八人目の存在
それは戦いと呼ぶにはあまりにも一方的で、皇帝を力で排除出来ると高を括っていたトラヴィスの思惑を打ち砕くには十分だった。
無意識に放たれるクレアの剣は読み辛く、確かに皇帝の体を捉えているのに、竜麟の浮き出た肌には傷一つ付けられないでいた。その理由ははっきりしている。
高い戦闘技術があろうが、魔力の保有量が膨大だろうが、クレアの剣は軽い。
久しく戦闘行為をしていなかったとしても、こんな微風程度の攻撃は避けるまでも無い。
ロズヴィックはクレアの放った剣を無造作に手で掴み取った。
「軽いな。まるで魂が入っておらぬ」
「……」
「口もきけぬのか……」
クレアの体に埋め込まれた魔核はまだ活動を停止したままだ。仮にこれから活動を開始したとしてもロズヴィックの優勢は変わらないだろう。魂の無い剣ではロズヴィックを傷付ける事など出来無い。
「何をしているのです!さっさと片付けてしまいなさい!」
痺れを切らしたトラヴィスが叫び声を上げるがクレアには届いていなかった。
どうやら魔眼の支配下にあっても、完全にクレアを制御出来ている訳では無いらしい。
「トラヴィス、貴様は“黙れ” 」
「……むぐっ⁈ 」
ロズヴィックが低く冷たい声で命じた途端にトラヴィスは一切喋る事を禁じられた。
喉を抑えて慌てた様子を見せるトラヴィスの姿は滑稽ですらある。要するにトラヴィスは仮面わ被っていたに過ぎないのだ。
騎士団長としてなら申し分のない実力があっても、人間としては小物。普段の澄ました顔や振る舞いも全ては自分という小さな存在を繕う為の演技。偽物だ。
「“跪け” 」
トラヴィスはその場に膝をついて動けなくなった。
大量の脂汗を流すトラヴィスは、冷たい床の感触を感じた時にようやく理解した。
皇帝ロズヴィックが何故、魔眼の支配を受けないのか。何故、こうも簡単にトラヴィスの体が屈服してしまったのか。
『絶対王権』という言葉がトラヴィスの脳裏を過ぎる。
「今更気付いても遅いわ。たとえ偽りの忠誠であっても、皇帝たる余の前で一度でも跪いたなら儂の命令は絶対だ。貴様が神であろうが、悪魔であろうが関係無い。何人も儂の命に逆らう事はかなわぬ」
「……!!!」
魔眼の力は数ある支配系統の能力の中でも秘匿性に特化した力だ。ロズヴィックの固有能力『絶対王権』の前では意味をなさない。
王の中の王。真の王たる資格を持つ者にのみ行使可能な能力。
カレンの大号令が不特定多数の意識を操るのに対し、ロズヴィックの絶対王権は自身に忠誠を尽くす者に効果を発揮する。
個々の能力に変化を齎す訳では無いが、王の言葉は命よりも重く、全てにおいて優先される。
「貴様は気付くべきだったのだ。レイヴンが奪われたクレアを取り戻しに来た時、大人しく手を引くべきだった」
トラヴィスはレイヴンの逆鱗に触れてしまった。
表面上は平静を装ってはいても、一度起きた波紋は今でも静かに拡がり続けている。
「……」
「あの者が生温いお人好しにでも見えたか?だとしたらトラヴィス、貴様は見誤ったのだ。レイヴンは貴様如きがどうにか出来る相手では無いわ」
この世界には常識が一切通用しない存在がいる。
それがレイヴンだ。
トラヴィスが自身の虚栄心を満たす為にレイヴンに目を付けたとすれば、それは大きな間違いだ。
世界に生まれた特異点とも言うべきレイヴンの存在には、世界の存続を天秤にかけた神や悪魔ですら手を出せずにいた。神と悪魔。二つの相反する種族の血を引くレイヴンに迂闊に手を出せば、世界の秩序どころの話では無くなる可能性が高い事くらい容易に想像がつく。何せリヴェリア達ですら何百年もの間、どうにもならなくて手をこまねいていたのだ。元よりトラヴィス如きにレイヴンを操れる道理は無い。
