殿」
ガブリエルはやや皮肉混じりの微笑を浮かべながら大袈裟に礼をして見せた。
「なんと……」
自分の主以外には絶対に頭を下げない大天使の行動に背後で控えていた軍勢から動揺の混じった驚きの声が漏れる。
初代竜王と共に天空を駆り神と悪魔の連合軍を打ち破った戦いは、世界が刻む長い歴史の中でも一つの伝説として残っている。
当時はまだ軍団を持たない天使の一人であったガブリエルもあの戦いに参戦していた。
敗色濃厚の劣勢を物ともせず大空を縦横無尽に翔る勇敢な様は、正に天空の覇者といった風格であり、命を賭して一族の命運を掴み取ろうとする不退転の気高い生き様には敵ながら深い尊敬の念を抱いた事を覚えている。
天界、魔界それぞれの精鋭揃いの軍団と言えど、原始の竜とでは存在の格が違い過ぎる。
兵士達が動揺したのも無理からぬことなのだ。
「その姿を人前に晒したという事は、今回の件、竜人族が本気であるという証明でしょうか。ですが、今は邪魔をしないで頂きたい。貴方の出番はまだの筈です」
「そうだぜ。心配しなくてもアレは既にこちらの手にあるんだ。あの化け物が何をしようが無駄だ。今はマクスヴェルトを排除するのが先だ、先」
目の前にいるのが世界に唯一残っているであろう偉大な原始の竜だという気負いを感じさせない砕けた物言いは、代理者であっても世界の管理者として対等であるという表明であった。
「ムカつくけど僕も同意見だ。だいたい今更出て来るなんて随分とのんびりしてるよね。それと、自分の大切な存在だけ守ろうとするのも相変わらずだ。爪と牙は脅威だけれど、聖剣デュランダルを持たない今の貴方が相手なら僕一人でも勝てる」
「フン……。はったりだな。お前にそれだけの力があるのなら、この二人を相手に何を手こずっている?」
「なんなら試してみるかい?僕は三対一でも構わない。その方が時間が省ける」
前へ出たガブリエルとマクスヴェルトは、魔力を高まらせたまま老竜と睨み合いになった。
互いに譲る気は無いようだ。
一方でこの状況が面白く無いのはフォルネウスだ。
老竜ダンの言う通りマクスヴェルトの発言はおそらくはったりだ。
まだ何か手を隠している可能性もあるが、無尽蔵とも言われたマクスヴェルトの残り魔力も既に限界が近いだろう。そこへダンが加わったらマクスヴェルトには万に一つも勝ち目は無いと思われる。
魔人レイヴンを異界へと幽閉して世界が抱える歪みがこれ以上拡がらないようにする。
それで全てが終わる。
そういう筋書きだ。
が、それでは困るのだ。
マクスヴェルトの魂を奪うには乱戦である事が望ましい。
どさくさに紛れる事こそが肝心なのだ。
(想定していたよりも強い事は認めてやる。二つの軍勢を相手にしていなければもう少しマシな戦闘をしていただろうが、こっちは醜態を晒してまで機会を伺ってたんだ。今更三対一なんて御免だぜ)
マクスヴェルトの魂を手に入れたい。不可抗力に見せかけて、あの輝く魂を奪うのだ。
(……にしても、どいつもこいつもビビリ過ぎじゃないのか?)
