魔物堕ち
『魔物堕ちさせる』そう言ったレイヴンの言葉を皆が理解するまでの刹那の時間に訪れた静寂は、その場に居た者全ての怒号で掻き消された。
「馬鹿か! 何考えてやがる! そんな事したら、もうこの子は助からないんだぞ!!!」
「早まった考えはよせ! 魔物堕ちして助かった奴はいない!」
「そんな理由で結界を解く訳にはいかいわ! 考え直して!」
「いくらなんでも無茶ですよ! わざと魔物堕ちさせるだなんて、そんなの聞いた事がありませんよ! 」
当然の反応だ。
助ける為に魔物堕ちさせるだなんてどうかしていると自分でもどうかしていると思う。
魔物混じりが魔物堕ちしたが最後。どんな手を尽くしたとしても救う事など出来はしない。そんな事は当たり前で、自分が一番よく分かっている。
それをわざと魔物にしようというのだ。皆の怒りはもっともだ。
聞けばこの少女が街を囲う魔物を呼び寄せる原因になっているらしい。魔核同士の共鳴であればレイヴンを含めてこの街にいる魔物混じり達は皆、激しい頭痛に襲われている筈。しかし、それは無いようだ。他に理由があるにせよ、それを今から探している時間は無い。
此処に呼ばれたのも、何か解決策を求めての事だろう。
「おいレイヴン。今は冗談言ってる場合じゃねえんだぞ!?」
「分かってる」
「お前!本当に……ッ!」
レイヴンの胸倉を掴んだランスロットは、いつも仏頂面のレイヴンがいつになく真剣な顔をしているのに気付いて手を離した。
たとえ手遅れだとしても。たとえ魔核を埋め込まれていたとしても。絶対に助けて見せる。
この少女は人間だ。偶然出会って拾っただけの少女。素性も名前も声も知らない。
だとしても、もう目の前で魔物堕ちして死んでいく人間を見たくないのだ。
「静まれ!!! 皆、落ち着くのだ」
「「「お嬢……」」」
「レイヴン、説明してくれ。私はお前ならば、どうにか出来ると思い呼んだのだ。他に無いのか? この少女を救える方法は? 本当にそれしか無いのか? 答えてくれ、レイヴン。お前は過去のーーー」
「リヴェリア。いつから他人の過去を詮索する様になった?」
「……すまん。だが、私とてこの少女を出来る事ならば救ってやりたいのだ。人工的に造り出された命だとしても、生きている。一人の人間なのだ……」
皆、リヴェリアと同じ思いなのだろう。
言わなくても顔を見れば何となくだが分かる。
(命を造るなど、まともな考えでは無い。それが許せないのは俺も同じだ)
魔物堕ちは怪我や病気とは違う。
普通の人間が魔物堕ちから生還した事例は無い。それが人工的に造り出された命となると本当に未知数だ。
「魔物堕ちした人間を元に戻す方法は、ある。あるが……」
「そんな方法が⁈ だが、何か問題があるのか?」
「一度も試した事は無いし、成功する可能性も殆ど無い」
「何だよ! それじゃ全然駄目じゃねぇか!」
「ランスロット! 黙っていろ」
「……けどよぉ」
「黙っていろと言った。レイヴン、それがこの少女を魔物堕ちさせるのと関係があるのか?」
救う手立てが無いとされる魔物堕ちから救う方法があると知った面々は食い入るようにレイヴンの言葉を待った。
普通なら絶対にそんな話を信じたりしない。けれども、この場にいる皆はレイヴンが絶対に嘘を吐かないと知っていた。
「ある。だが、これだけは言っておく。どんなに力があっても、どんなに願っても、どうにもならない現実というのはある。今から俺が話すことを聞いて無理だと思うなら、この少女の命は諦めろ」
「レイヴンさん……」
レイヴンが説明している間、誰も口を挟む事は無かった。
皆の表情は暗い。
リヴェリアでさえ、先程から難しい表情を浮かべたままだ。
魔物混じりはあくまでも魔物と人間の間に産まれた子供。血の混じりはあっても、ある程度肉体が馴染んだ状態で産まれ、成長していく過程で完全に同一化する。
一方、この少女場合は人工的とは言え、普通の人間の身体に無理矢理後から魔核を埋め込んでいる。これでは人間の身体は魔物の力に抗えない。抵抗する間もなく、身体を侵食され、行き着く先は完全な魔物化。魔物堕ちと呼ばれる現象が確実に発生する。
魔物堕ちのリスクは魔物混じりとは比較にならない。今まで何も起きなかった事が既に奇跡なのだ。
しかし、少女を救える可能性があるとすれば、このタイミングしか無いとレイヴンは考えていた。
不安定な状態の肉体が魔物化する事で少女の命は一先ず安定するだろう。救うチャンスはそこにある。
魔剣『魔神喰い』の魔と神を喰らう力を使って暴走した魔物の力を喰らってやれば良い。
仮に成功したとしても普通の人間と同じとはいかないだろうが、魔物混じりとしてなら生きられる筈だ。
(やれるか?俺に……)
