第九話 マクスヴェルトである事
昔からそうだった。
あと一歩を踏み出していればなんて状況でも、やれると確信していた時でさえも、僕は敢えて一歩踏み出すのをしなかった。
そうしないと、彼はどこまででも無茶をするから。
だってほら、僕まで飛び越えちゃったらいざという時に彼を守れないでしょ?
だからね、もしもその時が来たら僕が彼を止めるんだって、本気でそう思ってたんだ。
……だけどさ、笑っちゃうよね。
僕は結局、踏み出さなかった訳でも、踏み出せなかった訳でも無かったんだ。
本当の僕は臆病で、ズルくてさ……。いつだって彼の優しさに甘えて守られていただけだった。
君の背中を見ていると安心出来た。
必死になって追いかけて、それでも君は歩く速さを変えてくれなくてさ。何度も泣き言を言って君を困らせたのを覚えてる?
たまに振り返ってくれるのが嬉しくてさ。頭を撫でてくれた時なんか最高に嬉しかったよ。
だけど……。
それが心地良い事なんだって勘違いしてた。
“もしも” がいつか訪れるって覚悟してたつもりでも、実際には何も出来なかった。
あと一歩を踏み出す事をしてこなかった僕には君を救う勇気も、かけてあげる言葉も、力も、何もかもが無かったんだ。
そうだ。
分かってる。
僕は馬鹿で我が儘な子供のままだった。
どんなに息を切らして走ったって、腕が何処かへ飛んで行っちゃうんじゃないかってくらいに目一杯手を伸ばしても、僕には君を捕まえる事なんて出来なかった。
当然だよね。追いかける事、守られる事に満足して、君の隣を歩きたいだなんてこれっぽっちも考えていなかったんだから。
僕では君を救えない。
せめて支えになってあげたかったんだけど、やっぱり僕は心の何処かで君に甘えていたんだろうね。
結局のところ、僕は臆病なままだった。
肝心なところで君に助けられてさ。今度は僕が助けてあげたかったのに……。
でもね。今は違うよ。
ようやく力を手に入れたんだ。
随分時間がかかったけれど、これでようやく僕は一歩を踏み出せる。
あれからずっと探してた。
君は僕のものだ。
僕は君のものだ。
誰にも渡さない。
誰にも渡すもんか。
コレが本当の僕だ。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「やられた……アレが狙いだったのか」
そう呟いたマクスヴェルトは魔法を中断して黒い影へと視線を向けた。
レイヴンに纏わり付いた黒い影は、絡み付いた手の上から全体を包み込むように覆い被さっている。
だが、現時点でマクスヴェルトにはレイヴンの安否について不安は無かった。
それもそのはず、マクスヴェルトには一目見て影の正体が分かったのだ。
アレはとっくに捨てた筈の未練。
いくつもの世界を渡り歩くうちに膨れ上がったレイヴンへの執着心の成れの果てだ。
無理矢理押し殺した心の叫びは、執念の炎に焼かれて光を失い、闇に堕ちてしまった。
もうどうにもならないと諦めた感情の全てが、必死に忘れようとしで出来なかったルナとしての想いが、ドス黒く歪んだ愛情がそこにある。
その闇は異界の壁を超えて尚、一層深さを増していた。
アレに囚われては如何にレイヴンとて抜け出すのは難しい。せっかく組み上げた魔法も通用しないかもしれない。
しかし、こうも考えられる。
そうであるならば、アレはレイヴンを傷付けることは絶対にあり得ない。
マクスヴェルトがかつてルナとして生きた時間は全てレイヴンの為にあった。
たとえ成れの果てであったとしても、他の誰を傷付けたとしても。レイヴンだけは害したりはしないだろうという確信があった。
「マクスヴェルト。テメェはこっち側だ」
フォルネウスの差し出した手はマクスヴェルトを誘うように手招きした。
「僕は……」