魔王アイザックが世界を相手に反旗を翻した戦いから数百年。
現在も残る大戦の傷跡は未だ深く、アイザックの弟アラストル一人にさえ満足に対応出来ない現状も実に嘆かわしい事だ。
支配権のはっきりしない魔界で再び過去の大戦のような犠牲があれば、三大種族の均衡を保つどころではなくなってしまうのは理解出来る。だからと言って、魔人レイヴンの仲間達への対応にまで慎重になる必要があるのか疑問に感じていた。
フォルネウスに命じた上位の悪魔達は今回の件で最も重要な事は魔人レイヴンの排除だと言った。だがしかし、それと同じくらい重要な命令が実はもう一つある。
それは魔人レイヴンの仲間の命を絶対に奪ってはならないという事だ。
これはレイヴンが怒りによる報復として天界と魔界を敵に回す事態を危惧しての事では無い。
魔人レイヴンが魔物堕ちによって暴走した時、マクスヴェルトは一度命を落としている。にも関わらず、マクスヴェルトが当然のように生き返った事が問題だった。
あれは生命の再生だ。
自らの魂に連なる者を復活させる事の出来る秘術。神族の最上位者のみが持つ異能で間違い無い。
神族の行いは全てが善であり、あらゆる事象は違和感なく肯定される。
現に禁忌に触れる事に敏感だったレイヴンの仲間達は疑問すら抱かずにマクスヴェルトが生き返った事を受け入れている。
他にも魔物の発生源をダンジョン内に限定し、ダンジョンそのものの構造も大きく変化させた。これも冒険者と呼ばれる物達も疑問に思っていないようだ。
これは危険な傾向だ。
強大な魔の力を持つレイヴンが神の力にまで目覚めた証であり、今後願いの力によって改変された世界もまた肯定される恐れがあるという事に他なら無い。
神と悪魔、そして願いの力。
三つの強大な力を一人の人間が操れるなど誰が想定出来た?
(せめて魔王が健在ならこんな面倒は無かった。やはり盟約など無視してレイヴンを手駒にするべきだったか……)
絶世の美女や傾国の美女、どんなに不器量な女を伴侶としようが、魔王がそれを良しとしたなら否は無い。
産まれて来る子供が魔王をも超える資質を持ってさえいれば魔界の統治は安泰だ。
そうであれば無駄な覇権争いで自分の手駒を減らすことも無い。
だが、魔王アイザックはよりにもよって神の眷属を伴侶に選んだ。
末端とは言え、神の血を引く者を選ぶとは遂に暴虐の魔王の時代も終わりかと激しく怒り落胆したものだ。
ただし、その子供であるレイヴンの力を恐れて手を出さなかったという見解は少し違う。
フォルネウスはレイヴンが人間の生活を捨てたなら魔物堕ちしてしまう前に魔界へ招くつもりだった。
勿論、自我を奪って傀儡とした上でだ。
その力がフォルネウスにはある。
それをしなかったのはレイヴンの成長と魔物堕ちの進行速度が想定以上だったからに他ならない。
あんな化け物を相手にするくらいなら、自分が魔王となる為に魔界の勢力全てを敵に回した方がマシだ。
人間達が言うフルレイドランクの魔物とは、世界の歪みから漏れ出した特別な魔物であり、世界が刻む長い歴史でもフルレイドランクの魔物を歯牙にも掛けない強者はほんの一握りしかいない。
そんな特別な魔物を一撃で仕留めることがどんなに異常な事か、人間達は本当の意味では理解していないのだ。
(問題はやはり魔人レイヴンだな。奴がこのまま何も抵抗しないとは思えない)
魔界を統治出来る力さえあれば神の血が混ざっていることなど些末な事だ。
自分よりも強い強者の存在への敬意は持っていても、寝首をかく隙を絶えず伺っている。
自分の座る椅子は自分で用意する物であり、実力を示す事が魔界に生きる者の全てだ。
魔人レイヴンの異常な成長速度を考えれば、迂闊な真似は出来るだけ避けるのが賢明という上位悪魔達の判断もあながち間違いだとも言い切れない。
上位の悪魔に出会っただけで自我を失いかけていた魔物混じりが、まさかこれ程の力を得るなど誰も想像もしていなかっただろうからだ。
