Lesson3,努力の考え方
放課後、テストが近いせいか生徒の姿も部活動をする姿もすでにない。
いつも見ている練習風景が見られないと思うと、少しだけ残念だけれど。夕日が差し込む教室で、沙雪は日誌を書いていた。
沙雪の教室はデザイン科の為に他の科の教室とは別棟にあって、図書室からいつも見ているグラウンドは見えず、小グラウンドが見える。
部活動が盛んになる春先から夏頃まで、大会に出場する二、三年生達が、ホームグラウンドを使用し、部活動に入りたての一年生や、補欠にも選ばれなかった生徒達が小グラウンドを使用することが多い。
その小グラウンドに一つの影が伸びていることに気がついて、沙雪は日誌を書く手を止めて窓の外を見た。
走る影は総のものだった。
息を切らしながらジョギングの足並みで走る総を見て、沙雪は思わず見惚れてしまう。
何度見ても惚れる美しい走り方だと思う。インターハイに出場した笹木の走りも見たことはあるが、あそこまで伸びやかで美しいものではなかった。ただ、足の速さに影響するものかどうかは、陸上素人の紗雪にはわからない。
たった一人で走り続けている彼と、知り合いになれたのがまだ不思議なくらいで。
憧れていた人が、手の届く範囲にいるという不思議な感覚は、沙雪の心をふわふわとさせ、今なら空も飛べてしまうのではないかと思えてしまう。
――きっと自分は浮かれているのだと思ったが、それと同時に、知り合いになれただけでそんなに仲がいいわけでもないのに……と自分の思考の甘さを叱咤する。
そう考え込んでいると、総の動きがゆっくりと徒歩に変わり、そのままグラウンドの隅に移動し、小さく出来た石の段差に腰を下ろしたのを見て、休憩に入ったのだと悟った。
体操服で汗を拭う総の姿を見て、沙雪は思わずガタリと椅子を鳴らして立ち上がる。
何を思ったのか――否、何も考えないまま、沙雪は自分の使っていない綺麗なタオルを持って、総の元へ走った。
体が勝手に……というものかもしれない。
走ることは苦手だ。
走るだけに限らず、運動は全て苦手なのだが、なぜか総の元へ向かっているのだと思ったら、足取りは軽く、息も弾む。小走りになっている自分が無意識に笑顔になっている事に、紗雪は気が付かない。
心臓が次第にバクバクと音を大きくしているのは、小走りしているからだと言い訳したい。
ようやく小グラウンドに辿り着いた沙雪は、ここまで来たのに、急に羞恥に囚われた。
一度しか会話していない自分が差し出がましいのではないか、と改めて自分の行動を省みたが、それでも知り合いになれたことの嬉しさに後押しされ、総の背後から静かにタオルを差し出す。
すると総は驚いて沙雪に振り返った。
「沙雪ちゃ……」
名前を呼ぼうとするけれど、呼吸が乱れていてうまくいかない。
沙雪顔を赤く染めながらタオルをもう一度差し出すと、総は静かに笑って差し出したタオルを受け取り、汗を拭いた。
それから呼吸を整えるように大きく深呼吸をする。
「ありがとう」
ようやくしっかりとした言葉で感謝の言葉を述べられた。
ニッコリと微笑む総を見て、沙雪はますます顔を赤くする。
たった一度、天音に紹介されただけなのに図々しいことをしたかもしれない、と思っていた沙雪に対し、優しい言葉をかけてくれた総の気遣いがありがたかった。
そんな沙雪を見つめながら、総は自分の横の段差をポンポンと軽く叩いてみせる。
ここに座れといいたいらしい。
沙雪は素直に、少しだけ距離をあけて座るけれど、総を見ることが出来なくて、自分の膝を抱え込んだ。
しばらく何を話せばいいかわからずに、気まずい沈黙が走ったけれど、最初にそれを破ったのは総だった。
「沙雪ちゃん、あのさ。嫌なこと聞いちゃうかもしれないけど……もしかして俺のこと苦手……か、嫌いかな?」
突然の質問に驚いた。