フォルネウスの甘い声に意識が遠のく感覚に襲われたマクスヴェルトは、感情の渦に流されるように深い思考に陥った。
いくつもの“もしも” を思い描き、いくつものより良い未来を願って様々な世界を渡り歩いて来た。
数えきれない出会いと別れを繰り返し、全ての時間をレイヴンといる未来の為に費やした。
『いつか絶対にレイヴンを救ってみせる』
その想いだけで長い時間を生きて来た。
けれども、それはもう本当の意味では叶わない願いだと知っている。
『もうどうにもならない』
『今更もう手遅れだ』
『過去は忘れて新しい生活をすれば良いじゃないか』
『生かされた意味をもっとよく考えるべきだ』
そんな事を言う昔の仲間達の声はルナにとっては雑音でしかなかった。
抗いようのない滅びしか無いと分かっていても、もうレイヴンが笑ってくれなくても、自分のことを忘れてしまったとしても。
それでも最期の瞬間までレイヴンの側に居たかった。
そうであったなら死を迎えたとしても、どれ程幸せだったことだろうか。
この世界のレイヴンは自分の事を受け入れてくれたが、それはレイヴンが名付けてくれたルナとしてでは無い。
魔法使いマクスヴェルトとしてだ。
“それでもいい。側にいられるのなら、偽物だって構わない”
心の底に渦巻くモヤモヤを押し込めて、忘れたフリをした。
ずっと自分の本当の気持ちに嘘をついていた。
かつてのルナに笑顔を向けてくれたレイヴンはもう居ない。
元いた世界は魔物落ちしたレイヴンによって破壊し尽くされてしまった。
何もかもを破壊し、殺し尽くし、仲間も大切な人も手にかけるレイヴンの背中をただジッと見ている事しか出来なかった。
魔物の血と暴走した魔剣に翻弄され、泣き叫ぶように吠えて暴れるレイヴンの姿が今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
だが、自我を失う直前。レイヴンは最後の力でルナを異次元空間へと飛ばし、世界と共に滅びるしかなかった運命から逃してくれた。
震えを堪えて頭を撫でてくれた手はもう人の物では無かったけれど、優しくて温かった。
なのに異界と呼ばれる別の世界で目覚めた時、最初に口にしたのは怒りの言葉だった。
酷く醜い、汚い言葉を光の射さない曇天に向かって大声で吐いた。
他の誰をおいても自分を生かそうとしてくれた事への嬉しさよりも、最期まで一緒に居させてくれなかったことへの不満と怒りが、何も出来なかった自分への不甲斐無さが止めどなく押し寄せてルナの心を押し潰した。
そうして散々泣き叫び、喉が裂けた血が乾いて身も心も疲れ果てて体が動かなくなった頃。
今度は孤独がルナの心を縛り付けた。
無邪気に追いかけていれば良かった憧れの背中は、道標はもうない。
ルナにとって唯一の光が失われ、一体自分が何処に立っているのかすら分からなくなっていた。
生きる目標を失ったルナに押し寄せる強烈な虚無感に、心に僅かにあった炎は風前の灯火だった。
それでも生きて来たのは、レイヴンが救ってくれた命の意味を、最期の願いを叶えてあげたいと思ったからだ。
レイヴンが目指した未来。
魔物堕ちを心配しなくても良い世界。
子供達が笑って元気に森や野原を駆け、美しい自然で溢れた穏やかな世界。
運命に翻弄されて叶わなかった願いはルナへと受け継がれた。
しかし、それを実現させる為には大きな問題があった。
肝心の世界の理に至る為には、レイヴンと魔剣魔神喰いの力と同等か、或いは匹敵する力を持つ何者かの力がどうしても必要不可決。
世界の理へと至り、あらゆる事象を書き換える力で滅びの結末を変えるにはそれ等が最低条件だ。
だがしかし、管理者達ですら世界の理に干渉する術を持ってはいない。
ならどうすればいい?