何せ当時既に上級悪魔の中でも抜きん出た力を持つと恐れられたフォルネウスでさえ手を出すことを躊躇った挙句に放置するしかなかったのだ。
他の魔族が手を出せる筈もない。
フォルネウスは、自分が犯した判断の誤りと、上層部の消極的な思惑を思って心の中で失笑を浮かべる。
魔人レイヴンの力はあらゆる常識から逸脱した存在だ。魔物堕ちした時点で人間界の破滅は免れないと思った。
だが、蓋を開けてみれば結果的にあの場にいた数名の強者によって十分抑えることが出来ていた。あれだけの馬鹿げた力を持つ魔人をだ。
そこでフォルネウスが感じた死の予感は何だったのかという疑問が沸いた。
大悪魔であるフォルネウスでさえ抗う無意味さを思い知らされた初めての相手。
心に芽生えたのは真の恐怖だった。
大悪魔となって初めて感じる死の恐怖。あんな悍ましい存在が平然とした顔をして人間社会で生活しているのが信じられない。
だからという訳でもないが、いくらなんでも大袈裟だと思えてならなかったのだ。
(あの時は体内に宿す魔王アイザックの力と魔剣魔神喰いがあった。だが今の奴は所詮人間。魔剣もかつての禍々しさを失っている。人間となる過程で浄化の力を持つ神族の血が上手く作用したってところか。まあいい。もう少し茶番に付き合ってやる)
竜人ダンが真の姿を晒した事で膠着した今の現状を打破する方法を考えなければと画策し始めた矢先。
最初に膠着状態を破ったのはマクスヴェルトだった。
一時は成り行きが分からなくなってた戦いも、フォルネウスの見立て通りに望んでいた乱戦へと持ち込めそうだ。
「もう無駄話は止めにしよう。時間が無いんでね」
無防備な天使と悪魔の軍勢に対してマクスヴェルトは一切の手加減をしなかった。
新たに発動させた大規模魔法は、短距離転移を試みた者達ごと次々と屠っていく。
だがしかし、流石のマクスヴェルトも疲労の色を隠せなくなったようだ。
大規模な魔法を連続で発動し、禁呪の使用も厭わない戦い方は最初だけで徐々に魔法の精度を欠くようになっていった。
天使と悪魔の攻撃は通らなくても、ダンの爪や牙に耐えるには今まで以上に結界に魔力を割かねばならない。
慎重なマクスヴェルトがあえて先手を取ったのも、少しでも数を減らしておきたいという思惑からだろう。
そんなマクスヴェルトを見て、ルナは困惑した顔で掠れた声でうわ言の様に呟いた。
「なんだよ、それ……」
苦痛に顔を歪めながらも静かな殺意を剥き出しにしたマクスヴェルトの凶悪な魔法の数々には覚えがある。
レイヴンが迎えに来るまでの間、マクスヴェルトに魔法を教わっていた短い期間により強力な魔法を覚えようとして見つけた魔法書がある。生命や時間に関する秘術と禁呪の書き記された魔法書だ。
ルナも一度だけ目を通して実際にメテオレインを発動させた事があるが、禁呪に指定された術式は、この世界にある魔法理論とは異なる点が多く、瞬時に原理を見抜くルナの特異能力をもってしても解読は困難を極めた。
独自の解釈を加えてなんとか読み解けたものの、発動可能な形に出来たのは一つだけだった。
だからこそ分かるのだ。
マナの輝きと漏れ出す魔力から一瞬だけ見えた術式は、どれもマクスヴェルト自身が禁呪として書庫の一番奥へ厳重に封印していたものだ、と。
マクスヴェルトは禁呪を使うことを嫌っていた、というよりわざと使わないように避けていた節がある。
冒険者の街パラダイムが襲われた時、ニブルヘイムの王都が襲われた時、そして世界樹の根が造り出した地下世界でもマクスヴェルトは攻撃魔法を放つ事もせず戦闘にも参加していない。
レイヴンとリヴェリアが認める大魔法使いがその場にいながら何もしないというのは変だ。
なのに今はわざわざ相手を挑発する様な言動を繰り返しながら惜し気もなく禁呪を使用している。
魔法の深淵を目指しながらレイヴンの為に生きて来たもう一人の自分。
それが致死効果の高い魔法を惜し気もなく使って天使と悪魔の軍勢を駆逐していく姿には、願いを魔法にしようとした優しい魔法使いの面影は微塵も無い。
