居場所
それは衝撃的な光景だった。
レイヴンの放った拳がルナの小さな拳を粉砕してしまうかと思われた瞬間に、レイヴンは苦痛の声を上げて大地を激しく転がったのだ。
誰もが認める最強の魔人が幼い少女に吹き飛ばされるという異様さは、周囲にいた他の魔物達にも少なくない動揺を与えていた。
「こ、怖かったぁ……。クレアったら、よくあんな攻撃を躱していられるね。訳わかんないや」
ルナは拳を突き出したまま青い顔をして、クレアの方を感心した様に見ていた。
訳が分からないのはルナ以外の全員だ。
レイヴンの拳は間違いなくルナを捉えていた。なのに、吹き飛ばされたのはレイヴンの方で、ルナはピンピンしているではないか。
『器用な奴よな。空間魔法の応用……そうであろう?』
「まあね。世界樹の結界をレイヴンが破れなかったのを思い出したんだ。上手くいって良かったよ本当……まだ手が震えてるもん」
リヴェリア達からも呆れた様な苦笑いが聞こえて来た。
本人は半信半疑だったのかもしれないが、意識を失くしている状態とは言えレイヴンを相手に真っ向から挑んで吹き飛ばしたのは快挙だ。
そして、またもマクスヴェルトは頭を抱えていた。
「あの結界を解析しただって?何の冗談だよ……」
並の防御魔法や結界では簡単に突破されてしまう。そこでルナが目を付けたのは世界樹を守る為に張られた特殊な結界という訳だ。
「もしや、マクスヴェルト様にも?」
ユキノが疑問に思うのも無理は無い。マクスヴェルトとルナが同一人物である事は分かっている。ならば同じ事が出来ると考えるのが普通だ。
「出来る、と言いたいところだけど、僕にはそんな真似出来ないよ。あれは魔を祓う力を持った正真正銘の神聖魔法だ」
魔法とはイメージの具現化である。
だとすれば、ルナには膨大な量の術式から魔法の完成形が見えていた事になる。
「神聖魔法……確か、竜人族が使う魔法もそうですよね?」
竜人族の魔法はマクスヴェルトでも再現出来ない高度な魔法だ。
あれは“世界の理を騙す魔法” だとダンが教えてくれた事がある。
中央大陸のみ同じ刻を何度も繰り返す様に細工をしたのも神聖魔法で世界を騙していたからだ。
「よく知ってるね。そうだよ。あれは一度や二度見ただけで解析出来る代物じゃないし、ただの人間では、膨大で複雑な術式を再現するのは不可能なんだ。それこそ、僕が世界を隔てる壁に用いた様な……あ!」
マクスヴェルトはそこまで口にして気付いた。
人間には再現不可能な術式の構成と発動を可能にする方法が一つだけある。
(本当にちゃっかりしてるなあ……)
吹き飛ばされた程度では大したダメージは無い。
レイヴンは直様体勢を立て直してまた突っ込んで来た。
「もう!頑丈過ぎ!」
レイヴンにかけた魔法がある限り、何度やっても同じ事だ。
そう思ったのは慢心だと言わざるを得ない。
「ルナちゃん!危ない!」
異変に気付いたクレアが割り込んだと同時に、レイヴンはルナの魔法が発動する瞬間に合わせて更に強く踏み込んで来た。
「う、そお……⁉︎ 」
魔法の効果に拳が弾かれる直前。
レイヴンは拳を再加速させ、反発する衝撃を利用して魔法の効果そのものを破壊してしまった。
以前は魔剣無しでは破れなかった結界を、まさかたった一度で突破されてしまうとは正直思っていなかった。
「私が時間を稼ぐからルナちゃんは下がって!」
ルナは咄嗟に二重三重に同じ魔法を重ね掛けして対処を試みた。
しかし、これも次の攻撃で突破されてしまうだろう。
『ルナよ、先程の魔法は一体どうやったのじゃ?種明かしくらい良かろう?』
翡翠はレイヴンとの戦いよりもルナがやってみせた魔法に興味がある様だ。
空気も読まずに早く教えろと催促して来た。
「ええ⁉︎ 今⁇ ちょっとは空気読んでよ!……ミーシャが作った回復薬を沢山複製して一儲けしようと思ってたんだけど、途中で飽きちゃってさ。何かに使えるかもと思って、石版を用意してたんだよ」
