エレノアの動揺
空から降って来た黒髪の美女の登場に闘技場の観客達から思わず溜め息が漏れた。
先に乱入した少女もかなりの美少女だが、その振る舞いは子供そのもの。神聖な闘技場に勝手に入って来たのは許し難い事だが、最強の魔鋼人形エレノアに憧れての行動だろうと思っていたのだ。そこに新たに現れた美女。自然と皆の注目が集まる。
少女を優しく抱き寄せた美女はそっと頭を撫でてやると、凛とした眼差しをエレノアへと向けて謝罪の言葉を述べた。
「すまない。迷惑をかけたな。これで失礼させて貰う。クレア、行くぞ……」
「レイヴンごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「……大丈夫だ。お前は悪くない。だからもう泣くな。皆んなの所へ戻ろう」
クレアの体が一瞬だけ淡く光る。
(これは……)
どうやらルナが気を利かせてクレアを眠らせた様だ。
観客席に視線をやると、手を振るルナの姿が確認出来た。
(やれやれ、目立ってどうする……)
少女を抱き上げその場を去ろうとする黒髪の女性。
その歩く後ろ姿を見たエレノアは自然と呼び止めていた。
「待って下さい!その少女……クレアに剣を教えたのは貴女なのですか?」
「……どうしてそう思う?」
「それは……」
クレアは間違いなくエレノアに斬りかかろうと踏み込んだ。
確認出来たのはほんの一瞬であったが、激昂しても尚、ブレない重心と踏み込みの速さはエレノアの想像を遥かに上回る物であった。もしも、この黒髪の女性が止めに入らなかったらと思うとゾッとする。
そして何よりも、初速から最高速度に到達し得るであろうクレアの勢いを完全に殺した上で、優しく抱き寄せてみせた黒髪の女性の実力は、人間の領域を超えている。
少女も大概だが、この女性は危険だ。
エレノアは今の装備と調整では勝てないと直感した。
「……いえ、何でもありません」
「そうか」
最強の魔鋼人形と呼ばれるエレノアには、少なからず自分自身でも法を守る番人としての自負があった。
王の目指した理想を実現させる事は、最強の座にいるエレノアにとっての最優先事項。しかし、今。その最強に疑問を感じている自分がいる。
魔鋼人形ですら無い人間に対して抱くべき感情では無い事は百も承知している。それでも、この湧き上がる形容し難い感情を抑えることが出来ない。
それはエレノアの中に生まれ始めて芽生えた原因不明の焦り。
番人として、皆を導く者として、強くあらねばと願う想いがエレノアを動かしていた。
しかしーーーー
「止めておけ。お前がどうしてもと言うのなら相手になってやる。だが……クレアがいるこの場で挑んで来るのなら容赦はしない。その時は、お前を破壊する」
「……ッ!!!」
「エレノア⁈ 」
黒髪の女性の威圧を込めた目を見た瞬間にエレノアは自分でも驚くほど速く後ろへ飛び退いていた。
傍で見ていた技術者達も何が起こったのか理解出来ない。
それはエレノア自身も同じであった。
咄嗟に剣の柄を握った手がガチャガチャと音を立てて震え、流れる筈のない汗が頬を伝っているかの様な錯覚すら覚えていた。
“お前を破壊する”
その言葉が決して比喩や冗談では無いのだと全身が警告している様だ。
(震えている?魔鋼人形である私が……⁈ )
最強の魔鋼人形が見せた異常な行動。
どんな相手を前にしても逃げなかったエレノアが、武器も持たない人間相手に後退するという異様な光景に動揺していた。
それは次第に大きな騒めきとなって闘技場を包み込んだ。
「鎮まれ!!!神聖な闘技場での私闘など以ての外である!」
闘技場に姿を見せたの三長老は観客達を黙らせると、エレノア、そして黒髪の女性に視線を動かして事態を確認して頷いた。
「エレノア。その様は何だ?勝敗は決し、お前の出番は終わった。追って沙汰があるまで下がっておれ」
「はい……」