目の前に立ち塞がる敵を肉塊に変えることのみの目的で魔法を放つ姿は見たくなかった。
魔法を向けているのは本能で行動し問答無用で命を奪いに来る魔物ではない。
相手は知性と理性を持つ存在。自分達と同じとは言わなくても魔物と同じ様に考えるのは間違いである筈だ。
魔物堕ちしたレイヴンの一件が落ち着いた頃、他の禁呪を教えてもらおうとマクスヴェルトに頼んだ事があった。
その時には予想通り素気無く断られたが、こうも言っていた。
『禁呪一つで地形を変えてしまう程の威力がある事もそうだけれど、生態系にまで影響を及ぼしてしまう危険性がある魔法は、とてもじゃないけど人や生物に対しては使えないよ。
どんな事情があったとしても、一方的に、それも無造作に大多数の生命を奪ってしまっては、死んだ人の魂は行き場を失ってしまう。
それにね、禁呪には術者の願いなんて物ありはしないんだ。あるのは破壊と殺戮。それと、後悔と憎しみだけさ。
それでは何も生み出さない。何も始まらない。掴めない。
何度も言うけど、魔法は術者の願いであるべきだと僕は思っているんだ。術者の心の籠っていない魔法なんて魔法じゃない。それは只の事象で、絶対に魔法なんかじゃないんだ。
ルナの言いたい事も分かるよ。常世の姫と完全に同化したクレアの急成長には僕も注視してる。だから焦る気持ちは分かるのだけれど、ルナにはこんなものは必要ないと思うなぁ。ルナはもう素敵な魔法が使えるでしょう?禁呪なんて覚えたって強くなんかなれないよ。たった一つの願いも叶わない』
少なくともマクスヴェルトから読み取った特大魔法には純粋な願いが込められている。
効果なんて分からない。どんなに無茶苦茶でも、願いがあるならそれはマクスヴェルトの魔法だ。
「こんなの間違ってる……。こんなものは魔法じゃない。そうだよね?マクスヴェルト……違うって言ってよ」
ルナはマクスヴェルトが指を鳴らす度にマクスヴェルトでは無い何かになっていく気がして縋るように漏らした声は、再び始まった戦いの喧騒に飲まれてしまった。
ーーーーーー
皆が激しく動揺する中で、ロズヴィックはただ一人表情も変えずに黙って成り行きを見守っていた。
マクスヴェルトの本性があまりにも恐ろしいものであった事実はクレア達を激しく動揺させたようだが、ロズヴィックにしてみれば今日までマクスヴェルトが今の様な凶暴性をずっと隠し続けて来られた事の方が不自然だと考えていた。
魂に刻まれた名“ルナ”
それの名を捨てる意味は、絶望は、如何程だった事か。しかし、それは覚悟の表れでもある。
月が太陽を失っては本来の輝きを放てないように、元いた世界でレイヴンを失った今のマクスヴェルトは偽りの光を放っている。
願いを魔法としたマクスヴェルトも、敵を殺す手段を魔法としたマクスヴェルトも、どちらも本当の意味では満たされてはいない。
(マクスヴェルトよ。お前はどうしようもなく歪んでいる。本気でこの世界で生きるなら、お前にはまだ越えなければならない運命がある)
かつてルナと呼ばれたマクスヴェルトの内にある狂気は、間違い無くレイヴンのそれだ。
名を与えられ、新たな肉体に宿った魂は強く輝いてはいても、光を届ける相手を失ったまま夕闇の中に立っている風だ。
レイヴンが自らの運命を掴み取ったように、たとえ世界の意志に逆らうことになったとしても、ルナはマクスヴェルトとして本当の意味で運命を掴み取らねばならない。
ロズヴィックは時空の狭間に漂う黒い霧を見て太陽が動き出すのを待つ事にした。
ーーーーーー
「くそが!こっちは真の姿まで晒してんだぞ!こいつ本当に人間か?!」
「忌々しいですね。魔法も物理攻撃も通用しない。攻防一体の単独行動可能な魔法使い。まさかまだこのような力を隠し持っていたとは……」
限界など遠に超えているだろうに、上級クラスの実力を持つ天使と悪魔の軍勢と無数の魔物を前にしても、怯むどころか攻勢に出てくる魔法使いなど聞いたことが無い。