どうしたらそういう疑問が浮かんだのだろうと、こちらが聞き返したい。
むしろその逆で、本当はずっと前から憧れていたのだという想いがあふれ出しそうになったのだが、内気な沙雪の口からそれが素直に零れだすわけもなく、顔を真っ赤にしてそれを表現して否定した。
「あのっ! ちがっ……私……そのっ……男の人がっ……苦手、っで……その……私の家……お、女家系で……父がいなくて……姉が四人居て……あと、母が居て、その、つまり……男の人と……えっと……」
必死に言い訳をするも、答えが追いつかずにパニックになる。
涙目になりながら顔を赤くしている沙雪を見て、総はゆっくりと頷いて微笑んだ。
「大丈夫だよ。ゆっくり話てごらん?」
「うぁ……そ……す、すいません……わ、私……」
自分の顔が真っ赤になっているのがわかる。普通の会話すらできない自分がもどかしい。どうにかしたいと思っていても、この赤面症はどうにもなおらない。
そんな自分がますます恥ずかしくなって、会話も尻すぼみになっていく紗雪に対して、総は穏やかな声で呟いた。
「……あ、夕日」
静かな総の言葉に、沙雪は思わず沈んでいく太陽に顔を向ける。
それから、ふと、総の顔を見るとフワリと笑顔が返ってきた。
「俺も顔赤いでしょ? 夕日のせいだよ」
どこまでも優しくしてくれる総の気遣いに、また涙がこぼれそうになる。
それを必死に隠そうと、自分の膝に顔を埋めて沙雪は耳まで赤く染めながら話題を考えた。
「あ……せ、先輩……は……ど、どうして……私……の……名前、知って……?」
うまく伝えられたかはわからないけれど、ずっと聞きたかったことだった。
確かに沙雪は文化祭でソロパートを歌っていたけれど、名前を公表するようなことはコーラス部ではしていなかったはずだった。
ソロパートだって、臨時でやっただけだし、沙雪だけではなく他にも数名の人が歌っていたのに、なぜ自分を知っていたのかが知りたかったのだ。
「文化祭の時、……ほら前も言ったけどソロで歌っていた時あったでしょう? 最初は天音がピアノをやるってことしか聞いてなかったけれど、コーラス部の伴奏だなんて知らなかったから驚いちゃって」
ゆっくりと話してくれる総の声に引き寄せられるように、沙雪はゆっくりと顔を上げる。
総は沙雪の方を見ていなくて、沈んでいく夕日をジッと見つめて続けた。
「静かな体育館に、天音のピアノが響いて……合唱から……沙雪ちゃんのソロ。すっごく感動した。俺、音楽ってあまり興味がないから、天音のピアノ以外に感動したことなんてなかったんだ」
そう零し、一呼吸を置いた後に続けるように言う。
「……何度か廊下ですれ違って、ずっと下を向いて歩いている子がいるなぁ、って思ってた子が、すごく堂々と胸を張って綺麗なソプラノの声で唄っていて。ああ、あの子だ。って……」
そう言いながら穏やかな笑顔でゆっくりとこちらを見て。
「気になって天音に聞いたんだ。それが沙雪ちゃんだった」
沙雪はその表情に顔も視線もそむけることができないでいた。
美形とまでは言わないものの、輪郭のラインが綺麗で、顔立ちもいい。
肩幅も広く、知らない男という存在を思わせる。
そんな彼が自分と同じように意識をしてくれていたなんて知ると、嬉しいようで恥ずかしさがこみ上げて、何だか酷くもどかしい気持ちになる。
物静かな笑みに夕日が当たる。
穏やかに、優しいその表情を見て、沙雪は無意識につられるように微笑んでいた。
「先輩も……先輩も綺麗です。男の人に……そう言うのは……可笑しいかもしれません……けど……。でも……一生懸命になっている……先輩が……すごく……素敵だと思います……」
沙雪の言葉に、総は先ほどまでの穏やかな表情を一瞬で曇らせる。
ただ静かに、悲しそうに微笑んで、辛そうな声をあげた。
「そんなこと……ないんだよ……」
