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バディ

作者: 芹沢 忍

 目を開けると、そこには、水があった。

 いや、あったと言うのは間違いだ。

 実際は水を感じた、と言うのが正しい。


  ヒヤリと冷たい感触。

  それから目が沁みた。

  だから水だと思ったのだ。


 見開いた目には広がる闇しか映らない。

 そうなってから何年が過ぎただろう。


  いきなり目の前に帳〈とばり〉が降りた。

  瞬きをしても闇は明けない。

  続く暗闇が恐ろしかった。


 就職したばかりの会社で事故に遭った。先輩と営業で出掛けた際のもらい事故。迫ってくる車は嫌にゆっくりに見えたが俺は避けきることは出来ず、引っ掛けられた身体は勢い良くアスファルトに激突した。覚えているのは叩きつけられた時の衝撃と、俺を轢き逃げした赤い車の後ろ姿。


――俺、死ぬかな?


 車のテイルランプが遠ざかるのを見ている途中で意識が途切れた。


 次に目を開けた時あたりは暗く真夜中だと思った。静まり返った空間はどこか重く不安が募る。だが、すぐに事故に遭ったことを思い出し、生きている自分に安堵した。身体中に痛みを感じながらも、それが生の証しのように思われ、気が付けば涙が自然と流れていた。


 手も足も無事だ。

 思った通りに動く。


 その事に胸を撫で下ろす。しかし、頭を持ち上げようとすると上がらない。無理に動かそうとすると痛む。このままではトイレにも行けないと焦ったが、手で探るとそれなりの対処がされている。


 事故の後、病院に担ぎ込まれたらしい。それならば、この頭は理由があって固定されているのだろう。溜め息をひとつ吐き出して目を閉じてから、俺は初めて違和感に気が付いた。


 目を開けても閉じても、感じる暗さが変わらない。本来なら暗くても何かうっすらと見える筈だ。目を閉じたまま視線を動かす。その後で目を開け同じ事を繰り返してみる。


 見えない。

 ――何にも見えない!


 焦りと恐怖が浮かぶ。気付かないうちに声を出していたのだろう。誰かに「どうしましたか」と問われて我に還った。声は聞こえる。視線を向けるが、姿は見えなかった。とてつもない絶望感に襲われた。


「見えない、何も見えないんだ、助けてくれ!」


 すがったのは看護師だったのだろう。医師がすぐにやっ来て説明をされる。俺は頭と頸を強打したらいい。外見は問題なかったようだが中身が腫れた。目の神経が阻害され一時的に見えなくなっているのではないかとの話しだった。しかし、俺の目は回復を拒んだ。腫れが引いても二度と光を取り戻すことは出来なかったのだ。


 会社を辞め、退院後は自宅に引き籠った。馴れた自宅でさえ歩くのが怖く、部屋や廊下を探りながら進む。医者からは生活訓練をするための施設を紹介されたが、絶望していた俺は施設へ通うことを拒絶した。


 親はこんな俺に失望しつつも、一生面倒を見続けるのだろう。そう思うとやりきれなかった。


  食べて寝るだけの生活だ。

  仕事だって出来やしない。

  連れ合いも出来やしない。

  趣味だって出来やしない

  生きていても仕方がない。

  きっと死んだ方がマシだ。


 そんな事ばかりを延々と考えた。見舞いに来た人達に当たり散らし、親にも酷い言葉を投げつけた。今考えると、目以上に、心が闇しか見ていなかったのだと思う。


 暗く深い水の中。

 身体中にまとわりつく水は重く、思うようには動けない。

 そうして、動くことを止め、俺は水底に沈むに任せた。


 停滞した俺に一石を投じたのは、隣に住む幼馴染みだった。


「いい加減にしろよ」


 彼は一言いい、無理矢理腕を引っ張ると俺を外へと連れ出した。構うなと頑なに言い続ける俺を無視し、車に押し込み、無言のままエンジンをかけたのだ。


 何処に行くのか判らない。相手は無言のまま。目が見えない俺には、不安だけが大きくなる。


 車が停まり、ドアが開けられ、外の空気が入ってくると、何かがにおった。


  嗅いだことがあるにおい。

  獣のにおいだ。


 懐かしく思い、失明してから初めて自分から外へと足を向けた。幼馴染みが手を握り立ち上がるのを手伝ってくれたようだが、そのことに気付いたのは後になってからだった。あの時はにおいを追うのに意識が向いていて、それ以外は何も考えていなかったのだ。