一度も試した事の無い方法だから不安なのでは無いし、成功する確率が低いからというだけでは無い。
一番の問題は、レイヴン自身にある。
魔剣の力を扱いきれなければ、例え少女を助けても今度はレイヴン自身が力を制御出来ない状態に陥り暴走する可能性がある。
だが、今回についてはそこは心配無いだろう。リヴェリアを始め、SSランク冒険者が複数この街にいる。試すなら彼等がいる今しか無い。そうで無ければ試そうとも思わなかった。
レイヴンが話し終えた後も誰も口を開かなかった。
重苦しい空気の中、意外な事に最初に口を開いたのはミーシャだった。
「レイヴンさんはどうなるんですか……大丈夫、なんですよね?」
「さあな」
そんな物はやってみなければ分からない。
初めから諦めている訳では無い。出来ると信じてやってみるだけだ。
「さあなって……私は反対です。この女の子が助かっても、レイヴンさんにもしもの事があったら意味無いじゃないですか! そんなの嫌です!」
「ミーシャ……」
意味ならある。けれど、それを今、皆に言う気は無い。
ただ、ミーシャには一つだけ言っておくことがある。
「エリスの時の様な悲劇は繰り返させはしない」
あんな思いをするのは二度と御免だ。
今なら、手を伸ばせば届くかもしれない。
「……ッ!!」
「他言は無用だ」
「……はい」
リヴェリアを除いた他の者達には何の話か分かってはいない。だが、それで良い。出来れば誰にも知られたくは無い。
レイヴンは重苦しい雰囲気で俯く面々に向かって最後の話を始める事にした。
「これにはお前達の協力が必要だ。少女を元に戻した後、俺が俺でなくなっていたらーーー」
皆、無言のまま準備を始める。
その表情は暗く、リヴェリアの顔にも余裕が無い。
ユキノとフィオナは結界を張ったまま少女を広場へと運び出す役目だ。付近の住民はモーガンが退避させている。
ミーシャは空から周囲の警戒を、リヴェリア達は万が一に備えて広場を囲むように待機している。
魔物堕ちを誘発させるのに必要なのは強大な力を秘めた魔核だ。共鳴させ魔物堕ちを誘発させる。魔核はモーガンに預けていたケルベロスの魔核を使う事にした。
四方の壁で戦っている冒険者も、街の住民達も、ただならない様子の広場を不安気に見つめていた。
依然として増え続ける魔物よりも、これから広場で起こることが重要な事だと感じているのかもしれない。
「結界を解け」
ユキノとフィオナが結界を解きリヴェリアの隣へ加わる。
少々乱暴だが、魔物堕ちを誘発させる為にケルベロスの魔核に魔力を送り込み無理矢理共鳴させる事にした。
正直なところ、これは単なる思い付きに過ぎなかった。
活動を停止した魔核に魔力を注いで無理矢理起こせば良いと直感的に思っただけだ。そして、それは正しかった様だ。ケルベロスの魔核は少女の魔核と共鳴し始めた。
頭の中に響く不快な共鳴音は魔物と魔物混じりにしか聞こえない。
けれど、表情を見る限りには何故かミーシャには聞こえていない様だ。もしかしたら血の濃さが関係しているのかもしれない。
共鳴が激しくなるに連れ、次第に少女の呼吸が荒くなる。
胸に埋め込まれた魔核の鼓動が早くなり、不気味な光を放ち始めた。
広場の中央で少女と二人きり。
レイヴンはただじっとその時を待つ。
「うああああ……! 熱イ! カラダ、が……痛イ…嫌ダ……誰カ…タス、ケ…誰カ……!!! 誰かァアアアあアーーーーーー!!!」
苦しみと痛みに耐えかねた少女は、のたうち回り助けを求めて必死に手を伸ばす。
だが、誰も動かない。歯を食いしばり、或いは唇を噛み締め、強く拳を握りしめて耐えていた。
今、手を差し伸べても助ける事は出来無い。目の前で苦しみもがく少女を見ている事しか出来ないのだ。
少女の悲鳴が街に響き続ける。
少女の悲鳴に耐え切れず、耳を塞ぐ者、目を逸らし閉ざす者、様々だ。
だが、もう少しだけ堪えて欲しい。
(俺が助けてやる。絶対に助けてやる。だからもう少しだけ……もう少しだけ我慢してくれ)
少女の身体が膨れ上がる。魔物堕ちが始まった。
その変化は凄まじい速度で進み。巨大な魔物へと姿を変えていく。
「あれが、魔物堕ち……」
それは誰の呟きだったのか。
可愛らしい少女が悍ましい魔物へと瞬く間に変貌する様子は、見守っていた人全員の目に焼きついた。
(エリスが魔物堕ちした時、俺にはまだ力が無かった。けれど、力があれば救えた訳じゃないのも分かっている。それでも、俺は……)
二度と同じ後悔をしない為に力を付けた。
救える筈の命を目の前にして何も出来ない自分が許せなかった。
無理だと言われようが、無茶だとしても、無謀だと分かっていても、それが何だというんだ。
(さあ起きろ!力を貸せ!俺はもう誰も目の前で死なせない!)