対魔法への対処は完璧。苦手な筈の近接攻撃も見た事の無い異様に強固な結界によって無効化されてしまう。
このままでは悪戯に兵力を消耗させるばかりでレイヴンを異界へ追放するどころの話では無くなってしまう。
そんな焦りを見透かしたように、マクスヴェルトは次に放つ魔法の準備をしながら再び冷淡な目をガブリエルとフォルネウスに向けて言った。
「当然でしょ。僕の結界魔法はレイヴンの攻撃を凌ぐ為に改良されてきた物だよ?今のダンなら兎も角、君達程度の貧弱な攻撃が通用する訳が無い」
「言ってくれるじゃねぇか……」
「フォルネウス」
「チッ。分かってる」
二人は顔を顰めながらマクスヴェルトの言葉を聞いて素直に攻撃の手を緩めた。
これ以上安い挑発に乗る必要は無い。
ダンの攻撃がマクスヴェルトの結界に対して有効であるならば、自分達は無理に力を使わずに部下を使って消耗させれば良い。
軍団の兵力は随分数を減らされはしたが、疲弊の色が隠せなくなって来たマクスヴェルトを相手にするには十分だとの考えだ。
「もう足掻くなマクスヴェルト!お前一人で何が出来る!この世界を守るためにはレイヴンの存在は邪魔なのだ!」
「足掻くなだって?レイヴンの足掻きを良しとして放置していた貴方が、随分おかしな事を言うじゃないか!だったらどうして世界を隔てる壁の維持に力を貸してくれたのさ」
「ああしなければ世界はあの時滅んでいた!我等は最善を選択し世界の滅びを回避したに過ぎん」
「嘘が下手だね。素直に言ったらどう?」
「何だと?」
「貴方が本当に守りたかったのは世界なんかじゃない。初代竜王の正統後継者であるリヴェリアだけだ。他の誰が死のうとも、そんなことは初めからどうでも良かっ……!」
「……ッ!黙れええええーーー!!!」
「ぐああああ……ッ!!!」
怒り任せに振り下ろしたダンの爪がマクスヴェルトの結界を砕いて左腕を切り裂いた。
マクスヴェルトは肉が裂けて大量の血が流れる腕をそのままにして再度結界を展開した。
治癒魔法を使う余裕も無い。天使と悪魔達の攻撃をギリギリの所で防ぐのがやっとだった。
「己の世界を見限った貴様がッ!!!可能性を自ら閉ざしておいて知った風な口を叩くな!
あの子は!リヴェリアは!一族を背負い、世界の管理者たる一翼を担うべくして生まれたのだ!貴様等とは住む世界が違う!命の重さが違う!背負っている何もかもが違うのだ!!!」
耳を塞ぎたくなるような大音声を響かせて怒りに震えるダンを見て、マクスヴェルトは口元に僅かな笑みを浮かべた。
「なんだ……やっとらしくなって来たじゃん。長い付き合いだけど、初めて本音を聞けた気がするよ」
「……」
「成る程、貴方でも世界には逆らえない、か。その選択……結果的に多くの人を救うには必要なんだろうね。でも、僕にも目的があった。貴方と同じで世界がどうだなんて関係無い。僕は僕だけの目的を果たせればそれで良かったんだからおあいこかな」
叶わなかった景色を見る為になら、他の誰がどうなったって構わない。
そういう意味ではダンがリヴェリアやミアを大切に想い最優先に考えるのと同じなのかもしれない。
「……だけど、そんな事をしてレイヴンに嫌われたく無いっていう僕の想いは単なる思い違いっていうか、我儘だったんだよ。
あれは多分、僕の中に燻る未練。一方的な思い込みに過ぎなかったんだ」
「ならば……!」
「違うんだよダン。そうじゃないんだ。この世界で生きると決めた時、僕は魂に刻まれた名前を捨てた。今の僕はマクスヴェルトだ。僕の魔法はレイヴンが望む世界の為にある。でも、それだけじゃあ何も守れない。名を捨てた僕にその事を思い出させてくれた事に心から礼を言うよ」
マクスヴェルトはそう言うと、軽快なリズムを刻むように何度か指を鳴らした。
短距離転移と高い魔法抵抗力を持つとされる二つの種族を相手にするには点で攻めても効果が薄い。確実を期すなら複数を巻き込める範囲攻撃が望ましいのだが、問題は一人でこれだけの敵の相手をするには極力魔力の消耗を抑える必要がある事だ。