“僕はずるい”
レイヴンの叶わなかった願いを叶える為に、別の世界で生きているレイヴンの力を利用する事にした。
レイヴンが最後に見せてくれた異界の門を開く力。あの原理を使えば、新しい魔法を開発して別の世界へと行く事が出来る。
そこでなら世界の理に至る道筋を探して元の世界に訪れた結末を書き換える事が出来る可能性があると考えた。
時間を巻き戻す前の一度目の生活ではフリーの魔法使いとしてリヴェリアやシェリルに近付いて旅をした。けれども、どういう訳か元の世界と同じにはならなかった。
理由は直ぐに分かった。
同じ世界に同じ人間は生まれて来ない。
皮肉にもルナである事が世界の歴史を変えてしまったのだ。
(そうだ。だから僕は名を変え、姿を変えた……)
レイヴンに名付けて貰った名前を捨てることは魂を引き裂かれるくらい辛い事だった。
それでも決断したのは、この世界のレイヴンの事を好きになってしまったから。
他の誰が元いた世界とは違っても、レイヴンだけはルナの知るレイヴンと同じだった。
不器用なくせに優しくて、本当は誰かといたいのに触れ合う方法を知らない。人一倍の寂しがり屋で、だけどどうすれば良いのか分からなくて。それでも歩く事を止めない。
いつしかそんなレイヴンの力になりたいと本気で思うようになった。
元いた世界を救うのでは無くて、今この世界で必死に生きようとしているレイヴンの為に何か出来ることはないだろうかと考えるようになったのだ。
新しい世界でリヴェリア達が差し伸べてくれた手は、マクスヴェルトとしての居場所を作ってくれた。
そうして掴んだ明るい未来。
レイヴンの為に費やして来た時間が報われたこと、この新しい世界で生きていける事を嬉しく思っている。
(けど……)
レイヴンが笑ってくれるなら耐えてみせる。“偽物” である事も、もう自分はマクスヴェルトである事も受け入れる。
その覚悟をしたつもりだった。
ただーーー
もしも自分の居た本来の世界で、目指した筈の未来を掴む事が出来ていたなら。
滅び行く世界の輪廻に終止符を打つ事が出来ていたなら……。
あの時、自分の素直な気持ちを言葉に出来ていたならーーー
今、ルナがいる場所にはきっと……。
「マクスヴェルト。もう一度言う。テメェはこっち側だ」
「……」
「異界への扉を完全に開く最後の鍵は貴方だ。門を開き自らの願いを叶えるのです。本当の居場所はここではありません。さあ……」
なんて甘い響きの声だろう。
天使と悪魔。
正に理性の天秤だ。
それも最初から酷く傾いた歪んだ天秤だ。
いいや、こんなものは天秤ですらない。
それでも惹かれてしまう。
言葉のままに魔法を発動させれば諦めた願いに手が届く。
夢見た光景を。
あの時言えなかった言葉も、もしかしたら。
後悔を乗り越えて生まれ変わる事を受け入れたマクスヴェルトの心は、これまでに無い程に揺れていた。
「さあ……」
心の内の奥底を見透かしたような甘美な誘惑にマクスヴェルトは溜まった唾をゴクリと飲む。
(僕は……まさか迷っているのか?)
レイヴンという失われた存在が再び異界に放たれれば、世界は滅びを回避する為にまた新たな歴史を刻み始めるだろう。
そうすればルナとして失った時間を取り戻せるかもしれない。
あり得たかもしれない未来を手にする事が出来るかもしれない。
この魔法一つでそれが叶うのならば、指を咥えて見ているだけだなんてあり得ない。
手を伸ばせば掴める。
この機会を逃す手はないとマクスヴェルトが考え始めた時だった。
「お前達のいいようにさせるもんか!エターナルッ!」
マクスヴェルトとフォルネウスの間に割って入ったクレアはエターナルを空中で振り抜いて見えない何かを斬った。
「マクスヴェルトさん、そんな言葉に惑わされないで!」
「クレア……!?その姿は一体……。というか僕は今何を……」
