Lesson4,優しい距離の縮め方
ここからがっつりリメイク入ってます
「ど、どうしよう……」
静まり返る図書館の中、紗雪は思わずポツリと呟いた。
テスト期間が始まって学校が試験休みに入ったため、紗雪は地域の図書館へやってきた。
先月、ようやくリニューアルした地元の図書館は、真新しい空気に包まれているが、くつろぎ空間の広がる穏やかな雰囲気だ。
図書館好きの紗雪にとっては既に常連化している場所で、所蔵書庫も以前にも増して充実している事もあってか、利用者は多いように見受けられる。
一人で勉強をしていたものの、長時間の集中力を持ち合わせていない紗雪は、誘惑に負けて読みたい本を探しに本棚の波の中を来てしまった。
が、読みたい本を見つけたまではよかったのだが、所狭しと並んでいる本棚の中でも上の方に並んでおり、紗雪が手を伸ばしても本の下部に指先がちょっと引っかかる程度だ。
周囲に利用者用の脚立を探したものの、既に誰かが使用しており、あろうことか脚立に座ったまま本を読んでいる。
人見知りの激しい紗雪が、その人に断りを入れて脚立を借りれるはずもなく、諦めるべきかと途方に暮れていたのだが、絶版になっていた書籍という理由もあり、どうしても手に取りたい。
仕方なしに背伸びをして本を取ろうと試みれば、希望の書籍に伴い、両隣――その棚に並んでいる本が釣られて
落ちそうになるのを見て、紗雪は慌てて本を取る動作を辞めるも、ぐらりと揺れ押し寄せてきた本の背表紙たちに、紗雪は落下を予期して思わず目を閉じる。
と同時に、背伸びしていた足がぐらつき、後ろにふらついたコンマ数秒後、ふわりと自分を包み込む温かさに驚き目を見開いたのだが。
「っと、セーフ。あ、やっぱり紗雪ちゃんだ」
「あっ……えっ? あ、そ、総せんぱ……い……?」
「はい、総先輩です。こんにちは。大丈夫だった?」
未だパニックになっている紗雪に対し、穏やかで優しい挨拶と共に笑顔を向けた総は、いつの間にか抱きかかえるようにつかんでいた紗雪の肩からゆっくり手を離すと、落ちそうになっていた本を抑えていたもう片方の腕に振り返り、本を戸棚に押し戻した。
「はい、この本でよかった?」
振り返りざまに差し出された本を、紗雪が無意識に受け取ると、間違いなく紗雪が読みたい本で。
この時になってようやく自分が総に助けられた事を理解した紗雪が、小声を保ちながら慌てて頭を下げた。
「あ、す、すみませんでしたっ……あのっ、あ、ありがとうございますっ」
「うん。無事ならよかった」
ホッとした総の言葉に、紗雪も思わずホッとする。顔をあげて総を見つめれば、総も紗雪を見つめ、それからほっこりと微笑んでくれる。
あれ以来だろうか――最近、こうやって総にバッタリと出会うことが増えてきた。
紗雪の人見知りと赤面症を理解した総が、少しずつ声をかけてくれるようになったのがきっかけだと思う。
あまりダラダラとした長話をすることもなく、かと言って中途半端に挨拶や天気の話だけをするわけでもない。
ちょうどいい距離感と会話の長さを保ちながら、総は少しずつ会話の時間を増やしてくれている気がする。
最初は紗雪もしどろもどろになり、会話が成り立っていないのではないかと不安に駆られる事もあったのだが、総は粘り強く紗雪の言いたいことを理解しようとしてくれる。相手を不愉快にさせているかもしれないという紗雪の不安を取り除くように、総は聞き上手だ。
会話をしたならば、当然知り合いという認識となり、意識しているのもあるのだろうが、二人の活動範囲が思いの外、被っている事が分かってきた。
「紗雪ちゃんはテスト勉強?」
「はい。い、息抜きに……本を読みたくなって……あ、あのっ……総先輩、も……テスト勉強……です、か?」
「うん、寮だと周りが煩いから、勉強する時は図書館や図書室が多いかな」
周囲に配慮し、ひっそりと語る総の声は低音ながらも心地よい。耳に残る温もりある言葉を噛みしめながら、紗雪は自然とほころぶように笑顔を向ける。
そんな紗雪の表情に釣られ、総も笑みをこぼしながら、先ほど渡した本を大事そうに両手で抱える彼女の愛らしい動作に目を細めた。