そこでマクスヴェルトは魔力消費の激しい範囲魔法は使わずに、単体火力に特化した致死性の高い魔法を面攻撃に置き換えて連続発動させる事にした。
これにより誘爆を起こして干渉し合った魔法は、周囲に効果を拡散する事となり、結果的に広範囲魔法一回分よりも少ない魔力で複数の敵を殲滅可能となった。
(これで時間が稼げる。そうさ……レイヴンはどんな状況だって諦めたりしない。諦めたり……)
残り少ない魔力を振り絞るのもこれが限界だろう。
どうにかなるだなんて見栄を張ったところで、とてもレイヴンみたいには出来ない。
立ち塞がる敵を薙ぎ倒し、不条理さえも捻じ曲げる。
元いた世界でも、こちらの世界でも、レイヴンはそうやって生きていた。
どんな状況でも諦めたりしない。それがレイヴンであり、ルナが憧れた世界に存在し続ける為の、生きる為に必要な自分だけの在り方だ。
レイヴンならきっと諦めない。
そう考えた時だった。
「うぐ……ッ!」
突然襲ってきた激しい頭痛によって魔法の制御が乱れてしまった。
待機させていた術式が無意味なマナの集合体へと霧散し、どうにか結界が解けないようにするので精一杯だった。
ダンは結界が僅かに緩んだ隙を見逃さずに爪を立てて穴を開け、よろめくマクスヴェルトを掴んで拘束した。
(なんと弱々しい。これがあのマクスヴェルトか……)
リヴェリアが親友を手にかけ自我を崩壊させた時、怒り狂った竜人族をたった一人で止めたのはマクスヴェルトだ。
ダンですら暴走する同胞達を止められなかったのをマクスヴェルトは無尽蔵とも思える強大な魔力と見たこの無い魔法で鎮めてみせた。今のマクスヴェルトにはその時の面影は見る影も無い。
マクスヴェルトはマクスヴェルトであろうとするあまり、大切なことを見落としている。
「こんなもの……!うぐあああっ!!!」
転移魔法を発動させる間もなく、ダンの爪がマクスヴェルトの体に突き刺さる。
「不用意に暴れれば心臓を貫かれて死ぬ。マクスヴェルトよ、もう気付いているのであろう?お前がこうしてこの世界に存在していられるのは“レイヴン” がお前に降り掛かる矛盾や歪みを肯定しているからだ。だが、それだけでは足りぬのだ」
「……?」
「貴様には恩もある。同情はせぬが境遇に何も思わないでもない。世界がお前の存在を受け入れたのであれば従うまでだ。
だが、此度はそうはいかぬ。世界はレイヴンを異物と判断した」
「ハァハァ……。何それ。まるで世界の声が聞こえるみたいに言うんだね。理にすら至れない管理者が……」
マクスヴェルトの指摘にダン、フォルネウス、ガブリエルの三人は何も答え無かった。
世界の意志、世界の声とは一種の啓示であり、具体的に何かを示す言葉とは違う。
啓示は無数にあり、三人の長の間で情報を開示し合い緊急性を照らし合わせているが、啓示の全てを実行に移している訳では無いのだ。
直接啓示を受けるダンはともかく、ただの幹部であるフォルネウスとガブリエルには啓示の示す詳細を聞いても真の意味を理解出来てはいない。
無数にある啓示の中で三人の長が共通の啓示を受けた場合にのみ実行に移されるものであり、取捨選択をしているという意味で管理者なのである。
ダンは弱っていくマクスヴェルトを見て頃合いだろうと確信した。
「……これが最後の警告だ。世界の意志に逆らうと言うのなら、儂の手でお前を殺す。もう抗うな。諦めろ。世界に太陽は二つも要らぬのだ」
「太陽が、二つ……?さっきら何を言っ……ううっ!」
ダンの何気無く言った最後の言葉が引き金となり胸の奥底に鈍い痛みが走る。
痛みは直ぐに体全体へと拡がり、魂をも締め付けた。
(何で今更……!こんな……)
絶望に埋もれたほんの僅かな可能性がマクスヴェルトの精神を激しく揺さぶる。
決して考え無かった訳じゃない。
でも、アレはもうどうにもならなかった。
打てる手は全て打ち尽くした果ての決断だった。
“本当に?”