クレアの身体にはレイヴンの漆黒の鎧によく似た黒い鎧が装着されており、だだならない気配の魔力を放出していた。
模倣を得意とするエターナルがクレアの想像力に応えたのか、常世の力を使ったのかは分からない。ただ、鎧姿になったクレアには余裕が無いのが一目瞭然だった。酷い汗をかいて息苦しそうに肩で息をして無駄な魔力を垂れ流している。
「今のは言霊だよ。暗闇の住人には魔力やマナを使わずに相手を惑わす能力があるから」
「言霊?」
「その……私も使ったことがあるから……だから……」
「……いいよ。分かってるからそれ以上言わなくても大丈夫だよ。それよりもありがとう。助かった良い」
マクスヴェルトは頭を振って意識を集中する。
レイヴンに纏わり付いた影はまだこちらの世界には完全に出て来ていない。
あのまま迷わずに魔法を発動させていなくて良かった。そう思う。
「ルナ。悪いけどもう少しの間その読み取った魔法の発動は待って。僕に考えがある」
「考え?あるなら早く先に言ってよもう!だいたいこの魔法無茶苦茶だよ!そんなに長くは維持してられないからね!」
「その割にまだ余裕がありそうじゃないか」
「余裕なんか無いよ!頑張って無理矢理余裕が出来るようにしただけ!頭の中がごちゃごちゃだもん」
「そりゃあそうさ。形式には無い矛盾の先にある魔法だもの。ま、読み取ったのは大したものだと思うよ」
そう言いつつも、マクスヴェルトはルナが展開している術式を見て素直に驚いていた。
ルナが今使っている魔法はマクスヴェルトが提唱する想いによって魔法の効果を増幅させるという概念とは全く異なる概念から成り立つ魔法であったからだ。
マクスヴェルトが推察するに、ルナの魔法は魔法発動の元となる大気中のマナそのものを掌握するもので間違いないだろう。
例えばこれを戦闘中に仕掛けられた魔法使いは、せいぜい自身の肉体強化を行う事しか出来ず、魔力感知等の体外への魔力操作の一切が封じられてしまう。
ルナはそれを応用する事で脳内の魔法演算領域への負荷を低減させるという、マクスヴェルトですら知らない新しい魔法を発動させている。
(あの魔法はマナを操るけど、原則として発動させた術者本人の持つ魔力の総量には干渉出来ない。だからルナは本来魔法の発動と伝達に必要なマナを、あえて魔法という一連の事象とは切り離してるんだ。それを代用する事で自分の魔法演算領域を拡張しているのか。よくもまあそんなこと思い付くね)
術式を蓄積して待機させるには、どんなに才能のある魔法使いでも中規模程度までの魔法が一つか二つがせいぜいだ。
それ以上は術式が只の記号の羅列となり、新たに術式を組むよりも時間がかかってしまう。
それらの問題点をルナは咄嗟の機転で克服してみせた。
先ず術式をマナによる配列に全て置き換え、更にマナの相対位置を周囲の空間上に固定する。
次に固定したマナの形状をイメージ記憶のように自分の魔法演算領域と結びつけて仮の術式を形成した一つの物体として待機させる。
周囲の空間全てがルナの魔法演算領域の代わりを担っているという事は、マナに干渉する為の魔法を待機又は常時発動状態にしておくだけで、あらゆる魔法術式に対して脳内のイメージだけでアクセス出来てしまう。
あらゆる状況に柔軟に対応可能なだけでなく、構築中の術式から次の一手を相手に読まれる心配が無い非常に有利なものだ。
はっきり言って出鱈目だ。
魔法の連続発動、複数同時発動を可能にし、術者の魔力が続く限り待機させてある魔法を即時発動可能になるという点だけでも、ルナの魔法使いとしての才能が以前と比べても遥か高みにあることが分かる。
最早『才能』の一言では片付けられない。
(レイヴンの『魔神喰い』やクレアの『魂を喰らう力』とも違う。マナを完全掌握する力か……。これは僕にも無い、ルナが独自に見出した能力だね)
こんな無茶苦茶な発想は普通の魔法使いには絶対に思い付かない。たとえ浮かんだとしても、実現させようとして壁にぶち当たるのは目に見えている。