「勉強進んでる?」
もう少しだけ、偶然にも出会えた紗雪との会話を続けようと話題を出せば、紗雪は笑顔を固まらせ、グッと息を呑むと、わかりやすいほど視線を泳がせはじめた。
「……えっと、す……進んでは……いる、はずで……す」
鈍足ですが、と心の中で付け足した紗雪の気持ちをくみ取るように、総は思わず小さく噴出す。
「ふふっ、もしかしてあまり得意ではないのかな?」
「……び、微力なもので……」
ここで頭のいい相手に取り繕っても仕方がないとばかりに、肩を落としながら紗雪が自白すると、総は耐えられないように顔をそむけ、口元を手の甲で覆いながらクスクスと笑みをこぼした。
「正直者だね、紗雪ちゃんは」
「うぅ……面目ありません……」
本来、必要のない謝罪ではあるものの、あまりにも素直すぎる紗雪の反応に、総の笑みは止まらない。
頭の良し悪しを認めたことではなく、純粋にその素直さが愛らしいと思っているのだ。
最近では会話の中でもあまり顔を赤く染める事もなくなっていた紗雪が、恥ずかしそうに赤くなっているのを見て、総は眉尻を下げながら微笑み、紗雪の視線に合わせるよう身をかがめると、困っている様子の可愛い後輩に提案してみた。
「紗雪ちゃん。俺とデートしない?」
◇◆◇
「数Ⅱ?」
「は、はい……」
「どのページ?」
「あ、は、範囲は……こ、ここから、ここ……までです」
「うわっ懐かしい……俺に分かるかな?」
「わ、分からない……ですか?」
「不安?」
「あ、危ない教科なので……教えて……も、貰いたいです」
「ノートは取ってるの?」
「と、取ってます」
そう言ってカバンからノートを取り出して差し出すと、総はそれを受け取ってペラペラとめくり始めた。
図書館から場所を移し、二人は近くのファストフード店にやってきた。
総が突然デートに誘ってきたことに一瞬でパニックになり、静まり返った図書館で悲鳴をあげそうになったのを、必死に呑み込んだ自分を褒めたいと紗雪は思う。
言い方が紛らわしかったのだが、彼はどうやら場所を移して勉強を教えてくれるつもりで、デートという言葉を選んだらしい。
総の勉強の邪魔になるからと遠慮したのだけれど、彼は思いの外頑なで、やんわりとした口調のまま紗雪を言いくるめる事に成功する。
内気な自分が腹立たしく、こういう押しに弱い分、迷惑をかけているのではないかと思うとなおのこと腹が立つ。
勉強を教えるとなれば多少の会話が必要になり、併設された学習室も検討していたのだが、丁度二人とも小腹がすいているということで、図書館を出てファストフード店での勉強会という事になった。
せめても、と、飲み物を奢らせてもらった紗雪だが、軽食をお返しにと奢ってもらってのでは意味がない。
奢る奢らないの押し問答も、結局総のいいように言いくるめられ、紗雪は素直にごちそうになる事にした。
飲み物と軽食でまったり過ごしたところで、勉強が始まったのだが――。
「綺麗な字だね」
「あ、ありがとうござい、ます」
周囲の目があるとはいえ、時刻は昼のピークを過ぎて客は少な目だ。二人でいる状況にとてつもなく緊張しているのを悟られないよう、必死に距離を保っているのだが、総はなぜか隣に座ってきた。
こういう時はテーブルを挟んで向かい側に座るものだと思っていたのだが、一緒の教科書を見なければならないという状況からか、ピッタリと横に寄り添ってくる。
男性が苦手だと言った沙雪の言葉を忘れているのか、それともわざとなのか分からないけれど、どちらにしろ身が持たない。
沙雪は必死に勉強に集中しつつ、周囲の目がある事を自分に言い聞かせながら現状忘れようと努力する。
元々、頭がいいとは聞いていたが、総は勉強を教えるのもうまい。
彼が教えてくれるところがスラスラと出来た途端、今までの苦労はなんだったのかと思えるほど視界が開ける感覚だ。
「あ、違う。ここ、aの二乗だから……」
「な、なるほど……? あれ?」
「そこは合ってるから大丈夫。こっちだね」
「は、はいっ……」
問題集を解いていく沙雪の横で、総は素早く間違いを指摘する。