「見学予約の者です」


 幼馴染みの声で連れてこられたのは何かの施設らしいと予想がついた。見学と言うからには普段は一般には見ることが出来ない場所らしい。案内されるままについて行く。すると耳が音を拾った。


  泣きそうになった。


 犬の、それも仔犬の、小さな甘え声。

 頭の中に鮮やかに浮かんだ姿がある。

 コロコロとした黒い仔犬。


「――バディ」


 かつて十ヶ月だけ一緒に過ごしたラブラドールの仔犬。

 真っ黒な毛並みに人懐っこい瞳。


  ああ、そうか。

  ここには来たことがある。

  バディに出会った場所だ。


 母犬の腹にくっついて眠る仔犬たち。クリーム色の犬の中、一匹だけが真っ黒だった。そして、その仔犬が家に預けられたのだ。相棒という意味を込めてバディと名付けた。


 パピーウォーカーという将来盲導犬として訓練される仔犬を育てるボランティアだった。どういった経緯で引き受けることになったのか良く覚えていない。それでも仔犬と戯れた日々は、俺の中では大切な想い出になっていた。


 甘えん坊でやんちゃで、いつも笑っているような表情をしていたバディ。失明した時に何故思い出さなかったのだろうか。この時に初めて希望が持てた気がした。


「覚えてたな」


 幼馴染みの安堵したような声。余程心配をさせていたのだと申し訳なさに胸が痛んだ。そんな俺の手に何かが触れた。


 まだ柔らかさの残る毛の感触。

 鼻を鳴らす音。


 懐かしい手触りでラブラドールの仔犬だとわかる。

 手を差し出すと、そこにすっぽりと仔犬を宛がわれた。


「バディ、頑張ってますよ」


 正面から聞き覚えのある声がした。バディを預かった時、バディを返した時、その人は言っていた。自分がバディを訓練するのだと。訓練に合格したら、バディは相棒のもとで立派な仕事をするのだと。その人は盲導犬の訓練士だった。


「あなたがバディをいっぱい愛してくれたから、あの子はとても人を好きになったのよ」


 バディが盲導犬の試験に合格したと連絡が来た時に、訓練士が言ってくれた言葉は、俺を誇らしい気持ちにしてくれたのを覚えている。


「俺にもバディのような相棒が持てるでしょうか」

 出てきたの自分でも信じられないような言葉だった。


「今のままでは駄目。最低限、自分で外出できるようにならないと」

 俺の状態を知っていたのか、彼女の口調は厳しかった。


 盲導犬を持とう。

 バディに胸を張って生きられるように。

 腕の中の仔犬を抱き締めて、俺はそう誓った。


 目を閉じる。直後感じたのは水の冷たさだった。目を閉じるまで鮮明に感じていた事が嘘のように消えている。どうや俺は夢を見ているらしい。


 重苦しく全身を覆うのは水圧。

 深く深く沈んでいく感覚には覚えがあった。


  これは最悪な時の感じだ。

  暗く、冷たい、水の中。

  ――でも、何かが違う。


 冷たい中でも、一部、暖かい気配が漂っている。

 まとわりつく感じは似ているが、不快ではない。


 それが何か気づいて、水底に沈んでいた身体が浮き上がる。浮力で段々と水面に上がっていくに従い、日の光を浴びるように暖かくなっていく。


 もうすぐ目が覚めそうだ。

 目を開けると、そこには、頼もしい相棒(バディ)の姿があるはずだ。

初期設定は網膜剥離で失明でしたが、両目とも網膜剥離で失明とはちょいと無理があるかと思い、事故による失明に変更しました。基本は変わっていませんが、以前よりは納得できる形になったのではないかと思います。

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