「貴様の様な人間には分かるまい。大切な存在を自らの手で壊さねばならなかった者の気持ちが。守る為に壊す事を選んだ者の気持ちが。……到底理解出来ぬであろうな」
相手をより深く魔眼の術中に嵌めようとすれば、細かい手順と長い時間が必要になる。深層心理まで把握したなら、絶対王権を行使しても解除が出来るか怪しい。
レイヴンはその仕組みを知らなくても、クレアを守る為に心を砕く事を選んだ。これ以上、トラヴィスの言いなりにならない様に、クレアがクレアで無くなってしまわない様にする為だ。
天秤の片割れを自ら砕いたレイヴンの心中は、身を引き裂かれるよりも辛かった筈だ。
恨みを噛み砕き、怒りを強引に押さえ込む精神力。他者の為に己が身を差し出す呪いにも似た慈愛の心。レイヴンという存在そのものが人間が持ち得る感情を集めた矛盾の塊の様だ。
ロズヴィックが思う不幸な事は、レイヴンが優し過ぎた事だ。
その優しさが大きければ大きい程、天秤は優しさに吊り合わせる様に憎悪を膨らませていく。本人の意図しない所で徐々に大きくなっていく。
「貴様を殺すのは儂では無い。そこで見ているがいい」
この場でトラヴィスを始末するのは簡単な事だ。けれど、それでは意味が無い。
決着を着けるのはあくまでもレイヴンでなければならない。
ロズヴィックはトラヴィスの命令が途切れた事で動かなくなったクレアの頭に手を置いて意識を集中させていった。
今から確かめるのはクレアの中にいる別の何かの存在。
ルナと同じ造られた存在でありながら、レイヴンに対して異常な執着心を見せる存在の正体を確かめるのだ。その存在を探るにはクレアの精神に干渉して中を覗く他に無い。
そこは薄暗い世界だった。
足元には一面に咲き乱れた白い花。空を見上げれば分厚い雲のかかった太陽と月が同時に存在している。
白い花で埋め尽くされた世界がどこまでも続いているかと思われた矢先、巨大な花びらの上で眠る白い髪をした少女の姿を見つけた。
「クレアの本体か、いや違う……」
眠っているのは抜け殻。
おそらくはレイヴンが砕いた心の欠片の一つだと思われる。
ロズヴィックが近付こうとすると周囲の花が行く手を阻む様にして花弁の結界を張った。
「これは……レイヴンの力なのか?」
他の花びらを探して近付いてみても同じ様に花弁の結界が行く手を阻んだところを見ると間違い無いだろう。
巨大な花びらの上で眠るクレアは全部で七人。
円を描く様に配置されていた。
「成る程……七つに分かたれた心か。ならば残るは一つ」
ロズヴィックは円の中心にいるであろう本命に向かって意識を集中させていく。
存在する筈の無い八人目のクレアがそこにいる。
近付くいて行く程、白い花が枯れ果てた花へと変わっていった。
光も生気も感じ無い暗闇が支配する空間へと足を踏み入れたロズヴィックは、目的のモノを見つけると呟きと共に深い溜め息を吐いた。
「……やはりそうであったか」
グチャグチャと音を立てて屍を貪る姿は魔物の捕食行動よりも動物的で、ロズヴィックですら思わず目を背けたくなる程に凄惨で悍しい光景だった。
足元には白い翼を持った神の使徒や悪魔の死体が食べかけのまま無造作に転がっている。その山の様に死体が積み上げられた天辺に八人目のクレアはいた。
「誰……?」
クレアは血を垂らして死臭を撒き散らしながら、壊れた人形の様な仕草でロズヴィックを見つめた。
「儂はこれでも長生きしておってな。神にも悪魔にも知り合いが多くいる。まあ、それも殆どは先の大戦で死んでしまったが……。お前に会うのは初めてであるな。死を司る存在。常世の主にして、生ある存在を憎む者。神と言うにはちと早いか。差し詰め、常世の姫君といったところか。余はアルドラス帝国皇帝ロズヴィック・ストロガウスである。お前を表の世界に引きずり出しに来た」