指摘する際、目の前に総の長い指が差し出されて思わずドキッとしてしまった。
自分の手と見比べても明らかに総の手は大きくて、指も長い。ゴツゴツとした骨格と薄く浮かんでいる血管。男の人の手を間近で見つめる機会などなかった紗雪にとって、総の手は特別なものに思える。
「紗雪ちゃん?」
問題集の上を走らせていたペンが止まった事に、総の顔が間近で紗雪を覗き込んできた。
「っ!」
驚いて顔をあげたのがいけなかった。
思いの外、総が間近で覗き込んでいたらしく、勢いよく上げた紗雪の頭と、総の鼻先がぶつかった。
紗雪が頭に感じた衝動に驚き、総も痛みのあまり鼻を押さえるも、紗雪がパニックを起こしたのは言うまでもなく。
「きゃっ! ご、ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」
「だ、大丈夫……俺こそごめんね、びっくりさせちゃって」
「ごめ……っ! 鼻大丈夫ですかっ!? 血とか出て?!」
「ないない。大丈夫だから落ち着いて」
紗雪の小さな悲鳴に周囲が一瞬何事かと視線を集中させるも、大事ではないと理解した途端、視線は散開する。
周囲の動きなど気づきもせず、紗雪は謝罪を繰り返す。
真っ赤になった鼻を押さえながらも、笑いながら許してくれる総に申し訳なく、涙目になりながら自己嫌悪に陥りだす。そんな紗雪の気持ちを理解したのか、総はスンッと鼻を鳴らして。
「……じゃあ、お仕置き」
「ふぁっ!?」
唐突にテーブルの下で握りしめられた手の温もりに紗雪は思考を停止させた。
鼻を押さえていない反対側の総の手が、紗雪の手を握りしめている。
先ほどまで見惚れてしまっていた総の手は、想像より冷たく、そして見ていたよりも大きく感じられた。
ぎゅっと握りしめられたかと思えば、するりと力が緩まり、紗雪の細い指の間に、総の長く角ばった指が滑り込む。
指同士が絡み合い、掌が重なれば、どちらの掌かわからないほど汗ばんでいる。
数秒の出来事。
けれど総の手が伝える温もり、一つ一つがなぜか艶めかしく、酷くイケナイ事をしている気分になる。
紗雪の心臓が信じられないほど大きな音を立てて跳ね上がった。
「え……あっ……そっ、せ、せんぱ……」
動揺のあまり言葉が紡ぎ出せない紗雪の様子を見ながら、総はようやく痛みが引いてきた鼻から手を離し、わざと意地悪く笑って、絶妙な力加減で紗雪の手をグッと痛いくらい握りしめる。
「っ……痛いっ……ですっ」
何がどうなっているのか理解できないまま、思わず呟けば、紗雪の反応に満足したのか、ゆっくりと握りしめられた手が離される。
「ん、お仕置きおしまい。さ、続きやろうか」
何事もなかったかのようにふるまいだした総の態度に呆気にとられるも、紗雪は置いてけぼりの感情を押し込んだまま問題集に視線を向ける。
平然と問題を解説しはじめた総の言葉が頭に入ってこないまま、先ほどの流れるような一連の騒動を冷静に思い起こした途端、瞬間湯沸かし器のようにボッと顔が真っ赤に染まるのが分かった。
何が起こったのか説明してほしい。
周囲がそんな二人を見ているわけもなく、それぞれの時間が過ぎていく。
一瞬、時間が止まったのかと錯覚さえした。
手を離してほしくないと思ってしまった自分が一番恥ずかしい。
ズルい――。
自身の顔が耳まで熱くなっている事にますます羞恥を重ねた紗雪は、平然と問題の解説を続ける総を恨めしく思うのも無理はない。
紗雪の性格を理解し、唐突な方法でパニックをおさめてくれたことも、お仕置きがお仕置きになっていないことも、全部含めて彼はズルいのだ。あまりの不公平さを嘆きたくなり、チラリと総を盗み見たのだが。
思わず視線をそらしてしまったのは、もう仕方がない事なのだ。
盗み見た彼の横顔が、耳まで赤く染まっている事を知ってしまったのだから。
自分だけではなかったと理解した途端、にやけてしまいそうな顔を見られぬよう、紗雪も問題集を睨みつけてしまったのは、もう仕方がない事なのだ――。
3/2コピペミスで改行が変な状況になっていたため、修正しました。読みにくい形で掲載して申し訳ございません。