ーーードクンッ!!!
ドクンという心臓の鼓動に似た音が街に響き、魔神喰いが目を覚ました。
「目標は少女の中にある “魔” だ。喰らい尽くせ……俺の全てを使ってでも喰らい尽くせッ!!!」
レイヴンの魔剣が目を覚ました音だという事は、もう街にいる誰もが知っていた。
だが、鼓動はそれだけで止まなかった。何度も何度も。ドクンという不気味な音が響く。
その度にレイヴンの体にも変化が現れていた。
(生半可な力では駄目だ。俺が魔物堕ちするギリギリまで力を使う必要がある)
鼓動に合わせて魔剣に魔力が流れ込む。すると次第にレイヴンの体が黒く濃い魔力の霧に包まれていった。
「お嬢! これ以上は…!」
「動くな! レイヴンを信じろ……」
「……お嬢」
少女が完全に魔物と化し、醜く肥大した体を持ち上げる。分厚い外皮に覆われた中心に不気味な光を放つ魔核が見えている。
その更に奥。
少女の顔をした魔物が赤い涙を流して泣いていた。
「怖い……寒イ…死にタく、ナイ。タスケテ…タスケテ……タスケテ………タスケテ………モう、誰カ…」
魔物と化した少女が瘴気を撒き散らしながら、ゆっくりと口を大きく開ける。
それに呼応するかの様にレイヴンを覆っていた霧が勢いを増していく。
尋常では無い力の高まりを逸早く察知したリヴェリアが叫んだ。
「いかん! ユキノ! フィオナ! 広場に結界を貼れ! 急げ!!! 他の者は防御体制! 咆哮が来るぞ!!!」
リヴェリアの声が届くか否かの瞬間。
二匹の魔物が咆哮を放った。
それは声とも呼べない音の塊となって結界内に叩きつけられた。
「ぐあああああ! 何だこの咆哮は…! 」
「レイヴンも咆哮を⁈ 」
「お嬢! 駄目です! 結界が……!!!」
「持ち堪えろ! 今、結界が解けたら普通の人間には耐えられん!」
音の波動は大地を穿ち大気を震えさせた。その振動はやがて結界を蝕み亀裂を入れていく。
永遠に続くかの様に思われた咆哮が収まる。
巻き上げられた土煙が晴れると、二匹の魔物が姿を現した。
「これ程とはな…。やはりあの少女に使われた魔核は普通の物では無かったか。それにしてもレイヴンの奴、無茶をする」
「あれは、黒い翼…?」
「鴉……」
魔物と化した少女の前に立っているのは、全身を黒い外殻に覆われ、背中から黒い翼を生やしたレイヴンだった。これまでに見せた魔剣の力とは明らかに異質なものだ。
「何だあの姿……漆黒の鎧?」
「どうやら魔物堕ち寸前まで力を解放している様ですね。お嬢、あの姿を見た事は?」
「無い。レイヴンは王家直轄冒険者と呼ばれるきっかけとなった戦いでも本気を出しておらん。私も見るのは始めてだ」
リヴェリアは内心かなり焦っていた。愛剣レーヴァテインから提示された力の解放は第四まで。しかし、今のレイヴンを押さえるには足りない。こうしている間にもレイヴンの力はどんどん増していっている。
「レイヴン! おい、レイヴン! 聞こえてんのかレイヴン!」
「ランスロットか……問題、無い」
弱々しい声で答えたレイヴンは魔剣を構えてゆっくりと体を沈めていく。
魔物堕ちする寸前まで力を解放したレイヴンは意識を保っているのが不思議な程に憔悴していた。
「ドウシテ…タスケテ……イッタ、ノニ…ドウシテーーーー!!! 」
「ぐっ! なんて奴だ! 咆哮を上げてる訳でもねぇのに!」
「あれはかなり不味いですよ。フルレイドにだって、あそこまで強力な魔物はいませんからね。参りましたね……」
「ぼやいてる暇は無いぞ。剣を構えろ。レイヴンがいつまで保つか分からん。……その時は」
「ああ、分かってる!!! くそっ!」
レイヴンが最後に言った言葉に誰も納得なんかしていない。
『俺が俺でなくなったら、俺を殺してくれ』
この場にいる誰一人としてレイヴンを殺すという案を飲んではいない。
ただ、それしか無かった。自分達にはレイヴンの提案を黙って受け入れるしかなかったのだ。
最強の冒険者と呼ばれるレイヴンが魔物堕ちしたなら、被害はこの街どころの話では無くなる。ただ、リヴェリアが即座に反対しなかったという事は、魔物堕ちしたレイヴンに勝てる見込みが無い訳では無いからなのだろう。でなければ、真っ先に反対した筈だ。レイヴンの提案を受け入れたのはリヴェリアの反応を見た故の事でもあった。
(今、解放してやる……。お前を死なせるものか!)
レイヴンは黒い翼を広げ、可能性の一歩を踏み出した。