魔法という事象を深く理解し、原理を見抜くルナの眼と今やマクスヴェルトに迫る潤沢な魔力があって初めて可能な荒技だ。
原理を自在に操る行為は魔法、魔術を志す者にとって、理想系にして究極系。
全ての術者が目指すべき頂の一つと言っていいだろう。
マナの存在を漠然としか感知出来ない魔法使いからしてみれば、理解の範疇を大きく逸脱した正しく言葉通りの魔法である。
(しっかし、これだもんなぁ……。僕にはあれが限界ギリギリだったのに。まったく嫌になるよ)
魔法や魔術にとってなくてはならないマナを自在に操る能力だなんて反則級の能力だ。
ルナという魔法使いは全ての魔法使いの天敵となり得る存在と言えるだろう。
因みに、マクスヴェルトにも同様のことが出来るのか。
その答えは否だ。
ルナの能力はレイヴンとクレアをサポートすることに特化し磨き上げられたものだ。
誰も後悔しなくても済むように、レイヴンとクレアが心置きなく全力を出せるようにと、マクスヴェルトとして生きることの無かったルナがルナとして導き出した答えだ。
(これももう一つの可能性。僕とは違う未来を願ったルナの力……)
それに対してマクスヴェルトが習得した魔法の殆どは、レイヴンの妨げとなる存在を打ち倒す為にある。
魔法に特化する事を選んだ後も近接戦闘も最低限は鍛えてあるのだが、それらはやはりレイヴンの足手纏いになる事を恐れての事で、ルナが選択した在り様とは根本的に違う。
(当たり前か……。僕はかつてルナであった者。マクスヴェルトとして磨き上げた魔法とは違って当然だよね。さて……)
フォルネウスの口から出た言葉は空気を振動させた波長を利用して相手の思考を操る言霊。
通常相手が油断していない限り効果は薄く、強い空気の波長を起こすには基本的に無風が良いとされている。しかし、此処は遮る物の何も無い空中だ。強い風が波長を乱して言霊が効果を発揮し難い。
つまり、クレアが斬ったのはおそらく空気中に発生した振動そのものだ。
(クレアは元々闇の世界、常世の住人だ。悪魔であるフォルネウスと同系統の能力を使えたとしても不思議じゃないけど、そうか……だからあの時……)
悪魔という種族は力の無い者に対しては容赦が無い。なのにこの場で一番力の弱いミーシャを最初に挑発の対象にしなかったのは、ミーシャが風の精霊使いだからだ。
下手にミーシャの魂を揺さ振って精霊魔法で空気を掻き回されるのを警戒したと考えれば合点がいく。
だがもう一つ何かが引っ掛かる。
そこまで繊細な言霊をこんな状況で使うには何か別の確信出来る何か別の要素があったに違いないという疑念。
あっさり掛かったのには何か別の要因、理由もある筈だ。
「そうか、分かった」
「どういう事?」
「クレア、説明してあげたいけど、今は時間が無いからね。先にこれだけ言っておくよ」
マクスヴェルトは警戒を怠らないようにしているクレアの耳元に顔を近付けた。
「これから僕がやる事を信じて欲しい。それから勿論レイヴンの事も。悪いようにはしないから」
「……?」
クレアにはマクスヴェルトが何を言っているのか分からなかったが、真剣な目を見て黙って頷いた。
「おいおい、マクスヴェルト。そんなに悠長に構えていて良いのか?さっさと魔法を発動させちまえよ。楽になるぜ?」
「お生憎様。もうその手には乗らないよ」
マクスヴェルトは指を鳴らして魔法を発動させると、フォルネウスの口から発せられる空気の振動を遮断した。
「こんなちゃちな物に引っかかるだなんて、ちょっと感情的になり過ぎてたみたいだ。頭を冷やさせてくれて感謝するよ」
「チッ……」
フォルネウスは煩わしそうに舌打ちするが、表情に殆ど変化は無い。
面倒くさそうに腕を軽く振って装飾品が音を奏でると、クレアに向けていた魔物達を帰還させた。
「だから言ったのです。程々に、と」