眉を寄せて、地面を睨みつけるように、でも悲しそうな瞳に、沙雪はどう答えればいいかわからなかった。
「ダメなんだよ……どう頑張っても……勝てないし、追いつけない。追い越そうとした人さえ見失った……結構、キツイ……」
本当に辛そうに、悲しそうに語る先輩に、沙雪はどうしようもなくなってしまった。
一体それは誰のことを差しているのかも、どういう状況なのかも把握しきれないし、第一、自分には人を気遣うとかそういう芸当はできない。
総みたいに立派ではないし、凄くはない。
総には総のいいところが沢山あるのに、どうしてダメなんて言うのだろう。
色々考えても、どう言えば総の為になるとかわからない。
どうしてそんな風に言ってしまうのだろうかと、一緒に悩んでしまうのだが。
「……あの……目の前に、誰かが居なければ……ダメ、なんでしょうか……?」
「――え?」
「その……勝つとか……追いつくとか……目の前に誰かが居ないと……ダメな、ものなのですか?」
沙雪の質問に、総は口を閉ざして真剣な眼差しで見つめている。
沙雪は首をひねりながら、思ったことをポツポツと話し始めた。
「えっと……その……一緒にするのは可笑しいかもしれないですけど……私……唄うの……すごく好きです。練習と、か……すごく辛いけ、けど、高い声が出ない時とか……すごく悲しくなるけど……唄い終わった後って……すごくスッキリするんです。唄ってよかった……って。れ、練習頑張った甲斐があった、って。勝つとか、大切ですけど……た、大切ってそれだけじゃ、ない気がするんです……あっ! も、もちろん、勝負なら……勝つのは、大切だけれどっ」
しどろもどろに話す沙雪の言葉を、総は真剣に耳を傾けてくれているようで静かに聴き続けている。
沙雪はその様子に気がつかないままぎゅっと自分の両手を膝の上で握り締めて一生懸命に話を続けた。
「目の前に……誰かが居なきゃ不安って言うのは……いつまでも……誰かの背中を見てるってこと、で、すよね? それって……最初から、ま、負けてませんか? ……もしかしたら……先輩はいつの間にか追い越して……皆が先輩の背中を見ているの、か、も知れない、のに……」
今まで紗雪が人生を左右するほど大きな勝敗にかかわった事は受験くらいで、争い事などしたことはない。
勝負の世界で生きている人にしてみれば、紗雪の言っていることは綺麗事だ。
誰かのようになりたいと思う志は間違っていない。それも一つの目標の有り方だろう。
しかし、総の語る目標は他人ありきのものであることが、勝敗の世界に疎い紗雪にとっては不思議でたまらない。
自分が誰かの目標になっていると考えたことはないのだろうか。
実際、紗雪は総に憧れた。
自分にできそうもない、誰にも認められない努力をひたすら継続するという芸当は紗雪には到底無理な事だ。
無理だからこそ憧れる。それが嫉妬に変わることも時々はある。
あの人が出来るのにどうして自分は出来ないのだろうというもどかしさは、誰かを見下げるようで紗雪は恥ずかしいと思っている。
話終えた沙雪が、総の方をゆっくりと見ると、総は呆けた表情で凝視していて驚いた。
「……あの……すみません……え、らそうなこと……い……言っちゃって……」
沙雪が申し訳なさそうに萎縮すると、総はようやくハッと我に返ったような表情をして沙雪を見つめなおす。
ようやく視線が合ったかと思えば、総はハハッと乾いた笑いを浮かべて小さく呟いた。
「そんな風に考えもしなかった……すごい、ね。うん、そうか、そう考えればいいんだ」
「え……えっと……?」
「ありがとう沙雪ちゃん」
「ふぁ?」
「すごい弱気になってた……叱ってくれてありがとう」
叱ったつもりはなかったけれど、総が嬉しそうに笑うのを見て、沙雪も嬉しくなって微笑んだのだった。