頭の中で声がする。
反芻しながら大きくなる声。
心の奥底に閉まっていた世界崩壊直前の記憶が鮮明に甦る。
弱い自分に絶望して異界を彷徨った。
何度も挫けそうになりながらも、自分の心に折り合いをつけて新しい世界で生きていくと決めたのだ。
その選択は間違いでは無かった筈だ。
この世界のレイヴンはもう一人のルナであると気付きながら、世界の理を否定してまで受け入れてくれた。
もう二度とルナと呼ばれなくても、ようやく居場所を見つけられた事が嬉しかった。
だからレイヴンを守る為ならなんだってすると改めて誓った。
けれど、頭の中に響く声は残酷にマクスヴェルトの覚悟と誓いを否定してくる。
“後悔も絶望もし尽くした。僕は僕で、僕は僕じゃ無い。僕は何処にでもいるけれど、何処にもいない。如何なる時空、次元、刻を越えようとも、僕と世界の真実は一つ。僕は一人で、僕は一人じゃない”
かつて自分自身が辿り着いた世界の真実の一つが脳裏に浮かんだ事で確信してしまった。
最も恐れていた未来。いいや、最も期待していたと言うべきだろうか。
本当の望みを捨ててまでこの世界に存在する自分は一体何者なのだ。
「違う!僕は……僕はマクスヴェルトだ!僕はもうルナじゃない!ルナじゃ……うあああああああああああああ!!!」
苦痛に耐えられなくなったマクスヴェルトは、揺り起こされた可能性の影を振り払うように叫び声を上げて発狂しならがら限界を超えて魔法を乱発し始めた。
「マクスヴェルトさん!」
「おっと、テメェは動くな」
「そこでジッとしていてもらいましょうか」
「くっ……!」
近寄ろうとしたクレア達の前にフォルネウスとガブリエルの二人が立ちはだかった。
マクスヴェルトの周囲にある黒い霧は急激に濃さを増している。
踠き苦しむマクスヴェルトの魔法がダンの翼を裂いて身を焦がしても、ダンはマクスヴェルトを捕まえたまま離さなかった。
もう幾度も一緒に依頼をこなして握り慣れたエターナルが巨大な鉄の塊であるかのように異様に重たく感じる。
このままでは駄目だと思っても何一つ良い考えが浮かばない自分に苛立ちが募るばかりだ。
(私一人なら……。だけど、私には……)
いくら魔物を倒す力があっても、誰かを護りながら戦うことがこんなに難しいだなんて、大事な時に大切な人を護る力が無い事がこんなに歯痒いものだなんて思ってもみなかった。
手を伸ばせば届く。立ち塞がる敵を倒してマクスヴェルトを助けに行ける。
けれど、それではミーシャとルナを護れない。
レイヴンと同じ最強の冒険者の称号を得ても、肝心な時に何も出来ない自分が悲しいくらいに情けなかった。
(悔しい……強くなったのに何も出来ない)
冒険者を始めたばかりのレイヴンも、今のような力を手にするまでずっとこんな苦い思いを繰り返して来たのだろうかという思いがクレアの頭をよぎった時、レイヴンに昔言われた言葉を思い出した。
ーーー逃げたいなら逃げても構わない。誰もお前を責めたりしない。でもな、逃げられ無い時がある。守る為にだ。前にしか進めない時がある。前にしか道が見えない時がある。たった一人、暗闇の中を進まなければならない時がある。それでも前に進むしか生きる道は無い。立ち止まれば死ぬしかない。そういう世界に俺達は生きている。
(レイヴン、私は……)
クレアは今ならレイヴンが時折りこぼす言葉の意味が分かる気がした。
レイヴンが自分には魔物を倒すことしか出来ないと言った言葉にあるもう一つの意味がだ。
どうにもならない現実に立ち向かうにはもっともっと強い力が必要だ。
何者をも退け、我が儘を貫き通せるだけの圧倒的な力が。