「まさかこんな簡単に見破られるとは思わなかったんだから仕方ねぇだろ。言っとくが、これでも自重してるんだ」
「まあ良いでしょう。我々も少々お遊びが過ぎました。時間もあまり無いですし、もう実力行使しかないようですね」
「お、良いねぇ。じゃあ、あの餓鬼は俺の獲物だ。あいつからは俺達と同じ闇の臭いがする」
「ならば私はそれ以外をーーー」
ガブリエルとフォルネウスが障壁を解いて戦闘態勢に入ったのを見たマクスヴェルトは、二人が大きな勘違いをしていることに気付いて手を叩いた。
「ああ、そうか!君達は何か勘違いしてるみたいだからはっきり言っておくよ。アレの存在は確かに脅威だけれど、まだこちらの世界に干渉出来る段階に無い。そして今後もそれは変わらないよ。そもそもアレは君達程度の使い走りには手に余る存在だ。なのに上の連中が直接動かないのはどうしてなのかずっと気になってたんだ」
「はあ?頼みの化け物は身動き一つ取れねえってのに随分な大口を叩くじゃねぇか」
「そうかい?」
マクスヴェルトが指を鳴らして何かの魔法を発動させると、フォルネウスは大きく仰反るように体を跳ねさせて大量の黒い血を吐いた。
「ゴフッ!!!」
「フォルネウス!?」
「ぐえええッ……!あの野郎やりやがったな!」
「アハハハハハハ!流石大悪魔なだけはあるみたいだね。二つや三つ心臓となる核を潰しただけじゃまだ動けるんだ」
「ま、マクスヴェルト……さん?」
驚いたクレアは背後のマクスヴェルトを見てゾッと背筋が凍るような感覚に襲われた。
表情はいつものように飄々としているのに、目が笑っていない。
暗闇よりも一層暗い黒く染まった目は、まるで常世の魔眼を宿したトラヴィスのように光を吸い込んでしまいそうな程だ。
「大丈夫。クレアには他にやってもらいたい事があるから、ここは僕に任せて」
マクスヴェルトの体から静かに立ち登る魔力の揺らぎは燻る炎を彷彿とせた。
「……分かりました」
クレアはマクスヴェルトの只ならない気配に一抹の不安を抱きながらも後ろへ下がった。
これまでのマクスヴェルトは自ら目立った行動を起こしたりはしなかった。なのに今のマクスヴェルトからはリヴェリアが剣気一閃を放った時のような得体の知れない圧力を感じる。
「く、クソが!舐めた真似しやがって……!もう止めだ!今すぐ皆殺しにしてやる!!!」
「お待ちなさい。いくら貴方でもその体では無理かもしれませんよ」
「ああん?ガブリエル。てめぇ、誰に向かって言ってやがる。舐めた口ききやがると存在ごと滅すぞ」
「ハァ……。頭を冷やしなさい。あの目に宿る闇は単なるこけおどしでは無いようです。それにどうせあの化け物は動けないのです。回復したら一気に叩きますよ」
成る程、上級の悪魔というのは魔物と同じく凄まじい回復力を備えているらしい。
かつてレイヴンが出会った事があるという上級悪魔が何故レイヴンを魔物堕ちさせなかったのか。
その答えは簡単だ。
何故ならその時出会っていたのが、ここにいるフォルネウスだったからだ。
(今回の件に備えて下調べをした。そんなところだろうね)
そこまで分かってしまえばガブリエルとフォルネウスがやけに自信満々な理由にも納得がいく。
大方、レイヴンの馬鹿げた力は全て魔剣によるものだとでも考えているのだろう。
つまり彼等は知らないのだ。レイヴンが魔物混じりで無くなった今現在も異常な速度で成長していると。
聖剣と魔剣が融合した常識外れにして桁外れの力を持つ超級の魔剣。聖魔剣ミストルテインでさえ、レイヴン本来の力を抑え、補助する為にあるという事を知らないのだ。
「ふふふふふふ……」
「何がおかしい。一撃いれた程度で勝った気でいるなら、とんだ勘違いだぜ。いい気になるなよ魔法使い!」
フォルネウスは結晶による障壁を解除し、どんどん魔力を高めていく。
全身にある無数の装飾品が魔力に反応して不気味な共鳴を始めていた。