『なるほど。術式を物理的な媒体に予め刻んで用意しておったのか。用意周到よな……』
「何言ってるの!レイヴンの役に立つかもしれないなら、何だって無駄にはならないよ。僕は後悔なんて御免だからね。やれる事は全部試したいの!ていうか、翡翠には何かレイヴンを止める良い考えは無いの⁇ 」
『実行出来るのならやっておるわ。妾のせいにするでない』
「ああ!もう!クレア、僕達で何とかするよ!」
「うん!」
精霊王の力を全開で使えるなら手段はある。しかし、そんな事が出来ない事はルナにも分かっていた。
そもそもマクスヴェルトとルナでは持っている才能は同じでも、魔力の保有量も経験値の差もあり過ぎる。翡翠が十全に力を発揮出来ないのはルナがまだ未熟だからに他ならない。
今は魔法に必要な術式の補助をしてくれるだけでも助かっていると割り切りるしか無いのだ。
ルナと翡翠の会話を盗み聞きしていたマクスヴェルトは、ハッとして魔法を使うのを止めた。
“大好きなレイヴンの為ならどんな無茶でもやる”
それはかつてのマクスヴェルト自身が誓っていた事だ。けれども、ルナの様に素直に言葉にした事は一度も無かった。
レイヴンにとってもルナにとっても、必要なのは想いを言葉にする事だったのだ。
「……僕は何でこんな簡単な事に気付けなかったんだろうね」
水面に落ちた、たった一枚の落ち葉で波紋の形が変わってしまう様に、言葉にすれば良かった。
何度でも何度でも、レイヴンが無愛想な顔をしたままでも言えば良かった。
そうすれば、もしかしたらーーー
(いや、もう後悔はしないって決めたんだ。繰り返さない為に僕は今ここにいるんだから)
「マクスヴェルト様?どうかされましたか?」
マクスヴェルトは心配したフィオナが差し出してくれたハンカチを見て、ようやく自分が泣いている事に気が付いた。
「い、いや、何でも無いよ。結界は僕一人で大丈夫だから、二人もランスロット達の援護に行ってあげてよ」
マクスヴェルトはマクスヴェルト。
ルナはルナだ。
レイヴンの隣はルナの場所だ。
それがマクスヴェルトの望みであり願いだ。
これで良い。この時をずっと待っていた。
そう思っていた時だ。
不意に俯いたマクスヴェルト前に手が差し出された。
「馬鹿者。顔を上げないか」
「涙なんか流しちゃって、らしくないわよ?」
(……どうして?何で皆んなが?)
顔を上げたマクスヴェルトの前には息を切らしたリヴェリア達が立っていた。
「厄介そうな魔物がまだ数体残っているのだ。マクスヴェルト、お前の力を貸してくれ」
「え……。だ、だけど…僕は……」
リヴェリアすらも欺いて仲間のフリをしたマクスヴェルトに戻る居場所など無い。
そういう覚悟は最初からしていた。
「水臭い事を言うな。旅の面子は“五人” だと決まっている」
「五人……?それって……」
「あら?“賢者” 様は、私達が隣にいたんじゃあ不満なのかしら?」
不満だなんてある訳が無い。
寧ろ、自分で良いのかと聞きたいくらいだ。
「まあ、この面子で旅をしていたら凄く目立ちそうだけど……」
「それなら、マクスヴェルトに魔法で姿を変えて貰えば良いんじゃない?」
「うむ、それは妙案だな!」
「あら、リヴェリアはレーヴァテインがいるんだから必要無いんじゃない?」
城壁の外ではまだ戦いが続いているというのに、リヴェリア達はすっかり旅をする気でいる。呑気過ぎてあれこれ考えていた事が馬鹿らしくなって来た。
(ほんと、僕って学習しないなあ……)
レイヴンがマクスヴェルトの事をルナだと認めたがらないおかげで今もこうして世界に存在していられる。
ここにいても良いと言ってくれたのは他でも無い、レイヴンだ。
マクスヴェルトは涙を拭っていつもの口調で応えた。
「滅相もない。僕がいなきゃ旅は始まらないでしょ。仕方がないからついて行ってあげるよ」