エレノアはいつのも冷静さを辛うじて振り絞ると、何事も無かったかの様に歩き出した。
未だ手の震えはある。けれど、これ以上無様を晒す訳にはいかないのだ。
「明日の午後、北の外れにある小さな広場で待っています」
「……」
すれ違い様に告げた一方的な待ち合わせの約束。
エレノアは振り返る事なく闘技場を後にした。
残されたレイヴンの前には三人の老人。
さっさとこの場を去りたいのに面倒だと思っていると老人の一人が口を開いた。
「さて、どなたかな?この国の民では無い様だが?どうやって入った?」
適当に誤魔化して逃げるのは簡単だが、レイヴン達はまだこの国に来たばかりだ。
(ここは素直に応対しておくか)
「俺…私の名はエリス。この国には今朝方来たばかりだ。旅をして北の森を彷徨っているうちに道を見つけたので辿って来た。その後は人混みに流されてこの場に来てしまったが、悪意があっての事では無い。この場で行われている事が神聖な事だとは知らなかったんだ。すまない」
「北の森から?」
「にわかには信じ難いな。周囲の森は険しい。ましてや旅人などと……」
「だが、この場にこうして居るのも事実だ」
嘘を言っている様には見えないが、これだけの騒ぎを起こした事は事実。
三長老が目の前の二人の処分をどうすれば良いのか思案していると、何処からともなく飛んで来たフクロウがエリスの肩に止まった。
「フクロウ?それもお前のものか?」
「これは使い魔ですよ」
「そ、その声は……!」
「久しいですね三長老。事情は後で話します。この場は下がりなさい」
「おお……!まさしく!」
声の主の正体に気付いた三長老は慌てて膝をついて礼をとろうとしたのだが、それはフクロウから発せられる言葉によって遮られた。
「礼をとる必要はありません。皆が見ています。そのまま下がりなさい」
「「「ははあっ!」」」
三長老は予選の一時中断を即決し、皆には改めて予選の報せを行うと宣言した。
突然の事で呆気に取られていた観客達も三長老の言葉には逆らえない様だ。解散する様に告げられた後、嵐の如く闘技場を後にした。
「あちゃー……何もここまでしなくても良いのに。ていうか、あんな反応してたら怪しまれるじゃん。そのまま下がれって言った意味無いでしょ……」
「フローラ、今のは?」
「ん?ああ、古い知り合いよ、知り合い。暫く帰って来ないうちに老けちゃってまあ。歳をとるってやあねぇ」
「……」
「ま、そんな事は置いといて。何処か静かな場所に移動しましょうか」
(何を隠しているのやら……)
フローラは明らかに何かを隠している。
けれど、今必要なのはトラヴィスと魔眼の支配を解く方法だ。
「レイヴン!」
「レイヴンさん!」
「くるっぽ!」
ルナとミーシャも合流したところでフローラの言う通り場所を移す事にした。
と、その前に……。
「今の俺はエリスだ。いいな?間違えるなよ?」
「エリス?誰それ?」
「レイヴンさんはこの姿の時にだけそう名乗っているんですよ」
「ふーん……」
(そうか、あの時はまだ魔剣を持っていなかったな。ルナが知らないのも無理はないか)
レイヴンが魔剣を手にしてからの記憶はある程度であればルナも覚えている。
エリスとリアーナ。二人の事はまだクレアとルナは知らない。
「成り行き上仕方なくだ。その内話す。クレアとルナに紹介したい人もいるからな。リアーナの作るミートボールパスタは絶品だ」
「リアーナ?……ねえ、レイヴンって女の人の知り合い多くない?」
「言われてみればそうかもしれませんねえ……。これは油断出来ません」
「ちょっとちょっと!二人共話がズレて行ってるわよ!ほら!さっさと歩く!今のうちに私の知り合いのとこへ行くわよ!」
「ルナ。ちゃんと鎖を持っておけ」
「はーい!」
「わ、忘れて無かったのね……」
「当然だ」
レイヴン達は項垂れるフローラの案内に従って闘技場を後にした。