「勘違い?まだ分かっていないようだね。仕方がないから教えてあげるよ。
僕のことを只の魔法使いだという君の、……君達の認識は根本的に間違っている」
「どういう意味ですか」
「魔法も時間も、生きることも、願いも、この命でさえも。僕の全てはレイヴンの為にあった。
知っているかい?レイヴンは底抜けのお人好しなんだ。
自分がどれだけ蔑まれても、殺したい程激しい憎悪や怒りがあったとしても、レイヴンは人殺しをしない。
その気になれば力づくで何でも出来るのにそれもしない。考えてすらいない。とことん不器用なのさ。
だからこそ僕はこの世界のレイヴンの事が好きになったし、全力でレイヴンの力になろうとした。それで良いと思ってた」
「貴方は一体何を言って……」
ガブリエルは奇妙な違和感を感じて初めて困惑と警戒の色を浮かべた。
事前に調べておいたマクスヴェルトは温厚で、自ら表立って行動することは無い消極的な人物だった。魔力の総量と扱う魔法の種類こそ並外れているものの、他には特に目立ったところの無い警戒する必要のない存在。
にも関わらず、淡々と話すマクスヴェルトから漏れ出す魔力は濃密で激しい。そして、それとは正反対に酷く静かな態度は不気味だ。
ガブリエルにはマクスヴェルトの周囲に無意味な術式の波動が微かに見える程度で、マクスヴェルトの底がまるで見えない。
(何だこの異様な気配は……。魔人レイヴンと竜王リヴェリアだけ警戒していれば良かったのではないのか。これではまるでーーー)
“まるで自分達が呼び出した異界の化け物と同じではないか”
これは悠長にしている場合では無い。
そう思って隣にいるフォルネウスの方を向いた瞬間、異界の門に連なる鐘の音がこれまでとは違う異音を響かせた。
その音は次第に大きくなり嵐を呼び雨を降らせた。
吹き荒れる暴風の音が唸りを上げる最中、マクスヴェルトの落ち着いた声が不思議とよく聞こえる。
「僕は甘過ぎた。覚悟が足りなかった。僕も大切な人を失う辛さを嫌という程味わって来たのに、くだらないゴミ以下の不純物にさえ慈悲を与えようとしてしまった。レイヴンの性格が移ったかな……」
自嘲気味に笑うマクスヴェルトを見たガブリエルとフォルネウスは初めてあからさまな警戒の色を浮かべて叫んだ。
その必死の形相には先程までの余裕は微塵も無い。
「フォルネウス!先に奴を、マクスヴェルトを仕留めますよ!」
「ああ!言われるまでもねぇよ!!!何だか知らねぇが、この気配はヤバい!」
それぞれの従える軍団を召喚すべく巨大な魔法陣を展開して天界と魔界に繋がる門を開いた。
神族、魔族共に魔法は大きな武器だ。
戦闘の規模が大きければ大きい程、強力な魔法一つが戦況を左右する。魔法に長けている人物の存在は貴重であり、その数が多ければ多い程、敵にとって脅威となる。
しかし、それはあくまでも強力な肉体を持つ種族である場合のみ。術者が魔法無しでの戦闘力も秀でている場合だ。
目の前のマクスヴェルトは魔法に関する力こそ脅威ではあるものの、肉体的には普通の人間であり、腕の良い魔法使いである事以外にはどうにでも対処が可能な存在に過ぎなかった。
その筈だった。
一つの魔法で戦況を左右出来る優秀な魔法使いに対して、軍団を用いて正面から相対する事は愚策である。
これは軍団の指揮を預かる二人にとって至極当然の認識で、暗殺、籠絡等の調略、少数部隊による対象の殲滅が常套手段だ。
特に今は肉体能力の差がはっきりとしているのだから、魔法を使われる前に直接戦闘でもって対処すべきだ。
ならば二人の軍団を呼び出すという判断は間違っているのではないだろうか。
否。
二人はそれが分かっていながら抗えなかったのだ。
単なる魔法使いと侮ったマクスヴェルトの放つ不気味な気配。
殺意を宿した瞳が抱える闇をも飲み込む真なる闇の中から此方を覗き込む者。
目が合ったような錯覚を覚えた瞬間に二人の生存本能が激しく警鐘を鳴らした。