不条理さえも捻じ伏せて、不釣り合いな理想すらも実現させる想いの力が。
そして、それを支えるのは揺るぎない意思の力であり、願う力だ。
そうでなくては大切な人を護れないことをレイヴンは知っているのだ。
誰かに理解されるとかされないとか、そんな事はどうだって良い。せめて手が届く限り精一杯力を尽くして足掻くのも、無茶ばかりするのも、至らない自分への苛立ちからではないだろうか。
だからレイヴンは最強の冒険者と呼ばれても言い続ける。
自分には魔物を倒す事しか出来無いのだと。
(これがアルフレッドさんが言っていた呪い……。だけど私は違うと思う)
隣に立ち同じ景色を見ることを夢見て来た。
認められる事が嬉しかった。
必要とされている自分はレイヴンの役に立っているのだと感じることが出来る。それだけで満たされていた。
けれども本当に同じ景色はまだ見えていない事に気付かされた。
レイヴンの背中はまだずっと遠くにある。
(……レイヴン)
クレアは魔剣エターナルを強く握りしめて唇を噛んだ。
決して無力な自分に落胆したからでは無い。今クレアが感じている不安や苛立ちは、レイヴンが昔も今も変わらず見ている景色と同じ景色がようやく見えたからこそ感じているのだ。
だがしかし、同時にこうも思う。
レイヴンが自身に課した強すぎる願いは呪いとなったが、諦めない強い想いは呪いを願いへと還して運命を掴み取る為の力となった。
最強と謳われるレイヴンですらそうなのだ。
ならば自分に力が足りない事を嘆いている場合ではない。
(マクスヴェルトさんはルナちゃんに魔法を解除させなかった。きっとまだ私が気付いていない狙いが何かある)
弱気になっていた自分を奮い立たせ、もう一度魔剣エターナルを握り直す。
今度はもう重くは無い。
強く握りしめるクレアの意志に応えるように魔剣エターナルが強く輝いた。
(不安にさせてごめんね。でも、もう大丈夫だから)
出来無い事を嘆いた所で何も変わらない。今の自分に出来る事を精一杯にやるのだ。
クレアの想いを反映して生まれた魔剣エターナルと一緒なら不可能など無いのだから。
「その目、気に入らねえな。まだ諦めてねぇってのか」
「知っていますよ。軟弱な器に魂を宿したばかりに常世の力を失っているのでしょう?貴女の魔剣にも心当たりがありませんでしたが、その程度の力しか無いのでは棒切れと同じです」
「……」
クレアは今にも斬りかかりそうな鋭い目で二人を見たが、それ以上は動かなかった。
ガブリエルの言葉はどうにもおかしい。軟弱な器であったのはトラヴィスが創った人工生命体であった頃であり、魔剣エターナルが今の力に目覚める前でもレイヴンの膂力に耐えうる素晴らしい人造魔剣であったからだ。
(どういう事?ずっと監視していたらしい事は間違い無いのに情報が古い?)
情報が古いままであるなら今以上の力が使える事は大きな武器になる。
これならどうにか二人を守りながら隙を伺えるかもしれない。
そう思い力を込めた時だった。
ーーードクンッ!!!
(この音、まさか……!)
地の底から低く唸るような心臓の鼓動が黒い霧の中から聞こえて来た。
鼓動に合わせるように再び鐘の音が鳴るが、その音はとても歪で、音色と言うにはあまりにも耳障りで不快な音だった。
やがて心臓の鼓動は鐘の音すらも消し去る程に一層激しくなり、濃く黒い霧のかかった空間がガラスのように粉々に砕け散った。
「すまない。待たせた」
普段通りの落ち着いた声。
漆黒の鎧に身を包み、聖魔剣ミストルテインに赤い雷を纏わせたレイヴンが姿を現した。